匚について、その3。
人ひとり居ることをもっと喜びたい、という素朴な欲求がいつのまにか僕の中心にある。
人ひとりが交換可能な存在として番号で数えられていく。代わりがいるのであなたでなくても影響はない、という扱いの中では、人ひとりがここに存在することの喜びは薄い。
商売を経済的に無限に発展させたいとすれば、消費者を無限に集めなければならない。より多くの消費者を集めようとすることは、より多くの人間を交換可能な存在として扱うことである。人ひとりがここに存在することの喜びは、どんどん薄くなる。
不毛なことのように思えるが、不思議なことに、このサイクルの中で生きていると、より純粋に交換可能な消費者であることが美徳だという気がしてくる。素朴な欲求は、僕自身がさらされているこういった現況への危機感・忌避感のあらわれなのかもしれない。
楽曲が演奏される際に、演奏者は一体なにを操作しているのか。また観客はなにを受け取っているのか。印象や感情の話になると人それぞれ違うので、まずは物理的な側面から、ごくごく単純な確認をしてみたい。
例えばリズム。BPM 120というテンポの楽曲で、ビートをスクエアにするかシャッフルにするかでは楽曲の印象が大きく変わる。スクエアやシャッフルの用語がわからなくとも、下記の音声を聴いてみてれば、ああこれね、と誰もが思えるのではないか。二つのパターンの違いは八分音符をふたつでユニットとして、うしろのひとつをわずかに遅らせるかどうかだけ。それは秒数にすると0.05秒だ。
次に音高、もしくはそれによるハーモニー。ピアノでドミソを弾くとC,E,Gの三和音になる。この三和音はCメジャーだが、第三音のE(ミ)を半音だけ下げてE♭(ミ♭)にするとCマイナーになる。メジャーコードは明るくてマイナーコードは物悲しい、というよく言われる表現はちょっと一面的すぎるけれど、全く別の機能を持っていそうだということまでは誰でも想像できるだろう。
音高の違いはつまり同じ時間あたりの振動数の違いで、この場合、両者の違いは第三音が1秒間に「330回(E)」振動するか「313.3回(E♭)」するかのみが違う。ちなみに振動が1サイクルするのにかかる時間の差は0.001秒より小さい。
こうして実際に測ってみたのは初めてだ。
つまり演奏者は、1秒を100個にわけてその5個分ズラすかどうかをコントロールしてリズムを作れ、声帯の振動数を1秒あたり27回増やすかどうかで音高の差異を明示せよ、と要求されている。しかもそれは、誰が聴いても明らに違う音だと認識できるほど大きな値の話であって、フレーズの同一性を保ったまま(同じ音だと認識される範囲内で)ニュアンスを調整したい場合は、おそらくさらに倍くらいの精度が要求される。
演奏者がすごいという話ではなくて、観客の方も「ノリがいい/悪い」「歌がうまい/へた」などと感じるならそれは無意識的にでも同等の解像度でこの差異の表現を受け取っている、ということでもある。
ここで着目したリズムと音高は、音楽的情報の中でもほんの一部に過ぎず、音楽を感じようとする体験には、さらにほかの非音楽的な情報までも関係してくるので、総体としてはとても複雑なのではないか。
僕が楽曲を演奏しようというとき、まず理想的な音色とタイミングが、点として夢想される。演奏の実行は肉体に任せるほかなく、いざ音を出してみると、いくらうまくいったとしても厳密にはわずかにずれがある。その差を認識し、どのように捉えるか、次の音をどのように発するか夢想し…という調整を経て次の音が実行される。そして肉体によって、これまた厳密にはわずかにずれている。えっと次は…。と、体を使って演奏をする場合、曲を始めてから終わるまで、この繰り返しだ。
この調整作業は、時間軸でみるならば先ほど確認した1/100秒以下、生活上の時間感覚からするとはるかに短い間に行われる。この速度の世界で運動をコントロールしようというとき、ひとつひとつ言葉で意識して処理していたのではもちろん間に合わない。
あえて言葉にするなら「いい感じ」を目指していくわけだが、その「いい」がどのようなものであるかという哲学と、夢想した音により近いものを実現できる肉体をどのように用意しておくかという準備。演奏者それぞれに違いがあり、それが個性として出音に現れる。(どの程度自覚しているかに関わらず。)
複数人が集まって合奏するとなると事態はいっそう複雑だ。自分ひとりでもずれがあったのに、そういった固有のずれが参加者ごとにあり、互いに影響しあう。楽曲についての共通理解を基に(それさえ完全に一致することはないが)全員で、ある程度のまとまりを保持しながら、次に鳴らされるべき音を追いかけ続けていく。
自分が舞台上にいるときも、観客としてみているときも、僕は人の演奏をこうした調整作業の集積として感じようとしている。思考しているこの意識では捉えきれないほど微細な差を即時に調整しながら、目指す理想に向かって互いに整えあう様は、おもしろいし飽きることがない。
(この意味で、やはり録音作品と生演奏は全く別の表現形式である。定められたフレーム内にいかに固定するかを考えるのが録音だ。生演奏は、いかに流れるかをその場その場で新たに決めていく。)
いまこの場に人がひとり居る、ということをもっと喜びたい。匚はそのための装置でもある。
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