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逃げるは明日が晴れになる

「どうすりゃ彼女ができるんだよ?」

飲み会で幾度となく繰り返されるこの話題。ベタだとはわかっていても、なんとなく飲み会が中盤を超えるあたりで恋愛の話題に落ち着いてくる。そしてここ最近彼女のいない僕は、決まり文句のようにこの質問を投げかける。単に話題の繋ぎにこの質問を使っているという側面もあるが、あわよくば何かいい解決策を貰えるのでは?という淡い期待も込めている。

ある日の飲み会で、いつものようにこの質問を投げかけると、友人の一人が「街コンにでも行ってみたら?」とアドバイスをくれた。それ以前にも街コンを勧めてくれる友人はいたのだが、そんなとき、決まって僕は、「いやあ、街コンはちょっと...。」と否定気味に答えてしまう。僕が街コンに対してイメージしている、大勢で集まって、自由に話し相手を変えて、その場で連絡先を交換して、という雰囲気がどうにも苦手なのだ。

友人からしてみると真面目に答えたアドバイスを試しもせずに否定された身なので、友人は「そうやって逃げてるんじゃ、彼女はできないんじゃない?」と、嫌味を込めて返答する。

そうか、僕は逃げてるんだ。だから、いつまでもこの問題は解決しないんだ。と、僕はそこでハッと気がつき、しかしそれでも、やはり街コンには行きたくないなと思ってしまう。

いや、正直な話、実は僕は一度街コンに行ったことがある。せっかく友人に教えてもらった手前、全く試さないのも悪いと思い、行きたくない気持ちをほんの少しの好奇心でなんとか誤魔化し、参加した。そして、もう二度と行きたくないと思った。街コンは、僕のイメージしていた通りの場で、僕には合わないなと思った。

僕は逃げている。大人数の中で人と会話することから逃げている。自分から特定の人を選んで、積極的に話しかけることから逃げている。初対面で、素性もよく知らない人の連絡先をいきなり聞くことから逃げている。

逃げていたら変われない。エヴァの碇シンジくんだって、「逃げちゃダメだ」と言い聞かせ、エヴァに乗った。それなのに、それなのに僕は、自分の苦手なことからいつまでも逃げている。

そして僕は、苦手なことから逃げているこの現状からも逃げたくなり、「逃げる」ことを正当化できる言葉を探した。

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3年ほど前、『逃げるは恥だが役に立つ』というドラマを観ていた。当時はガッキーが可愛いからとか、星野源が好きだからという下世話な理由で観ていただけだが、たった一つの、そして最も重要なメッセージだけは、僕の心に残っていた。

逃げたっていいじゃないですか。  
ハンガリーにこういうことわざがあります。
「逃げるのは恥 だけど役に立つ」
後ろ向きな選択だっていいじゃないか。
恥ずかしい逃げ方だったとしても、
生き抜くことのほうが大切でその点においては、
異論も反論も認めない。

僕はこの言葉に救われようとした。しかし救われなかった。確かに、生き抜くために逃げることは大切だ。どうしても逃げないと仕方がないときは逃げてもいい。

しかしあくまで、逃げることは恥なのだ。恥を忍んででも逃げることが、僕にはできない。僕はそんなかっこ悪い人間にはなりたくなかった。なりたくないというよりむしろ、自分が、逃げてばかりいる恥ずかしくかっこ悪い人間だということを、認めたくなかった。

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「逃げる」をテーマに本を探していたとき、家入一真さんの『我が逃走』という本に出会った。この本は、クラウドファンディングの先駆けとなったCAMPFIRE社の代表である家入さんが、自分の居場所を求めて様々な境遇から逃げながら、現在に至るまでを描いた物語である。

この『我が逃走』に関するある考察ブログの一節がとても心に残った。

タイトルは「我が逃走」ですが、これは見方を変えれば「我が追求」でもあると思っています。
はた目には何かから逃げているように見えて、実は別の何かを追いかけている。
「逃げる」はたいていネガティブなイメージがつきまといますが、本能に忠実・自分に正直ということでもあります。
『『我が逃走』を読んで「逃げるが勝ち」だと改めて思った』より

僕は、「逃げる」ことはかっこ悪いことだと思っていた。仕方なく逃げる必要に迫られることはあるけれど、それは恥ずかしいことだと思っていた。しかし、何かから「逃げる」ことは、別の何かを「追いかける」ことだと、そこには書いてあった。

僕は、これまで様々なことから逃げてきた。新卒の時、30人程度のクラスと、さらにその中で6人程度の班に分かれて研修があった。僕は大人数の中で話すのが苦手で、クラスに中々馴染めなかった。けれど少人数での会話は好きなので、班のメンバーとは積極的に話した。その結果、クラスのメンバーとはあまり話せなかったけれど、班のメンバーとは本当に仲良くなれた。

あの頃の僕は、クラスに馴染むことから逃げていた。逃げるようにして、班のメンバーとばかり話していた。しかしそれは、結果として、狭く深い今の関係を築くことに繋がった。大人数でのコミュニケーションから逃げたことが、少人数の深いコミュニケーションに繋がった。

何かから逃げようとする時、人は後ろめたい気持ちに駆られる。自分が何かを捨てるような、自分が弱い存在だと認めるような、そんな気持ちに駆られる。

しかし、一旦そこから逃げて、そして逃げて、逃げて、逃げまくれば、必ず別のどこかに辿りつく。そして辿りついたその先には、きっと明るい未来が待っている。苦手なことに立ち向かって100m走ったって、苦手なことから逃げて100m走ったって、100m進んだことには変わりないのだ。

自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、
後ろめたく思う必要はありませんよ。
サボテンは水の中に生える必要はないし、
蓮の花は空中では咲かない。
シロクマがハワイより北極で生きる方を選んだからといって、
だれがシロクマを責めますか。
梨木香歩『西の魔女が死んだ』より

僕たちは社会や世間から、「ハワイはいいところだ」「ハワイを楽しめないなら、人生楽しめない」と、比喩的に教えられる。僕がどれだけ、ハワイのビーチの賑やかさが苦手でも、ステーキの油っぽさが苦手でも、それを克服することこそが成長の証であり、そこから逃げたら成功はないと、言い聞かされる。

それは例えば、「言われたことだけできる人ではなく、自ら課題を考えられる人にならなければいけない」だったり、「人見知りは一歩踏み出して克服しなければ永遠に損をし続ける」だったりのような、世の中に無数に溢れている”正解”とされる言説である。

しかし、もっと気軽に北極に逃げてもいいのではないか。ハワイが苦手なら北極へ、北極も苦手なら日本に居続ければいいのではないか。苦手なことから逃げること、その選択の一つ一つがその人の個性を作るのだと思うし、世に溢れる”正解”とされる言説を全て守ってしまったら、それこそむしろ、「言われたことしかできない人間」なのではないか。

ただ、それでももし、生きていく上でどうしても乗り越えなければならない壁があるのなら、その時は壁を乗り越えようとするのではなく、回り道して壁の向こう側へいけばいいと思う。

僕は新卒研修で、同期の友達と仲良くなりたいと思っていたけれど、クラスには馴染めなかった。クラスの大人数の中で、自ら上手く関わっていくことができなかった。しかし、僕には班の仲間がいた。少ない人数ながらも、彼らと関わることで、僕は同期の友達と仲良くなることができた。

何かができないからといって、そしてそれをしたくないからといって、それを後ろめたく思う必要はない。何かができないなら、別の何かで補えばいい。大人数が苦手なら、少人数のコミュニティを大切にすればいい。

なぜなら、ある壁を乗り越えられないという自分の弱みは、「克服するべき課題」ではなく、「自分が課した制約(ルール)」なのだから。

迷路は壁があるから面白い。分かれ道があるから面白い。もし、スタートからゴールまでが一直線で、壁が一つもない迷路があったなら、そんな迷路は誰も解きたがらない。

そして、迷路の壁は、必ずどこかで回り道できるようになっている。自分の弱みは、迷路にとっての壁であり、そのゲームを面白くするための制約である。それをいかに回り道してゴールへ向かうかが人生の楽しみであり、その回り道の過程が自分を形作る個性である。

全ての壁を乗り越えて最短距離でゴールに向かってしまったら、それは壁の無い一直線の迷路を解いているのと同じである。そこに残るのは、単調でつまらない迷路の軌跡である。

だからこそ、やりたくないこと、苦手なこと、弱みを見つけたら、それをどうやってやらずに済むかを考え、回り道を探して、また次の道へと歩む。それこそが、自分の人生を生きることなのだ。

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僕はもう二度と、街コンへは行かない。それは、大人数の中で人と会話することが苦手で、自分から特定の人を選んで積極的に話しかけることが苦手で、初対面で素性もよく知らない人の連絡先をいきなり聞くことが苦手だからだ。

しかし、だからこそ、僕は彼女を作る一歩を踏み出したのだ。僕は、大人数の中で会話しなくてもよい場へ逃げ続ける。そして逃げ続けた先に、きっと同じように逃げてきた人がいるはずだ。そして僕はそこで出会った人にこう言うだろう。「ここが僕たちの、逃げ続けた先に見つけたゴールであり、そして同時に、新たな迷路のスタート地点かもしれない。」と。

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そういえば明日は晴れるそうだ。朝、コーヒーを飲んで一息ついたら、散歩でもしてみようか。ランニングはちょっと、苦手だから。

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