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穂高養生園でのリトリート②居場所を探す

【森の家でのワークショップ】

養生園でのワークショップ↓

養生園の食事はもともと1日2食。
デトックスプログラムは初日の夕食から始まる。
2日目日中は固形物を摂らず、夕に回復食。3日目の朝食(と言っても10時半から)では一通り揃った、でもまだ野菜がメインのお食事をいただいた。
2日目の朝、「ハーブ甘酒」の濃さ・美味しさといったら!

入浴、サウナ、軽い運動、森の散歩。そして良質の食事。
自分のこころと身体と向き合うために、休職中に自分の回復のためにやろうとしてきたこと。それが純度をあげて凝縮されているような時間。

一方で、もともとソロ登山が好きな私(究極のマイペース)にとって、また今回はとにかく自分の感覚を解放して”森や自然にまみれ”たかった私は、ワークショップにグループで参加することのストレス?もあり。
もともとの知人同士で参加する方々のおしゃべりがとにかく気になり、うるさいと感じていた。
目にするもの(=美しい森)、口にするもの。今ここに集中できていない自分を感じていた。

なので、2日目の自由時間は森の家から離れてひとり佇む場所を探しに出かけた。

朝日に葉がきらめく


【なかなか森になじめず】

5月の森のリトリートに参加したときに教わった「森になじむ」こと。
今ここの森に静かに佇んで、ただ五感で森を感じていると…顔の周りをぶんぶんする虫もいつしか遠ざかり、不安も消えていく。森と一体化するような感覚。それが欲しかった。

アダムの森に入っていく

でも、この日は。
初めての道、しかも養生園で渡されたアバウトな地図しかない。途中までは案内通り歩いていたはずだが、美しい森に入ったところで…徐々に不安感が募ってきた。
広葉樹の森の美しさがそこにあるのに、心が落ち着きを失った。
足元は踏み跡があるが…そういえばずっと人に会っていない。
目の前に猿が走り回っている。
「自分の居場所ではない感じ」がした。


このまま進んではいけないのかも。
案内をもう一度よく確認すると…途中で道を間違えたようだ。

山でのセオリーでは、同じ道を戻る方が正解。
でも来た道中もずっと不安感が強かったので同じ道を歩きたくなくて…

見渡すともう一本の道があった。方角は分かっていたので、横を流れている川を指標に戻れば渡った橋に着くはず、という、なんとなく確信めいたものがあった。
このとき、不安感は減っていた。

10分くらい歩いたところで、間違えた分岐の場所に戻ることができた。

さて、本来の案内に従って再度歩き出した。
でもまだなんとなくびくびくしている。猿が運動会のように、そして取っ組み合いのケンカのように動き回る。
こっちへ向かってこないで〜と思う。

知らない場所にいる不安感。
今この場所を冷静に見て、聞いて、感じることが難しい。これは森になじんでいないときの感じ。

森の出口が見えてきてしまった。
森になじまないまま出てくるのが嫌で、大きめの岩をみつけてそこに座った。
森になじむには、ゆっくり、静かに感じること…
数分間でようやく落ち着いてきた。

犬を連れた地元の人が通りかかる。目があって会釈する。言葉はないが穏やかな表情。
心がさらに緩んだ。

人と話したくなかったし、1人でいたかったはずなのに…
誰もいない、知らない場所でひとりでいる状態が不安

人と少しの繋がりを感じることでほっとする自分。その矛盾。

森で人に出会ったのは、その時だけだった。

木々をみていると、1枚ずつ葉を落とす木もあれば、何十枚も一度に葉を落とす木もある。
はらはらと落ちる葉をみながら…心は落ち着いていた。

自分がいるその場所になじむ、つまりその場との繋がりを感じることができたら…頼る「人」が絶対に必要ということではないのかもしれない。
それは、いまここと自分との繋がりを感じている、ということなのだろう。

この自由時間での感覚…
「自分の胸騒ぎが出てきたら、それをみつめる」
・未体験から来る漠然とした不安なのか?
・この道・この場所が本当に「自分の居場所ではない」「違う」のか。
→見極めは難しいが、自分の感覚と繋がってみて生まれてくるものを待つ。

「今ここ・自分がいる環境とのつながり、自分とのつながりを意識する」
それによって、不安がありながらもなんらかの選択ができるようになる。
それは正しいかどうかなんてわからなくても、誰かの力が働いていない、純粋に自分による選択になる。

・・・・・

さて、森の家に戻っていこう。