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結婚20周年

少し日はさかのぼりますが、2月3日はうちらの結婚記念日で、知らん間に20年という月日が経っておりました。。😁 

知る人も知らぬ人も知りたい人もそうでない人もいるでしょうが、少しうちら夫婦の歴史をご紹介。。

出会いは高校。一緒の高校で一緒の部活でした。出会った年齢でいうと15歳になるんでしょうが、そこから結婚を見据えてなぜか付き合うということになる26歳だか27歳まではずっと「ただの友達」というか「部活の仲間」でした。出会いが高校だった・・というとアメリカでは「Oh my god!!! You guys are High school sweethearts!!」とよく言われます。ですが、別に高校からずっとつきあってて仲良く結婚に至った例とは違うので、いつも言い訳のように「no no...  just known him for a long time as a friend.」と言う私。。

でその高校時代の部活は「柔道部」。何をかくそう北京オリンピックで金メダルとった石井慧選手のお父さんがうちらの部活の顧問の先生でした。(という言い方より、うちらの顧問の先生の息子さんが後に北京オリンピックで金メダルをとることになった・・と紹介するほうが順序としては正しいか・・・) 先生は鬼のように怖く鬼のように優しく鬼のように面白い非常に個性的な先生でした。高校の思い出はクラスや授業や学校の行事よりなにより、この個性的な先生のもとに繰り広げられた部活の思い出が比重を占めているように今振り返っても思います。公立の共学校でたいてい生徒の認識は「何組(なんくみ)の誰々」というより「何部の誰々」というのがこの学校の文化。そういう非常に毎日の中心だった部活が一緒で、酸いも甘いも一緒に汗だくで過ごしてきた同期の一人が今のだんなさんなのです。一緒に汗だく・・・とか書いたけど、だんなには「さぼってたくせに・・・」とよく言われます。しかしその通り、どうやってさぼるかを常に一生懸命考えて先生来たときにシュッとやってるふりする私と、いなくても一生懸命やるだんな。。。とにかく全然違うタイプだったのです。

高校時代にはこの2人を知る誰もがこの2人がつきあって将来結婚することになるとは想像しなかったと思います。当の私たちでさえそんなこと考えたこともなかったな・・・。ただ同期はみんな仲良しだったので、彼に限らず男女という垣根なく卒業後も飲み会やらで会うと楽しくしゃべるという、毎年年賀状のやりとりはするという仲ではありました。

私は大阪から東京の大学に編入し、そこから築地の国立がんセンターで3年間働いたのち、地元の大阪に戻って大学の看護学科で助手(今でいう助教)をすることになったのです。5年の東京生活の後に大阪に戻った時には新しい仕事の環境になかなか慣れず、羽を広げていた一人暮らし生活からまた親元に戻ってのありがたいけど羽目外せない生活、その当時のボーイフレンドとも破局し、昔いたはずの友達たちも大阪以外の各地で仕事をしていたり結婚していたり・・・でなかなかブルーな生活。そんな日々を送っていたころに柔道部の集まりがありそこで久々に彼に再会することになったのです。

久々の彼は相変わらずおとなしいがぼそぼそっと厳しく面白いことを言ってくる人でしゃべってると笑いは絶えなかった記憶。地元に残ってる友達もそんな多くない中、結構彼に連絡をとるようになっていたな。。。車をもっていたので「どっか連れていってや」というと「じゃあ車だけ貸すわ」とか言われたり、電話して「もしもし、わたし」というと私とわかっていて「そんな関係ちゃうし。。」と一刀両断してくるタイプ。腹立つわ~!と言いながら向こうも笑ってる・・・そんな感じでなんか知らん間に距離が近づいたのかな・・。

私はなぜか若かりし頃は「安心ならぬ男」に惹かれるタイプで結構泣くことも多かったのですが、まぁ彼はここまでの人達とは全く逆のタイプで、「安心」「堅実」な人でした。

・・って書くとちゃんとした人・・と思われそうですが、実はこの出会った段階では「フリーター」。私は曲がりなりにもその当時は国立大学の職員で国家公務員。結婚も考えるような年齢にさしかかっているのに、フリーターではなぁ・・・。

でもこれは高校時代から彼という人間を知ってる強み。彼のポテンシャルや能力はわかっているし、なんかのきっかけで化ける・・・という根拠のない自信みたいなものはありました。実際当時フリーターをしていたのは米国公認会計士を受けるため勉強するのに、ちゃんと就職してしまうとそういうことがやりにくくなるから・・ということでした。

しかし彼の勉強状況を見てると、のんびり屋さんでもあるし闘争心があるタイプでもないので今日もあれば明日もある・・みたいな勉強の仕方。そしてアルバイトだけはまじめに行き、本人も「定年まで勤勉にフリーターを勤めあげそうや。。」とか言ってる始末。あかん、そんなんではあかん!!!と発破をかけエンジンかけてもらうことにしました。

会計士の試験を受けるためにそのころ年に1-2回ロサンゼルスまで行っていた彼でしたが、ある年の試験後、2か月位日本に帰ってきませんでした。ようやく帰ってきたときに、「一緒にアメリカに行こう」とプロポーズされたんだったかな・・。なんかどういう言葉だったか正確には覚えてないけど「いや~ん、これでゼクシィ買えるやん」と返事したのは覚えています。(当時結婚が気になるお年頃で結婚情報誌ゼクシィがいつも本屋で気になりながらそれはそういういことが決まるまで触ったらあかんもの・・と一人で勝手にジンクス作って頑なに守っていた私だったので‥笑) まぁそこからいろいろ聞くと試験後アメリカで就職活動をしていたと。。サンフランシスコにいた高校の後輩を頼ったり、その後輩の友達を頼ったりしながら会計とは関係ないけど、就労ビザを出してくれる小さい会社と出会い、そこに雇ってもらうことができたようでした。

飛び込みでよく就職決めてきたなぁ~!!とこれはすごいのですが、実は肝心の会計士の試験にはこの時には受かっておらず・・っていうオチはありつつも、、笑  まだ20代の私たちは勢いもあり、そこはなんとかなるやろ!とりあえず行ってみよう!と、結婚することを決めて親にも認めてもらったのが1999年の秋。彼は一足先にアメリカに行って働き始めたりアパート探しとかしてくれたり、そんなこんなで結婚すると決めてから1年ちょっと準備をするのに時間をかけ、2001年2月3日に大阪の南港にあるワールドトレードセンターの結婚式場で結婚式をあげたのでした。

やばい。。アメリカでの結婚生活20年間を書こうと書き始めたはずだったのに、出会ってから結婚に至るまででこの文字数になってしまった。。。😅

親には5年で日本に戻ると言って飛び出たのに20年経った今もなぜかまだアメリカにいるこの状態。。結婚してからのアメリカ生活20年・・どうやって私がこちらでナースになったのか、なかなか受からない永住権のための英語の試験、ついに会計士に合格しただんなの話し、ようやく子供をと思ったら全然子供ができなく不妊で悩む日々、初めての住宅購入、投資でだまされる・・などなど思い起こせばこの間ずっと山あり谷ありで内容もりだくさん。とても一回にまとめられないことに今頃気づいたので(笑)またそんなネタを小出しに別の機会で書かせてもらおうと思っております。😊

とりあえずここまで20年間、ラブラブ~な雰囲気は全くない2人ではありますが、そんな山あり谷ありを一緒に越えてきた同士としては絆は強くなってるのかな。。これからも健康に気をつけ、お互いレスペクトしてサポートしあって一緒に歳を重ねていけたらと思います。



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