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子どもを対象としたワークショップにおける「ねらい」と「反応」のズレ、に学ぶ

今年の7月24日に丹波篠山チルドレンズミュージアムで子ども向けのワークショップをする予定で、その企画を練っています。
どのイベントにも「ねらい」があるわけですが、ここでは、その場に参加してくれる人にどんなことを考えてほしいか、どんなことに気がついてほしいかを、場をつくる人が考えておくものとしておきます。では、その企画者の「ねらい」と参加者が「考えたこと・気づいたこと」との間にズレがないようにワークショップを企画するのが正しいのでしょうか。

今、授業で「博物館をつくりだすーその実践へのアドバイス(小笠原喜康;チルドレンズミュージアム研究会)」を輪読し、実際に自分たちでイベントを企画しているのですが、その本の「古代人はなにを想う」という章で以下の内容が記載されていました。

日常的におこなっている考古学的な調査と「古代体験」との間には、ずいぶん大きなへだたりがある。我々が伝えたい、伝えるべきことは、考古学そのものの楽しさ、学び、究めることの楽しさではないのか。

筆者は、そう自問しながら、古代体験から「考古学体験」に着手します。
考古学体験で「どきどキット」や「がらくたボックス」などオリジナルのツールを用いてプログラムを実施したのち、以下の気づきに到達しています。

考古学体験のプログラムは、古代体験のプログラムに比べると圧倒的に「おもしろくない」
これは、とても参考になる気づきだと思いました。

古代体験は、縄文時代の人々になりきってさまざまな体験を行うプログラムで、考古学体験は、土器の破片の比較から違いに気づいたり、がらくたの集まりから社会を想像するようなプログラムです。これらのプログラムの違いは、縄文時代の知恵を追体験することと、学ぶことをなぞることとの違いのように思えます。

どちらもすごく魅力的なプログラムにみえますが、子どもたちの「学び」や「将来の仕事」を想定したイベントを企画する、となると、つい、考古学体験のようなプログラムを企画したくなってしまいます。研究者が魅力的な仕事だと思ってくれないかなぁという期待を込めて。

たった1回のイベントで子どもたちに強烈なインパクトを提供できるとは思えませんが、さまざまな背景をもつイベントに接する子どもたちに、「ねらい」に気づかねばならないと気を遣わせてしまっていたとしたら、イベントって重荷だと思うのですよね。

冒頭のイラストの「ティラミスたい焼き」は、某コンビニスィーツなのですが、この商品を作った方々のねらいは商品を買ってもらうことですよね。この商品は、たい焼きとティラミスのどちらも好きな人にとってはたまらない商品で、開発者のねらい通りに購入してしまった私がいます。そしてこの商品を買ってどんな気持ちになったか、何を考えたか、は、次またこの商品を買うかどうかで測られます。
さて、この、「商品を買ってもらいたい」というレベルのねらいをワークショップに応用すると、「ワークショップに参加してもらうこと」がまず最初のねらいとなります。そうすると、それを通して、何を感じたか、何に気づいたか、はさておき、またこういうワークショップがあれば参加したいかどうかで、測られるものと考えられます。

学校では、ねらいに雁字搦めになった学習が展開しています。そうした学習に浸かっていると、子どもたちは「ねらいを察しなければならない病」の中にあるかもしれません。ねらいが、ブレたくない主催者のためにあるのだとすれば、そんなものはさっさととっぱらって、子どもたちがねらいから解放された時間を過ごすお手伝いをしたいものです。

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