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きよさんぽ「聖霊による義と平和と喜び」

ローマ 14:17 なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。19 ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。

この聖句には、「神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」とある。食べたり飲んだりすることは、私たちの基本的な欲求であり、非常に大切なことではあるが、私たちの生活には、聖霊による義と平和と喜びを求めることが必要なのである。要するに、神の国というのは、私たちから遠く離れたものではなく、生活に密接したものである。

ルカ 17:21 『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」

イエス・キリストは、「神の国はあなたがたのただ中にある。」と、言っている。

マタイ6:31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

こちらでも、イエス・キリストは、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って心配しなくてよい。」と語り、その後に、「まず神の国と神の義を求めなさい。」とある。
これは、基本的な欲求を心配するより、まず、神の国と神の義を求めることを勧めているのである。この「神の国と神の義を求める。」こととは、どのようなことなのかを見ていく。

■人の妨げやつまずきとなることをしない決心をする

ローマ 14:13 こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。14 私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。16 ですから、あなたがたが良いとしていることで、悪く言われないようにしなさい。

神の国と神の義を求めて生きるには、まず、ローマ 14:13 こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。とあるように、人の妨げやつまずきとなることをしない決心をすることからはじまる。
この人々が、さばきあう問題というのは、食べ物のことであり、今日も、人がさばきあう問題の多くは、自分の基本的な欲求や価値観などによるのかも知れない。
そのような問題の多くは、手段的な問題であり、本質的な問題ではない。
キリストのからだなる教会に集う人々も、価値観も性格も基準も、一人ひとりがまったく違う存在の集まりではあるが、本質的な部分となる、「神を愛し、隣人を愛すこと。」「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていくこと。」においては、一致した存在である。
私たちは、自分の価値観や基準で人をさばくのではなく、手段的な違いは、認め合いながら、自己の基準や価値観を押し付けるのではなく、本質的な部分で、繋がり励まし合う関係をもつことが大切である。

■聖霊による義と平和と喜び

ローマ 14:17 なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。19 ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。

私たちが、神の国に生きるために、人の妨げやつまずきとなることをしない決心をすると同時に、私たちは、聖霊による義と平和と喜びを求めなければならない。この聖霊の性質がなければ、私たちは、神の国の価値化や文化を理解することはできない。この聖霊のによる義と平和と喜びについて見ていく。

1、聖霊の義

ローマ 8:1 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。

キリスト・イエスのいのちである、聖霊の義は、私たちに本当の解放を与える。聖霊は、義なる方であり、私たちを罪と死からの律法から解放してくれる。この義によらなければ、私たちは、神の国を生きることはできないのである。自分の価値観や欲求ではなく、聖霊の義によって生きるならば、私たちは、解放された人生を生きることが可能となる。

2、聖霊の平和

聖霊の平和は、神との和解を与えてくれる。現代社会では、戦争や環境問題が解決されたら世界は平和になると考える方がいるかもしれないが、人間が求めるべき真の平和とは、神との和解にある。私たちが、神の国に生きるためには、イエス・キリストによって、神と和解をする必要がある。

Ⅱコリント 5:18 これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。19 すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。20 こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。

3、聖霊の喜び

ローマ 5:3 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

聖霊の喜びは、苦難から希望を生み出すことが可能であり、この希望は失望に終わることはない。この希望こそ、神の愛であり、私たちの心に豊かに注がれている神の愛なのである。
このような希望にあふれる喜びが、神の国を生きる人々に、豊かに与えられている。

ローマ 14:18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。19 ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。

この「聖霊による義と平和と喜び」があるならば、私たちは、キリストに仕えるものとなり、神に喜ばれ、人々にも認められるものとなる。神の国に生きるものとして、私たちが求めることは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことであり、決して、自分の価値観や基準で人を裁くことではない。

ローマ 5:1 こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。

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