「Q曲」の探求と究極の愛〜ツアー終盤を迎えて〜

 201Q年5月29日に発売された、東郷清丸の9曲入り2ndアルバム「Q曲」

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 このアルバムを作ったのは僕だ。でも、これが一体どういう音楽でなにを表したものなのか、僕自身も説明することができなかった。

 そもそも創作は理解できる範疇のものを生み出そうという行為ではないし、「Q曲」の音楽たちは特に、日常言語の一切を排除して、脳と体をつかった想像の跳躍力を極限まで高めて生み出したものだから。

 謎なのにとにかく魅力がある、不思議な楽曲たちを披露するライブのツアー「超ドQ」と、アルバムができるまでのLINEやりとりを可視化した展示のツアー「Q展」は、そういう意味で、「Q曲」が一体なんなのかを僕自身が探る旅だった。

 6月から9月まで、奈良〜三重〜新宿〜広島〜長野〜新潟〜大阪〜兵庫〜千葉〜福井〜愛知〜京都〜福岡と、全国とはいかないまでもかなり多くの地方を回りながら、自分の作った歌と向きあい続けて、きょうは9月28日の土曜日を迎えた。

 遠い遠いと思っていたツアーファイナル10月5日@渋谷WWWを目前にして、「Q曲はとは一体何か」についてようやく一つの答えにたどり着けたかもしれなくて、このnoteに記すことにした。


 ツアーが始まると、同じ曲をなんども演奏することになる。ライブを重ねるたびに身体になじんでいき、演奏運動のために割かれる脳のメモリが解放されるにつれて、音楽に込められた世界への没入度が深まっていく。そうしてライブパフォーマンスとしての強度も上がり、ステージも見応えの大きいものになる。これは前作「2兆円」のときにすでに経験した感覚で、とてもよいことのように感じていた。でも今回においてはすこし様子が違った。

 「Q曲」は曲によって登場人物も情景もまったく違うけれど、すべてに通底する背景がある。ディストピアだ。SF映画でよくあるような、滅びゆく世界のイメージが、歌詞の世界の背景にうっすらと流れ続けている。そんな「Q曲」の歌の世界に没入していくと、その先で、どんどん濃縮されて強烈になっていく死の予感に直面することになった。

 実生活でもきこえてくる、社会基盤の崩れゆく音が、脳のなかで反射して実像以上に膨れ上がっていく。その崩壊に自分も巻き込まれて、なす術もなく理不尽に死んでしまうかもしれないという恐怖がある。僕の不安を意に介さず平然と進んでいく現実社会を前にして、この景色はさては自分にしか見えていなのかもしれないという孤独感が増す。

 ツアーが進んで演奏がよくなっていくほど、あしたなにかの拍子に死ぬんじゃないかみたいな、阿呆らしいくらいデカい、それでいて嫌に切実さのある不安感がまとわりつくようになった。1つのステージにかける集中力が高まる代わりに、気持ちはすこしずつ不安定になっていった。

 恐怖や不安は怒りを育てる。僕の中にはそのうち、「僕がこんなに窮地に立たされているのに、なぜみんな平然としているのか」というねじ曲がった怒りの感情が渦巻きはじめる。ライブがよくなっていくごとに、それはスクスクと育っていった。

 VLOG「きよまる!🌐ザ・ワールド」の映像でわかる通り、僕はツアーの日々を楽しんでいたし、ライブはすごくよかったし、各地でたくさんの人に会えて嬉しかった。でも、それと同時に僕はずーっと、怖くて、不安で、怒ってた。

 僕は大人だし、怒りみたいなネガティブな要素は自分の中だけに押しとどめていられていると思ってた。でもある日、身の回りの友人やスタッフや妻から同時に「最近のピリつきが気になる」「隣にいると怖いときがある」という言葉をきいて、とってもショックを受けた。自他の境界がわからなくなるくらい、いつのまにか感情を制御できなくなって、振り回されている。

 いつからそんな状態になっていたんだろう。動揺もあってうまく考えがまとまらない。途方にくれた末、ドラマーであり精神的な支えでもある河合くんに、リハーサルへ向かう車中で、不安感を打ち明けた。このまま自分の活動が続かなくなるかもしれないと考えると怖いし、誰も気づいてないかもしれないし、そういう現状への怒りがコントロールできなくて不安だ、と。

 河合くんは僕の話を静かに聞いたあとで、あまり間を空けずに「うん、次の時代に必要なエネルギーはやっぱり、愛だよ。大きく包み込むみたいな。ビッグラブ。」とくれた。言葉の力が強かったので、しばし呆然としたけれど、時間をかけて少しずつ意味が掴めてきた。そうか、「愛」…。

 あらためて「Q曲」の歌詞を紐解くと、どの楽曲の登場人物もそれぞれに、自分の置かれたシビアな状況の中で、それでもなにかしらの希望を見出そうとしていることがわかる。

 「龍子てんつく」の母は次世代の希望を夢想し、「アノ世ノ」の彼は虚しさ半分でも印を刻みながら進む。最果ての地で互いの機微を見つめ続ける「シャトー」の二人。大きな変容とそれに伴う喪失に飲み込まれていく「Nepenthes」の男。酒を片手にもがき続ける「YAKE party No Dance」の酔いどれ。それでもいいわと許しつづける「秋ちゃん」の女や、夢の河原で遊びまわる子供らへ語りかける「多摩・リバーサイド・多摩」…。現状が悲惨であろうとなかろうと、よりよくあろうと生きる。しぶとさ・したたかさ。

 僕は花とか川を眺めるのが好きだ。それは、ただそこに存在しているだけなのに、人が意味付けできる範囲を超えた面白さがあるからだ。僕は「Q曲」のなかにそういうものを詰め込もうとしたんだった。という記憶が、河合くんの発した「愛」という言葉を通して蘇ってくる。

 不安も恐怖も絶対に消すことはできないけれど、それも受け止めながら、いい匂いのする空間をこの現実に、ほんの少しでもいいから生み出しておきたい。「Q曲」はそういう究極の愛を探すためのアルバムだったんだ。

 曲中の彼らに思いを馳せながら、アルバムの中でひときわ光り輝く「L&V」をもう一度歌ってみる。あそうだ、「愛してるぜベイベー」だ。この一言がネガティブもポジティブも超えてディストピア全体を包み込んでいく。

 これこれ、これだよ。そうか、愛だったのか…。そんな答えのようなものにようやくたどり着いたのはきのう、9月27日の福岡公演でのことだ。音楽的にはすでに仕上がっていたバンドの演奏と僕の歌唱が、愛によってまたひとつ次元を超えていった音がして、嬉しかった。

 ツアーファイナルはもう一週間後に迫っている。すでにチケットを購入してくれている人たちには圧倒的な熱量があるのにも関わらず、なぜだか実はチケットはまだけっこう余っていて、それは自分の不安をより増幅させるひとつの要因でもあった。現実的な収支のことを考えて毎晩ふるえて仕方なかった。

 でももう大丈夫。集まってくれるひとりひとりのお客さんがいるってわかる。その場にきてくれるってだけでそれはもう、愛だ。生の愛の力は、結構やばい。僕はそれにしっかり包まれながら、さらに巨大な愛で、もっと大きいものを包んでいってみたいと思う。それができればたぶん万事オッケー。目には見えないけどなにかが大きく動き出すのがわかる。

 あと一週間、着々と準備を進めます。まだ迷ってる方、異次元のイベントなのでせっかくなら一緒に楽しみましょう。愛は大きけりゃ大きいほどいいからね。



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