聖書的自己像④「存在論」
1)存在論
存在論とは、様々に存在するもの(存在者)の個別の性質を問うのではなく、存在者を存在させる存在なるものの意味や根本規定についての学問である。存在論を取り扱う一般的な学問には、「第一哲学」と「形而上学」などがある。また、神学的な視点による存在論もある。
a,第一哲学
アリストテレスにより提唱された哲学の一分類であり、存在しているということをテーマとした学問。
b,形而上学
感覚ないし経験を超えた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理ついて理性的な思考により認識しようとする学問ないし哲学。
2)神学的存在論
ここからは、ティリッヒの組織神学一巻にて取り扱われている、存在論からヒントを得ながら考えていく。
a,神学的存在論の基礎的構造
存在論における思考の基礎とは、存在に基づいておこなわれる必要がある。
私たちは、存在を肯定的に受け止め、考えはじめなければならない。
存在には、問う主体と、問われる客体「主体ー客体」の構造(人間のみが意識可能)と根本的区分として「自己ー世界」構造が前提としてある。
・「主体ー客体」
この地上におけるすべての存在は、存在の構造に関与しているが、この存在の構造について「問いー主体」「問われー客体」ることを意識することが可能なのは、人間だけである。
なぜ、人間だけが、そのようなことを意識可能なのかというと、「人は、神のかたちに似せて創造された。」からである。*下記リンク参照
・「自己ー世界」
そのように、存在を意識することが可能な人間だけが、自己と世界(世界観)をもって生きることができるのである。
この自己と世界の共通項目のひとつは、人間は自己と世界を持つゆえに、環境を超越し、環境を克服することができるのである。
要するに、存在を意識することが可能な人間だけが、この世界で唯一、環境を克服することができる力をもつ存在なのである。(不快から快を生み出す存在)
b,神の啓示と理性
また、その自己と世界には、理性が必要であり、存在は、理性により、存在となるのである。この理性による、存在の問いに対して、神は啓示により答えるのである。人間がもつ自己と世界には、神の啓示と理性が必要なのである。
3)聖書的な存在論
出エジプト 3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」
神は、モーセに、ご自身の存在を「わたしはある」と説明した。
この神の存在こそ、聖書的存在論の本質であり、人間が存在する存在の源であり、答えでもあるのだ。
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