「やり残したことがある」度合いが人生の価値を決める
司馬遼太郎『街道をゆく』を全巻(43冊)大人買いをした。
数冊はもともと持っていたので、それを除いて全巻買った。2万円台後半である。
こんなのが家にドカンと届けば揉め事になるのは必定なので、無論キンドルである。かなり長期間に渡り楽しめそうである。
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『街道をゆく』は司馬氏が旅行をして、その地の歴史・地理・人物について語っている紀行文集である。
氏が小説の舞台にする戦国・幕末あたりのことを中心に書いていると思いきや、そうではない。氏が書かない時代や地域について多くの紙幅を割いている。大分では宇佐八幡宮について書き、北海道では開拓について書いている。オランダではゴッホについて書いている。
その該博な知識に驚嘆させられる。こういう直接的に小説に採用しない情報も含めて頭に入っているから、あんな小説を書けたのだと思う。
人との出会いも多い。もともとの知人が行く地域に住んでいる場合は、顔を出しに来てくれるし、現地の有識者を紹介してもらって会うことも多い。
該博な知識に驚くのだが、おそらく旅の事前に調べ、旅行中に人と話し、帰ってからも改めて調べて紀行文に仕立てているのだろう。そういう過程を経て、知識をため込んでいったのだろう。
また、知己を増やしていく過程も知ることができた。よく、小説中に「知人に聞いたところ・・・」というシーンが出てくる。どうやって知人を得ていくのかと思っていたが、こうやって全国を回ってその場その場で人と会っていれば、どんどん知己を広げていける。頭が下がる。
氏は47歳のときにこのシリーズを書き始め、死ぬまで書き続けた。まさにライフワークだったわけだ。
こういうライフワークをこなしつつ、氏は『坂の上の雲』『翔ぶが如く』『菜の花の沖』などの大作を書き続けた。数年に渡るビッグプロジェクトを遂行しつつ、短編も多く書いている。ライフワークである『街道をゆく』のために旅行もしないといけない。大変なことである。
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氏が『坂の上の雲』を書き終えたのが49歳のとき。『街道をゆく』が始まった2年後のことである。
氏は『坂の上の雲』のあとがきで、「執筆時間が四年と三カ月かかった」「執筆期間以前の準備時間が五年ほどあったから、私の四十代はこの作品の世界を調べたり書いたりすることで消えてしまった」と書いている。
40代は、『坂の上の雲』のような大作をものするに足るほどの豊饒の期間である。アスリートであれば、若いころにピークがくるが、作家のような知的生産者はそうではない。我々ビジネスマンも同様であろう。
ほぼ40代を終わらんとしている私にとっても、40代はこれまでの人生で最高に豊饒の期間であった。相撲では「心技体」と表現されるが、まさにビジネスマンとしての心技体がもっとも充実していたように思う。
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ほぼ40代を終わらんとしていると書いたが、先日49歳になった。
織田信長が死んだ年である。近時、よく本能寺で死んだ信長の心情を考えるのであるが、彼はさぞかし口惜しかったろうと思う。なぜなら、あと10年も長生きしていれば、彼の年来の初志である天下統一を成し遂げられたと思うからだ。
この、死ぬにあたって「やり残したことがある」度合いが、その人の死の価値なのだろう。死の価値という言い回しは不吉なので、本稿では「人生の価値」と呼びたい。
小さな子供を抱えたまま死なざるをえない人は、死ぬに死ねないだろう。こういう人の人生の価値は大きいように思う。逆に、どんなにやり遂げたことが大きい偉い人でも、やり残したものがあまりない場合は、人生の価値は小さいのだろう。
そろそろ、社会的にはおっさんになってきた。
やり遂げたこともそれなりにある。しかし、だからこそ、自分の人生の価値を上げていきたい。繰り返しになるが、人生の価値は、「やり残したことがある」度合いである。やり残したことが多い、すなわち新しいチャレンジをしている途中であり、死ぬに死ねない状態を作り続けることにしたい。
仮に長生きして、百歳で死んでも、「途半ばにして斃れる」と言われるような、そんな人生を歩みたい。
幸い、世間には年配者(グレイヘア)は偉いという土壌がある。私はこれをおっさんパワーと呼んでいる。心技体は衰えて行くかもしれないが、この衰えを補うおっさんパワーでもってして、より社会に影響を与えたい。
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社会に影響と書いたが、4月から大学院生でもあるので、当面は自己錬磨の時間である。1年生として、老眼と戦いながら学問に励んでいる。
経済史を勉強しているのだが、人間の歴史である以上、意思決定の積み重ねである。意思決定の構造はまさにコーポレートガバナンスの考え方と共通するし、正確な意思決定をするための手段がコーポレートファイナンスである。経済史の研究においても、これまで得てきた知見も活かせそうである。
というわけで、少なくとも2年間は死ねないし、この間に死んだら「途半ばにして斃れる」と言われるようにはなった。
先日は誕生日にあたり、多くのフレンドからメッセージを拝受した。
48歳のおっさんが49歳になって何がめでたいのかよくわからないが、とにかく思い出してもらいありがたい。深く御礼申し上げる。死ぬ死ぬと書いているが、健康には全く問題ないのでご心配なく。
『人の生涯は、ときに小説に似ている。主題がある。』(竜馬がゆく) 私の人生の主題は、自分の能力を世に問い、評価してもらって社会に貢献することです。 本noteは自分の考えをより多くの人に知ってもらうために書いています。 少しでも皆様のご参考になれば幸いです。