⑤末裔のバラッド
ホテルに戻って車を置いて、近くのスーパーに向かう。都会で暮らしはじめて羨ましくなった田舎要素の一つがスーパーのデカさだ。狭い都会のスーパーでは一瞬で消え去ってしまうようなカップ麺やお菓子が平気で置いてあるし、値段も安いので実家に帰るたび何かしら買って持って帰っている。その実家近くのスーパーよりもさらに大きな店内を相当歩き回り、やっと見つけた墓参りセットと菊の花を購入。ついでに妹が喜び勇んで見つけてきた信玄餅アイスクレープも買い、食べ歩きで寺へと向かう。うまい。
今回の旅行、帰省といっても親族としてのタスクは墓参りだけだ。小高い山の麓の立派な松林に囲まれた寺。ここに来るのは祖父の初盆以来だけれど、その時の記憶よりもお墓が増えているように見える。晴れて陽が射してきて、新しい墓石が敷地の奥の方でぴかぴか光っていた。母に頼まれて共用の物置に行き、小さな蜘蛛の巣を払いながら軍手とブラシを取り出す。父が汲んできた水を墓石に流し、母とブラシで埃や苔を落とす。こびりついた木の実かなにかの汚れが取れず苦心している。私は母から受け取った供台の花瓶を共用の流しで洗う。こちらもさすがに全部の汚れは落としきれない。妹は山道で置き場のない3人分の荷物を持っている。掃除を終えて使ったブラシを洗って戻し、買ってきた花を活ける。妹が墓参りセットについていたマッチで線香と蝋燭に火をつけ、供台に立てる。一人ずつ順番に手を合わせる。
こうやって何かに手を合わせるたび、ツイッターで見かけた「お参りは神様へのお願い事じゃなくて決意をしに行く場だ」という言葉を思い出す。たぶん初詣の話だけど。大学で習った民俗学知識によれば、確か死んだじいちゃんやばあちゃんが神様に昇格するのはあと何十年も先の話だ※。決意もするが、とりあえずはただ見守っておいて欲しい…と心の中で唱えることすら野暮に思える言葉をいつも、あえて言葉にしないまま目の前に投げかけることにしている。言葉に頼るのは生きた人間相手の時だけでいい。
参り終えて、あんまりいい趣味ではないかもしれんけど、しばらく広い墓地内をぶらぶらと歩き回った。黒御影の墓石が多いのは東日本ならではだよな、とか考えながら。松林の隙間から市街地が見渡せる場所を歩いていると、大きな半球をベースにした抽象彫刻そのものの墓石がひときわ目を引いた。北東北の小さな町の古い寺に、これほど異様な墓石も他には無いだろう。彫刻家の方だろうか。帰り道すがらそのお墓に彫られていた名前(個人墓だった)で検索してみたけれど、ありふれた名前なのもあって何も見つけることはできなかった。ググってわからないことなんてどんどん減っているけど、こうしてあまりにもささやかに、通りがかる人を引きつけ続けるものはまだ確かにある。
※東日本で五十回忌、西日本で三十三回忌の場合が多い“弔い上げ”で年忌法要がすべて終わると、“死んだ誰々の魂”は“ご先祖様”という大きな括りの一部になる。神道にも仏教にもある風習なので、そのどちらよりも古い原始的な祖霊信仰が由来なのかもしれない。私の親族は法要の類にドライな方だし、私自身神輿も担いだことのないニュータウン育ちだから、実際“弔い上げ”自体が今の日本にどの程度残っているのかはよく知らない。