見出し画像

『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』を見て思ったこと。

 ネットのどこかで拾ったはちみつぱいのポートレートを見ると、まだ二十歳そこそこだろうに鈴木慶一さんの老け具合が凄い。当時(60年代末~70年代初期)のミュージシャンは、こぞって髭を生やしたり、渋い恰好をしたり、老成感を出したがったものだが、これば九割方ザ・バンドのせいだと思う。
 みんなザ・バンドになりたかった時代、ザ・バンドになりたかったバンドたち、勿論はちみつぱいもそうだし、初期の葡萄畑、ブリンズレー・シュワルツ~ルーモア、ロニー・レイン(&スリム・チャンス)、ミール・チケットと列挙にいとまがない(「〇〇のザ・バンド」みたいなコピーがついたバンドもいろいろいたような…)。と言うわりに出てこなかったが(特にアメリカ勢)、バンドが有終の美を飾った映画、『ラスト・ワルツ』に集った豪華で多彩なミュージシャンたちを見れば、そのとてつもない影響力が知れるだろう。
 ツイッターで見かけた高橋健太郎氏のザ・バンドのドキュメント映画、『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』に寄せた一文を一気に読んだ俺は一路、吉祥寺アップリンクに向かった(渋谷シネクイントは上映終了していたので)。高橋氏は、大学時代にバンドでザ・バンドをカヴァーし、それ風のオリジナルまで作っていた経歴の持ち主(ツイッター上で公開していた音源を聴いたことがあるが、それはホーン・セクションも配した見事なものだった。俺も学生時代、バンドでザ・バンドやルーモアをコピーしていた過去があるので、世代的に少しずれがあるとはいえ高橋氏にはシンパシーを感じざるを得ない)。
 映画はザ・バンドのリーダーであり、生き残りであるロビーロバートソンの語りで進行する(映画はロビーの自伝本が原作)。映画は母親がネィティヴ・アメリカンだったこと、ネィティヴ・アメリカンの居留地で聴いた音楽の原体験、父親のDV、ギターとロックンロールとの出会い、フランスで一目ぼれした美人奥様とのなれそめ、とロビーが「ザ・バンド」になるまでの紆余曲折の物語がすいすいと進んでゆく。「な~んだ、レヴォン・ヘルムの自伝本にあった通り、ロビーの一人勝ちなんかな」と思っていると、ビッグ・ピンク時代にリック・ダンコが飲酒運転で事故を起こして首の骨を折った事件から物語は暗転する(ダンコの回復までバンドは表立った活動ができなくなり、逆に神秘性は高まった…)。高橋氏の指摘通り、ここからザ・バンドはアルコールと自動車事故、そしてドラッグ(ヘロイン)の暗黒時代に突入してゆく。思ったよりも、ずっと早く。
 ものすごくざっくり言うと真面目に自分の音楽を追及して酒やドラッグに溺れなかった家庭人ロビーとガース・ハドソンはサヴァイブしたということか。
 セカンドの通称「ブラウン・アルバム」(『ザ・バンド』)を機にバンドの求心力は弱まり、楽曲もその後はロビーの作品だけになってしまう。楽曲がワンマン体勢になったのは他のメンバーが曲を作れなくなってしまったという冷酷な事実があった(しかしアレンジはバンド全体で作り上げる。これがレヴォン・ヘルムの妬みの元になった)。それでもリスナーは『南十字星』までは「ザ・バンドは別格なんですよ、やっぱすげ~わ」と思って聴いていたわけで、バンドのへろへろな現実はリスナーにはわからない。これは「ロックバンドあるある」。オールマンブラザーズ・バンドも家族~~親族郎党の結束を打ち出し、ポップな新機軸でヒット作となった『ブラザーズ&シスターズ』のリリース当時、メンバーの家庭事情はそこまでハッピーなものではなかったという。
 冒頭、「クリプル・クリーク」を自宅風スタジオでメンバーが演奏するシーンを見ているだけで目がうるうる来ていた俺だが、終盤、『ラスト・ワルツ』の「オールド・ディキシーダウン」の演奏シーンでは声をあげて泣きそうになった(マスクが鼻水で濡れ濡れに)。 

 既に3人はいない。特別なバンドだったザ・バンドはもういない。

 クラプトンがウッドストックにザ・バンドを訪ね「リズムギターでいいから入れてくれ」(そんな無茶な)と懇願した仰天エピソードやジョージ・ハリスン、タジ・マハールといった多彩なコメント陣に加え、「リチャード・マニュエルはなにもアイデアが出せなかった…」等、関係者のシビアな重要発言も多い。コメントする有名人ではスプリングスティーンが不良中年化してて意外だった。仰天エピソードと言えば、「ロック・オブ・エイジス」の時か、疲労の極致に達して憔悴し切ったロビーが催眠術師の施行で元気になったというエピソードも。こうしたエピソードが当時の貴重な実写を交えてどんどん出てくるので、おもしろくないわけがない。
 「クリプル・クリーク」の演奏シーンで胸が詰まった感覚、これは覚えがあるぞと思ったら、これは2年くらい前に帰省した時、昔のバンド仲間と飲んでて、高校の時にやってた鈴木茂のコピバンは、自分たちでは絶対とんでもなくすごいことをやってると思ってたことを酔った勢いで激しく主張した時と同じ感覚だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?