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桓武天皇は何をした人?行なった政策を紹介

桓武かんむ天皇とは、長岡京・平安京への遷都せんと蝦夷えみし討伐に尽力し、平安時代を開いた天皇です。

桓武天皇はどんな人、行った政策を紹介していきます。

桓武天皇はどんな人

奈良から平安時代にかけて生きた天皇であり、平安京を造築し、平安時代を開いた人物です。

737〜806年にかけて生き、天皇としての在位期間は781〜806年です。

本名は山部やまべと言います。

父は先代である光仁こうにん天皇、母は高野新笠たかののにいがさという渡来系氏族とらいけいしぞくの女性です。

渡来人の血を引く天皇は過去にいないので、特徴的と言えます。

45歳という比較的遅い時期に即位し、それまでは大学頭だいがくのかみ侍従じじゅうという官職を歴任していました。

当時、天皇になるには家柄の良さや臣下の働きなどが必要であり、自分の努力だけでは限界がありました。

母が渡来系氏族という、比較的身分が低い立場にあったので、即位は厳しかったです。

他戸親王おさべしんのうという桓武とは腹違いの別の兄弟が、次期天皇として有力視されていました。

しかし、臣下である藤原百川ふじわらのももかわの尽力により、桓武天皇が即位することになりました。

桓武天皇は、奈良から平安にかけて生きた天皇です。

行なった政策

桓武かんむ天皇が行なった、長岡京と平安京への遷都せんと蝦夷えみしとの戦争という、3つの代表的な政策を紹介します。

長岡京に遷都

784年に、平城京から、山城国乙訓郡やましろのくにおとくにぐん(現:京都と大阪の間あたり)に建てた長岡京へ遷都しました。

遷都とは、日本の中心地で政治を行う場所である都を、別の場所に移動させることです。

長岡京への遷都の理由は、政治環境を改善し、新たな政権を確立することです。
1つは仏教の教団を排除したことです。

当時は仏教の考えが国に強く関わっており、仏教教団が政界に影響力を持っていました。

それを排除するため、遷都の前に、寺院の移転と新設の禁止命令を出しました。

その後に遷都するが、教団が力を持つには都に寺院を移転して密着しないといけないが、禁止されているのでできません。

そしてその後、僧たちの寺外での布教活動を禁止し、長岡京へは完全に近づけさせないようにしました。

これで仏教教団による政治への加入を阻止しました。

2つ目は、桓武政権の敵と味方を分けたことです。

遷都するには多くの労力と費用がかかり、反発する人たちもいます。

遷都に賛成する者を味方とし、反発する者は排除し、新たな陣営を作るためです。

785年に、長岡京建設において監督の立場だった藤原種継ふじわらのたねつぐが暗殺される事件が起こります。

犯人は大伴家持おおとものやかもちを中心とした勢力であり、桓武政権を崩壊させるためのクーデターでした。

皇太子で桓武天皇の弟の早良親王さわらしんのうも関わっており、処罰として幽閉ゆうへいされました。

敵と味方を分ける目的の上では、こういう事件が起こるのは想定内だったと言え、反発する勢力を排除したことになります。

しかし、最も信頼していた藤原種継の死は、桓武天皇も望んではいなかったと思われます。

長岡京とは、政治環境を改善するべく、784年に平城京から遷都されました。

平安京に遷都

794年に、長岡京から山城国葛野・愛宕両郡やましろのくにかどのあたごりょうぐんにまたがる(現:京都市街)地域にある、平安京へと遷都しました。

長岡京はわずか10年で廃都となりますが、その理由は多数あり、様々な原因があったと考えられます。

1つは洪水による災害です。

長岡京には桂川かつらがわ淀川よどがわなどがあり、水上交通に適した地域です。

この地に長岡京を建築した理由の1つでもあるが、洪水の被害に遭うリスクがありました。

2つ目は早良親王の怨霊です。

藤原種継が暗殺された事件に早良親王が関わっていましたが、処罰として幽閉されます。

講義をするためわざと食事を取らなかったが、最後は餓死しました。

この後に、桓武天皇の夫人である藤原旅子ふじわらのたびこ、母の高野新笠たかののにいがさ、皇后の藤原乙牟漏ふじわらのおとむろが立て続けに死去しました。

早良親王の恨みでこの事態が起こったと思い、不吉に感じて遷都したということです。

その他には財政問題があります。

様々な原因が重なり、わずか10年で平安京に遷都することになりました。

平安京から長岡京はそれほど離れておらず、同じ地域環境にある場所を選びました。

平安京の名前の由来は、平和で安らかであるようにという意味が込められており、この都に対する思いが伝わるでしょう。

この地域を選んだ理由はわからないが、渡来人説があります。

桓武天皇は、母が渡来人の血を引いていることが原因なのか、渡来人と深い関わりがあると言われています。

渡来系氏族である百済王くだらのこにきし氏を外戚だと宣言し、優遇しているのが例です。

平安京の大内裏がある場所は、元は渡来系氏族の秦河勝はたのかわかつの邸宅と伝わりがあり、その地を提供したことになります。

その他、平安京の地にはた氏の氏寺である広隆寺こうりゅうじが移転しており、渡来人の協力があったと言えるでしょう。

平安京は794年に遷都され、1869年に東京へ遷都されるまでの1000年以上続いた都です。

蝦夷との戦争

桓武天皇は、蝦夷との戦争にも関わりました。

蝦夷とは、東北から北方方面に住んでた人々であり、日本の統治下ではない地域です。

その地域を治めるために、桓武天皇の即位以前から争いが起きていました。

蝦夷側も日本の領土に侵攻しており、取り組まざるを得ない問題です。

桓武天皇がこの戦いに終止符を打ち、完全ではないが大きく制圧することができました。

789年の戦いは、アテルイが率いる蝦夷軍に敗北します。

791年には、大伴弟麻呂おおとものおとまろを征夷大将軍、坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろを副将軍とし、蝦夷軍を撃破しました。

801年には、坂上田村麻呂を征夷大将軍として遠征し、再び蝦夷軍に勝利します。

802年の戦いでは、田村麻呂がアテルイを降伏させ、蝦夷を大きく制圧しました。

田村麻呂は朝廷にアテルイの助命を頼んだが、叶わずにアテルイは処刑されます。

桓武天皇は、坂上田村麻呂を抜擢して勝利に導きました。

坂上氏は、元々渡来系氏族である漢氏から枝分かれした一族という、渡来人の血を引く一族です。

田村麻呂を抜擢したのは、上記でも述べた、桓武天皇が渡来人に執着している部分と考えられます。

桓武天皇は、新しい国家を築くためにも、蝦夷討伐に尽力しました。

まとめ

桓武かんむ天皇は、737〜806年にかけて生き、天皇としての在位期間は781〜806年です

・45歳という比較的遅い時期に即位し、それまでは大学頭だいがくのかみ侍従じじゅうという官職を歴任していました

・桓武天皇が行なった主な政策は、長岡京・平安京への遷都せんと蝦夷えみしとの戦争です

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