見出し画像

『TOKYO ROCK BEGINNINGS』「慶應風林火山」と「立教SCAP」をめぐる群雄割拠の時代…

 何かが動いている時代、何かが変わってゆく時代、そんな時代に生き、その瞬間に立ち会えた者は幸せだ。
 
 この本は60年代半ばから末期にかけ、日本のロック黎明期に大きな役割を果たした二つの大学サークル、慶應の「慶應風林火山」と立教の「SCAP」の当時の動向をそれぞれのキーパーソンへのインタビューから解き明かそうとしたものである。ものすごくざっくり言うと、この二つの学生サークルから、はっぴいえんどが生まれた。つまりそういうことだ。
 「慶應風林火山」の中心人物は高橋信之。高橋幸宏の6つ年上の実兄である。「風林火山」のオーガナイザーとしての活動とともに中学校(慶應幼稚舎)時代に結成し、大学卒業後まで続いたエレキバンド、フィンガーズの中心人物として活躍した。フィンガーズは、のちに日本のロックギター界のパイオニアとなった成毛滋を擁したスーパーバンドだった。代表曲である「ゼロ戦」の曲名だけは知っていたが、今回、本書をきっかけにyou tubeで聴いてみた。これがタイトルとは裏腹のムーディーで濡れたマイナーインストでずっこけた(タイトルからして、成毛滋のエレキが炸裂するアグレッシヴな曲だと思うじゃないですか…。フィンガーズの名誉のために書き添えるとそのテクニックは確かで「大学ナンバーワン・エレキバンド」という肩書は伊達じゃない)。フィンガーズがムーディーなインストバンドだったという事実は、まだ時代がロック前夜だったことを象徴している。ちなみにフィンガーズは二度のメジャーデビューを果たしたものの、ビートルズの台頭~歌ものGSが主流となった風潮に追いつけず69年に解散している。
 著者の君塚太氏は65年生まれ、本書の細野晴臣へのインタビューの序文で語っているように細野さんの入口はYMOと「後追い」の世代であるが、何故、この時期、この2サークルに数多くの才能ある若いミュージシャンが集まり、結びついていったのかを明らかにしたいという「熱」にこちらもどんどん浮かされる。
 アメリカン・ユースカルチャーの影響をモロに受け、とにかく「新しい事、カッコいい事、面白い事」をやりたいという一念で高橋信之は軽井沢の別荘地、レイクニュータウンで三日間の限定遊園地、「森と湖のカーニバル」を企画する(67年?)。ヤマハやホンダといった大企業をスポンサーにつけた本格的なレジャーイベントだったが興行的には大失敗する。しかし風林火山のメンバーだった景山民夫の発案になるフォルクスワーゲンに何人乗れるかというナンセンスなチャレンジや、まだ中学1年だったユキヒロさんも参加したという張りぼての車で斜面を駆け降りる「ソープボックス・レース」といった当時のアメリカのユースカルチャーをダイレクトに実現させようとしたダイナミズムに胸が躍る。
 二番手として登場する高叡華は風林火山の紅一点、彼女は小坂忠の伴侶でもある。ディレクションに長けた彼女はイベントをどんどん取り仕切り、マッシュルームレコードの創設に参加、78年には小坂忠とともにゴスペル専門レーベルである「ミクタムレコード」を興し現在に至っているわけだが、誰もやったことがなければ、自分たちがやればいいとするパイオニア精神には目を見張るものがある。目ざとい人は小坂忠の名盤、『ほうろう』の「ゆうがたラブ」の作詞にクレジットされた彼女の名前を見たことがあるだろう。強力なプロデュース力で風林火山を仕切っていた高さんに俺の大学時代の軽音の1年先輩のМ女史がダブって見える。人当たりがよく、ものおじしない彼女は四国出身のため学校の近くのマンションに独り住まいしており、そこは先輩バンドのたまり場になっていた。口さがない先輩の一人は「これで顔がリンダ・ロンシュタットやったらなあ」という言葉を残している(ひどい)。彼女は数年前、30年ぶりという軽音同期の同窓会を企画して、それを実現させている。当時、記念のホームページもあったと思う。1年で軽音を飛び出した俺も末席に加えさせてもらったがタイムマシーンで当時に戻ったような稀有な体験をさせてもらった。かように本書を読んでいると、バンドだけやっていた自分の若き日の出来事がフラッシュバックする。立教、SCAPの中心メンバー、柳田優(柳田ヒロの実兄)のインタビューに登場するマニアックな音楽好きバンド学生がこっそり聴いてたような曲を凄いテクニックと機材で演奏する青学の高校生バンド、ムーヴァーズ(当時はギターだった小原礼と林立夫がいた)には「聴いてよこのテクニック!完コピで鈴木茂やってる高校生は日本にいない!(思い上がりもはなはだしい!)」と鈴木茂バンド、ハックル・バックのコピーバンドをやっていた高校二年生の俺の姿がちょっとダブる。この話には大学の軽音で出会い意気投合した友人、Hくんから高校時代、大人数でティン・パン・アレーをやっていたと聞いてショックを受けたというオチがつく。
 慶應風林火山と立教のSCAP、それぞれの人脈が交錯してゆく中でエイプリルフール~はっぴいえんどが生まれたわけだが、そもそもの接点は柳田優が夏に房総半島の民宿を貸切り、運営していた私設キャンプストアに(こういう経営者的な発想ができるだけで単純にすごいと思う)宿がないという慶應の高校生二名が転がり込んできたことがきっかけだったという。この二人は松本隆のバンド、バーンズの前身バンド、バーバリアンズのヴォーカリストとベーシストだった。この本を読んでいると、こうした「偶然の必然」の連続に圧倒される。
 ここで2006年に出た鈴木茂の自伝本、『鈴木茂のワインディングロード』にある同時期の鈴木茂のエピソードを見てみたい。都立高に入学し、バンドC・I・Aで活動していた鈴木茂の上手さは「奥沢にすごくギターのうまい奴がいる」と噂となっており、茂の兄の同級生だった柳田ヒロがわざわざ家までやって来たという。いい話だ。そして柳田優の企画する自主コンサート、PEEPのオーディションを受けることになり、そこで小原礼、林立夫、細野晴臣らと出会うことになる。彼らと所謂、ダンパ・バンドとして、スージー・クリームチーズやドライアイス・センセーションとして活動を続ける中、高校生だった鈴木茂は細野さんの家に泊り、朝までレコード三昧。朝、細野さんの車で奥沢の自宅まで送ってもらっていたという。いい話だ。そして細野さんは小坂忠がちらつかせる五万円の給料袋に誘われ、エイプリル・フールに参加することになる。そして細野さんの抜けたバンドは小原礼を加えてSKYEとして再出発する(本書のファミリートゥリーによると後藤次利もギターで参加している。この本には登場しないがのちに小坂忠バンド、フォージョーハーフやミカバンドに加わる後藤次利も重要人物だ。ちなみに彼も青学。ついでに言うと青学の後輩には鈴木顕子→矢野顕子もいた。青学人脈もすごい)。
 「PEEPでは、その後ミュージシャンとして繋がってゆくみんなと知り合うことができた。今から思うと大きい存在だったんだよね。確かにこの時期に出会ったメンバーの演奏は当時から既に目立っていた」(鈴木茂、前掲書より)
 組織力が強かった「慶應風林火山」と比べると立教の「SCAP」は柳田優の「個人商店」(本人の弁)という色合いの濃い組織ではあったが、細野さんたちと組んでいたバンド、ドクターズの発表会として始まった自主コンサート、PEEPは2回目からオーディション形式を取り、そのレベルを高めてゆく。オーディションの審査員であった柳田優や細野晴臣の前に鈴木茂や小原礼、林立夫といった「おそるべき高校生たち」が現れたわけだ。
 66年から67年にかけて都合5回しか開催されなかったPEEPだが果たした役割は非常に大きい。PEEPだけでなく、各種ダンスパーティーが風林火山と野合する形で何回か開催されており、その中で才気あふれる若いミュージシャンたちが出会い、それぞれに触発され新しいバンドを形成していった(そのひとつの究極体が、はっぴいえんどというわけだ)。本書でも触れられているようにアル・クーパーやマイク・ブルームフィールドらの『スーパー・セッション』の影響も少なくないと思う。
 それにしても、これだけの才能がこの二つのサークル周辺に集結していた事実には驚愕するしかない。このインタビューの中で各氏が語っているように、表現したい者とそれをプロデュース、ディレクションする者、そしてそれを受け入れる箱(別荘地~軽井沢のホテル、三笠ホテルや赤坂プリンス等を含む)の三位一体がそろっていた奇跡の時代だったということだろう。まだ前例がないからこそ、できたと言えるのかもしれない。単なるお金持ちのお坊ちゃんの座興を大きく超えた「新しい事、カッコいい事、面白い事」をやりとげるパワー、実行力、いろいろな物事が停滞閉塞しているこんな時代だからこそ、そこに激しく心惹かれる。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?