空奇物語(うつくしものがたり)2

 

 一緒の汽車を降りた人は五、六人だったが、三々五々停車場から離れていく。みな、用意していた上着を羽織ったりしているところを見ると、肌寒く感じたのは清六だけの話ではなかったと見える。

 京田院の話では、オオクボくんとかいう助手が時刻表に合わせて停車場まで迎えに来てくれるということだったが、本来汽車が到着するべき時間に比べてすこし間があるようだ。

 汽車が早く着きすぎたらしい。早く着きすぎたのなら所定の時間まで待つのが義理というものだろうに、石炭を惜しんだものか、さっさと出発してしまった。時間に合わせて乗る人もあろうに、不人情な汽車である。

 清六はオオクボくんを知らない。開拓大学の人ではなく、この空奇の村の人を雇ったらしい。待つしかあるまい。

 山際の停車場から谷底の村へ向かう人々を見ながら、清六はふと、奇妙なことに気づいた。

 停車場から集落までには馬車や自動車の通れる、ゆるやかな坂道があるのだが、人々はその道を利用しない。それはプラットホームから村を見下ろす右手に出ているのだが、人々はそれを無視して反対側の、細い崖際の坂道を、登って行くのである。

 近道になっているのだろうことはわかるのだが、わざわざ登っていくのが奇妙に思えた。

 清六は空奇の地理も知らない。京田院以外の知り合いもいない。よって、迎えの大久保くんをどうしても待たねばならない。

 雨などが降らなければよいが、と思った瞬間にうなじに冷たいものを感じた。来るぞ、と見上げるといよいよ降り出した。眼鏡のレンズに水滴が流れた。

「参ったな」

 清六は傘など持ってきていない。今朝、汽車に乗る前にはそのような兆しはなかったのだ。汽車は晴天の町から西向きに、黒雲は山の向こうから東向きに向かって来て、ちょうど示し合わせたかのように、空奇の地ですれ違った格好である。

 ざあ、と大粒の雨がプラットホームを叩く。

 清六は周囲を見回すが、周囲に屋根らしい屋根はない。村の外れの崖の上にあるのだ。農家の道具小屋らしい建物が坂の途中に見えるが、そこまでいくにはずぶぬれになるだろう。迷っているうちに本降りになってきた。

 走り出そうとしたとき、一人の青年が黒いこうもり傘をさして、清六のほうに近づいてきた。

 清六は迎えのオオクボくんかと思い、会釈したが、顔を上げた瞬間にそれが間違いであったことに気づいた。先程まで同じ汽車に乗っていた若い兵士である。

 海軍の制服を着ている。片手に大きな袋を持っている。

 「どうぞ」と兵士は洋傘を差し出しながら、よく通る声で、「よかったら入りませんか」と言った。

「すみません」

 清六は一応恐縮しながら、遠慮なくこうもり傘に入れてもらうことにした。

「迎えが来てくれるはずなのですが」

 身体を縮めながら、言い訳した。

「自分も人と待ち合わせているもので」

 青年が顔をこちらにむける。男らしい彫りの深い顔つきで、眉がくっきりと太く、目がぱっちりと大きく、顎の線が力強い。男前の部類である。

 清六はどこかで見たような顔だと思った。はっきりとした二重の目がどことなく寂しげに見えた。

 清六は自分がアイヌ系の住人の多く住む、コタンに降り立ったのだと意識して少し感動し、少し緊張した。

「困りましたね」

 清六は苦笑する。

「空奇山の天気は気まぐれです」

 青年は素っ気なく言った。よく知った友達を評するときの言い方だ。

「この村の方ですか」

 両手をこすり合わせながら山科が聞く。いよいよ体が冷える。青年はええ、と頷いた。

「海軍の方とお見受けしますが―――」

「はい。でも」

 青年は一呼吸を置いて、

「暇をもらってきました」

 と寂しげに笑った。

 その横顔を見ながら、清六は気づいた。その笑顔が日露で死んだ叔父にどことなく感じが似ているのだ。顔立ちの感じが似ているのか、同じ海軍の制服がそう思わせるのか、寂しげな笑いぐあいが似ているのか。いずれにせよ、どことはなく似ている。清六はこのアイヌの血を引くとおもわれる兵士に急に親近感をおぼえた。

「除隊されたんですか。やっぱり例のワシントンの会議の影響ですか」

「いえ、病が出たので」

 青年は歯切れわるく言った。それ以上、あまり話したくないようなので、清六は訊くのをやめて口をつぐんだ。

 この二月ワシントン会議において列強五カ国の海上兵力の縮小が決議された。結果、海軍においては建造中のものを含んだ十数隻の軍艦の廃棄が決定され、軍人や職工が人員整理の対象となった。軍縮の波は海軍だけでなく、陸軍もまた、大規模な人員の整理を余儀なくされていた。近頃、町では軍人を軽視する風潮さえあった。

 東京や大阪ほどではないにしても、札幌でもそういうところがあった。清六は札幌の酒場で役立たず呼ばわりされた軍人が民間人に殴りかかった場面に居合わせたことがある。

「雨、なかなか、止みませんね」

 掌で受けるように手を出して清六が言うと、

「あと三分ほどで止みますよ」

 兵士がきっぱりと答えた。

「え…」

「きれいな虹が見られます」

「なぜ?」

「勘です」

 笑いながら言う。

「勘ですか」

 不思議な気持ちで兵士を見た。すました表情で言う。

「まあ、見ていてご覧なさい。すぐに雨が止みますから」

 果たして、三十秒とたたないうちに雨足が、目にも見えて弱まってゆくのがわかった。

 二人はしばらく世間話などをして、雨が止むのを待った。若い兵士の予言したとおり、雨はしだいに弱まりつつあったが、まだ傘を手放すほど小降りにはなっていなかった。

「私、山科清六といいます。開拓大学の京田院先生のもとで、この地の文化の研究を手伝いに来ました」

「……ほう、空奇のアイヌ文化の研究を」

「ええ」

「自分は近部真睦(ちかべ・まちか)といいます」

「近部、さん」

 ……どこかで聞いたことがある、と清六は思った。それも、つい最近だ。だが、それだどこでなのかが思い出せない。

「しかし、そんなものはもうこの村のどこにも残っていないと思いますよ」

「え…」

 清六は口をつぐんだ。

 そして、最近読んだ京田院の本を思い出した。

 そうか。そうなのかも知れぬ。もともと豊かな自然環境の元で狩猟採取や交易を中心する生活を行っていたアイヌコタンに、近世以降、和人が入り込んでいろんなものを奪っていった。

 土地と自然を、自由に狩猟採集をする生活の権利を奪われ、搾取と、差別、そして貧困の中に身を晒され、いわれなき劣等感のもとに暮らさねばならなかった。かわりにコタンに持ち込まれたのが病気とアルコールだ。

 京田院は、自分の先輩にあたる学者たちも、同じようなものだという。アイヌ研究の権威として知られるある学者は、研究のためにアイヌの墓をあばいて頭骨を持ち帰ったりしているともいうし、また酒の一升瓶をぶら下げてやってきて、古老を酔わせて貴重な民具を「貰い受け」てくる学者もいるという。

 自分が師と定めた京田院もこの空奇そう思われているのだろうか。そして、自分もそう思われてしまうのだろうか。

「でも―――昔話や、神謡や、残さねばならない貴重なものがたくさんあるっていうじゃないですか」

「何がそんなに貴重なんですかね」

「滅び行く、消えゆく文化は残さねばならないのじゃありませんか。だから、今のうちに書き残して……」

「滅び行くって、誰が決めたんですかね」 

 真睦の目が一瞬光った。

 はっとして、清六は若い兵士の顔を見つめ直したが、さっきまでと同じ寂しげな微笑を浮かべていた。

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