空奇物語(うつくしものがたり)1

 

 これは我が祖父・山科清六のノートを元に書いた架空の物語である。


 空奇(ウツクシ)の停車場に降りた途端、汗がひいた。

 山科清六は片手に下げていた学生服の上着を羽織った。札幌にある開拓大学の制服である。清六は行李の中から学帽を取り出して、伸びはじめた坊主頭にのせた。

 どうも先程から、雲行きがあやしいと思っていたが、いよいよ降りだしそうな雰囲気である。

 眼鏡の奥の細い目をさらに細めて、暗雲の渦巻く空を見上げる。

 不穏だが奇妙な神々しさを持つ劇的な雲の海。これは空の意識の投影だ。天地開闢の昔、引き裂かれた太古の海への憧憬が、白黒の冷たい溶岩を映し出す。これは神話だ。お互いの半身を懐かしむとき、空と海は神話を映す。空は言語を持ち、雲は空の言語を語る。古い人々は、同じ言語から神話を読みとる。だから、もともと空と神話は同じものの異なる現れなのだと清六は思う。

 そしてこの海はまるで未だ分かれざる原初の滄溟だ、と清六は思った。やがて生まれ出て世界を遍く満たす神々さえも、今は未だその中に溶かし込んだ黎明の海。次國椎如浮脂而(つぎに くに わかく うきし あぶらの ごとくして)、久羅下那洲多陀用幣琉之時(くらげなす ただよへるの とき)。清六は、古事記の中でも一番この部分が好きだった。初めて混沌から天と地が生まれ、大地はいまだ固まらず、海の中に油のようなものが、くらげのように浮いている。くらげなす、というのがまさに見てきたようではないか。その油のような、くらげのようなスープこそが、すべての生命の遠祖なのかも知れぬ。

 あるいは旧約聖書の世界において、文明と生命とを飲み込んだ四十昼夜の大洪水の後、ノアが方舟から見た世界がこのような風景だったのではないかとも思う。これから研究を始めんとするアイヌの伝説の中にも同じ様な風景があるのだろうか。そのうち先生に聞いてみよう、と思った。

 炭坑行きの汽車が貨車を引っ張りながら停車場を出ていった。清六が乗ってきた客車はおまけのように機関車のすぐ後ろに一両だけあって、蒸気のせいか、気のせいか非常に暖かかったのだが、これもおまけのように停車した山奥の空奇の停車場は七月の初めだというのに意外なほど肌寒かった。

 停車場には待合室も椅子もなく、ひび割れたコンクリートのプラットホームの他はただ駅名を示す看板があるだけである。看板には汽車が到着する時間が書いてあるが、上りも下りも二時間に一本ほどで、まあ人口や村の規模からいえば、上等な方だ。

 この空奇は鉄道については、恵まれていると言っていいだろう。炭坑が見つからなければ、おそらく永遠に時刻表やプラットフォームとは縁のない様な、非文明的な地形である。

 某財閥がこの険しい岩山と天然の原生林を貫いて、炭坑鉄道を引くことになった時、一つの難関にぶちあたった。和人の力ではどうしても測量できなかったのである。そこで活躍したのが、自然を知り尽くしたアイヌの測量団であり、彼らは和人の技師たちがどうしても成し遂げられなかった難事業をやり遂げたのだという。そういういわれを持つ路線は北海道だけでなく、内地にもあるという。金と権力にものをいわせ、科学文明の粋を集めた財閥の調査団がなし得なかった踏査を、名も知らぬアイヌの技師たちがやり遂げるとはなんとも痛快ではないか。理数系にとんと疎く、つねに科学文明に取り残されたような引け目の中に生きている清六などは、こういう話を聞くと、胸がすく思いがする。それが財閥の手先ならなおさらである。ざまあみろ、と思う。

 良くも悪くも、炭坑と鉄道のおかげでこの僻村も大いに開けた。村役場が置かれ、学校や商店も出来た。新聞も昼までに届く。その気になれば札幌まで一日で行ける。

 明治初頭には九割以上がアイヌ住民だったのが、いまは和人住人が二割以上になっているという。先生はこのままいけば、他のアイヌコタン同様、十年と経たずに和人の文化に染まってしまうだろうという。衣食住すべてにおいて、和人とほとんどかわらなくなってきている。世代が若ければ若いほど、その傾向が高いともいう。ただ、古老の伝える祭祀や伝説をこのまま途絶えさせてはならないのだ、と先生は力説する。若い頃、私が古事記や風土記などの行間から垣間見ようと必死になっていた世界が、そのままの姿でごろごろとそのへんに転がっているのだよ、と先生は目を潤ませて語った。

 清六がこの先生にならついていってもいいと思った瞬間だった。

 清六は制服の内ポケットから懐中時計を取り出して、ちらと見た。昼の二時をすこしまわったところだが、空の昏さは宵闇のようだ。

 立っているだけで心細くなる。日輪がおかくれになり、諸々の悪神が息を吹き返すとしたら、空の許はこんなであろう。狹蝿那須皆滿(さばえなす みなわき)、萬妖悉發(よろずのわざわい ことごとにおこりき)だ。

 停車場は空奇の集落を囲む山々の、切り立った北壁に寄り添うようにしてあり、村よりかなり高い位置にあった。清六が今立っているプラットフォームから、空奇の村の全貌を見下ろすことができる。

 なだらかにすり鉢状をなした盆地の底を、空奇川が流れている。かつては草原や森であったところもいまは農地となり、斜面もまた、大規模な農場の多い北海道では珍しい、内地風の段々畑となっているのは、せまい山間の村だからこそかと思われた。建物は米粒のように小さく、川の両側に集まっている。

 これが、今後二ヵ月の間、いやでも暮らすことになる空奇村だ。恩師を夢中にさせた、アイヌの古い伝説の生きる地だ。

 清六は下駄をならして高さ二尺余のプラットフォームを飛び降りた。背が低くなった分、盆地の底が、幾分浅くなった気がした。

 清六は学生服のポケットから手紙を取り出した。

 一枚の便せんに万年筆の小さな字でびっしりと書いてある。送り主は京田院鋤彦、とある。清六をここに呼んだ張本人である。

《前略 山科君、至急苫富線空奇村に来なさい。早いに越したことはない。夏休みが始まると同時に汽車に飛び乗るがいい。是非そうしたまえ。待っている》

 いきなり命令口調である。かなり汚い字で、とても大学の教授の文章とは思えない。次からは急にまじめになる。

《―――ここ空奇は奇跡の土地である。かつて北海道全域に栄え、明治以来の和人の流入によつて今は急激に衰えつつあるアイヌの文化が、地形の狭隘、交通の不便、その他の好条件の一致を見て、和人の流入を阻み、文化の混交を最小限に防いだ為、本当に奇跡的に、この空奇には残つた。他所では失わた往古の風習、忘却の歌、死に急ぐ言葉がいまだに活力を持ち、散滅を免れた文化の好く残つた幸運の地である。

 余のアイヌ研究にとってこの空奇の地は、ダアヰン翁の生物学においてのガラパゴス諸島、シュリイマン卿のトロヤ遺跡、柳田国男先生の遠野地区のような役割を担うものと確信するのである。》

 ここまで読んで、清六は便せんから顔を上げた。

 清六は少し不安を抱えていた。彼は、アイヌ文化に関して、全くの素人なのであった。函館という北海道の中でも最も早くから和人が住みついた土地の一つに生まれ、石と文明の直線によって作り込まれた札幌の学校に学ぶ彼にとっては、先住民であるアイヌについては、ほとんど考えてたことがなかった。来る前に京田院鋤彦教授の薦める本を数冊読んだので、普通の和人が知っている以上には知識として知っているつもりだが、早い話がその程度だった。天然自然の禽獣をカムイと崇め、狩猟採取の生活をし、熊送りという祭りをする。木の繊維や獣の皮で造った服を着て、ユーカラという叙事詩を伝える、等々。自由な日々を送っていた彼らが、一変して明治以降、旧土人という差別的な呼称で日本人として戸籍に組み込まれ、和人風の名字を付けさせられ、先祖伝来の土地と民族特有の文化と、生活の自由と、なによりも民族の尊厳を奪われた、決して遠くない歴史。京田院先生は講義の中でも「侵略」とか「略奪」といった言葉を使ったりするから、聴いているほうが肝を冷やす。先生は一向に気にしない。

 

 清六は思う。確かに本を読んで、アイヌに対しての知識は得たかもしれない。情報としては知っていても、実感が伴わない。遠い昔の、古事記のテキストから滲んでくるような、太古の情景がある種のファンタジイであるのと同様に、現代に生きる彼らアイヌの文化も、清六には同じように思えてしまう。

 加えて、清六には彼らアイヌこそが、この北海道の本来の住人であり、自分たち和人が新参者であるということが実感として理解できなかった。理屈ではわかっているのだが、それが自分の住む現代の北海道とどう関わるのかが本質的にわからない。あたりまえに現代の日本だと思って自分が親しんできた、札幌や函館の堅固な煉瓦造りの町並みが、なんだか急に儚げに思えてくる。信じていた現実が急ごしらえの張り子細工のようなものだったとしたら、それを取っ払ったときに自分に残るのは何なのだろうか。

 知れば知るほど、考えれば考えるほど、自分の足許がおぼつかなくなる。なんだか怖い気はする。自分が今から入っていく研究は、石造りの文明社会に、メッキの剥がれを露見さすのではないか。信じていた世界の成り立ちにほころびを見つけてしまうのではないか。そのメッキの内側、ほころびの中に何が隠れているのか。そういう言葉にならない怖れが自分の中に確かに存在している。

 京田院教授の手紙はまだ続く。


《ここは学問的財宝の山である。掘つても掘つても掘り尽くすことがない。羅馬の地下鉄道の工事みたようなものである。

 山科君、早くこの空奇に来て、研究の手伝いをしてほしい。手はいくらあつても足りないぐらいである。宜しく頼む。

 山科清六様      鋤彦》

 手紙の主、京田院鋤彦は開拓大学の教授で、アイヌ文化の研究者である。本来は内地で古事記の研究をやっていた人で、明らかにアイヌ研究に転じたのはここ四、五年のことだ。その理由は明らかではないが、彼の研究はしだいに興味は古事記そのものではなく、その行間から有史以前の文化を推論するといったものに変わっていった。古事記が正当な「史書」であるというこの時代においては、その研究はしばしばタブーにぶちあたり、古事記の研究から足を洗う決意をしたのもこのころであった。しだいに紀記以前の精神文化に興味が移っていった京田院は、アイヌ研究に鞍替えする。折りもおり、大正九年に専門学校扱いだったキリスト教系の札幌開拓学校が大学に昇格し、文学部を新設した。そのときアイヌ研究で有名な北海道や東京の学校に対抗できるアイヌ文化研究室を作るために、東北の学校から引っ張られてきたのだった。

 京田院鋤彦は、東北の生まれだ。自ら『蝦夷』の末裔と称して、「京田院Kyodain」の「ain」は「アイヌainu」に通じる、などと言っている。和人の学者の中でも比較的自在にアイヌ語を操る方だが、古事記研究が長かったから、アイヌ語学者としては新人である。すでに有名なコタンは先発学者たちに縄張りを貼られているので、目覚ましい成果は望めない。京田院がこれほど空奇という土地の「発見」に鼻息を荒くしているのも、一刻も研究成果を上げて早く縄張りに自分の旗を立てたいという思いからである。

 清六が京田院に見いだされたのは、講義で提出した論文が彼の目に留まったからであった。京田院は清六の論文をやけに気に入って、「きみ、山科君、研究者になりなさい、そうしなさい」と、会ったその瞬間に言ったのだった。

 先生は社会主義者と間違われ、右翼学生に絡まれたことがある。先生は右翼を前に一言、「君、古事記は読んだかね」と聞いた。もちろん読んだと胸を張って答えた男に「では、暗唱してみたまえ」と言い、男が暗唱出来ずにいると、「皇国の赤児たる者が、その神統を諳んじることくらい出来ずにどうするか」と逆に叱りつけ、稗田阿礼よろしく「天地初發之時。於高天原成神名。天之御中主神……」と朗々とやり始めた。さすがに最後まではやらず、大国主が鼠に助けられたあたりで右翼が降参したので、「日本人ならもっと古事記を読みなさい」と、先生は自分が書いた古事記研究の本を署名入りで贈呈したという。

 これだけ聞けば京田院が国学者か国粋主義者のように聞こえるかも知れないが、無論そうではない。本人に聞いたところでは、「私が好きなのは神話に流れる太古の浪漫であって、天皇家の家系図にはまったく興味がないのだよ」と言っていた。暗唱できるのは神々の時代を舞台とした古事記上巻だけだという。確かに古事記中巻以降はいわゆる「蝦夷征伐」がより色濃くなるから、自ら蝦夷の末裔をもって任じる京田院が嫌うのもわからないでもない。

 鋤彦という名前は非常に間違えやすい。清六は初対面のとき、「くわひこ」と読んで、「あのね、鍬彦は弟なの」と訂正された。噂ではもう一人弟がいて、「鎌彦」というらしいが、よくは知らない。東北の豪農の長男で、百姓らしい名前を、というのが名前の由来らしい。

 手紙には追伸がある。

《追伸 汽車賃その他の費用は事務所で貰えばよろしい。話は通してある。

 その際、研究室の抽斗の中の写真機をフイルム缶ごと、忘れずに携えてきてほしい。写真で記録を残しておきたい。

 今後の連絡は、役場に電話があるのでそこにかけてほしい。番号は―――》

 広げた便せんの上にぽつりと一滴、落ちてきた。清六は手紙を胸にしまい込み、滴の来し方を見上げた。依然として空を灰色の分厚い雲が覆い尽くしていた。

 それだけでも気が滅入るのだが、もう一つ、清六の気を落ち込ませることがあった。京田院教授が最近すっかりお気に入りのイーストマン・コダックをフィルム缶ごと、ここまで来るあいだにどこかで置き忘れて来てしまった。昨日大学を出るときには確かに持って出たのは覚えているのだが、どこで別れ別れになったものかがまるで記憶になかった。

(続く)

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