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星の位置は変わる



ほくとくんの神輿を担ぎはじめてはや数年。好きになったもの、新しく興味を持ったものは沢山あるが、その中でも"エンドロール/クレジット"はほくとくんを好きになる前と後では格段に重みのあるものになり、いつでも心を揺さぶる時間である。


ほくとくんの言葉の中でもよく引用される(する)もののひとつに「(SixTONES)を背負って立つ場所はお芝居を通じた場所でありたい」があって。この言葉を聞いてから、より一層クレジットに着目するようになった。
そんなほくとくんがのちにクレジットにおける"松村北斗(SixTONES)"と"松村北斗"の違いを明言してくれていたことがある。ほくとくんの中では仕事のモットーとして前者は直接的なSixTONES業、後者は個人業の感覚だという。作品によって、表記の違いがあり、あれはどういう基準でそうなっているのかは存じ上げないのだが、ほくとくんがそう明記してくれてから、わたしもその解釈をいただいている。


初めてトップバッターに松村北斗の文字を見たライアー×ライアー、新海作品に声を乗せた誇らしさを感じたすずめの戸締まり、並ぶ名前に思わず以前の2人を思い出してしまう夜明けのすべて。特にライアー×ライアーは、初めての主演映画とSixTONESの主題歌で、私が初めてしっかりと見届けたいと思ったエンドロールでもある。僕が僕じゃないみたいだに合わせて下から流れてくる松村北斗の文字は、嬉しさや喜びといった私の幸せのバロメーターを左右するあらゆる感情がこころの中で膨らんで、心を隙間なく埋めていった。
ドラマでいうと、朝ドラ カムカムエヴリバディや、NHKドラマ 一億円のさようならのクレジット2番目も印象的で。一億円のさようならに関してはSixTONESANNで、北斗「一億円のさようなら見た?名前。上川さんあって次、松村北斗」樹「すごいな、お前2番目か」北斗「ばばーんって書いてあんのよ」 って誇らしそうに話してくれた日があった。そこでほくとくん自身も、クレジットの位置には少なからず関心があることを知った。なお、この一億円のさようならは"松村北斗(SixTONES)"表記だったことを踏まえても、(恐らく初の)クレジット2番目という位置は特別だった。


実は、私が北斗くんの演技に初めて触れたのは、坂道のアポロンである。過去のテレビドラマはなんとなくテレビから流れていたもの(つまり毎週意思を持って見てきたわけではない)ではあったかもしれないが、観たい番組があったテレビっ子でもなく、ドラマも観ていいかダメなのかは親に決定権があったため、正しくは北斗くんの演技のお仕事で自信を持って心が動いたといえる瞬間かもしれない。
あの日スクリーンで観たどの出演者よりも松岡星児が目に焼き付いて離れなかった。あの時のしこりは今でもわたしの胸の中に鎮座していて、松村北斗を私の担当として神輿を担ぎ続ける日々の中ではいつだってふとした瞬間に胸を刺激する。あの少し嫌みたらしく、ザ・お坊っちゃんで訛りが混ざった、田舎にいるちょっとええとこの子な星児くんの演技が上手くて。出演時間は今と比べると作品のうちのほんの僅かだったと思うけれど、何故か家に帰っても妙に記憶に残っていた。
ただ、あの時私は当時お付き合いしていた彼と観にきていて、デートという時間に少なからず酔いしれ、クレジットはさらっと見終えてしまう人間であった。松村北斗という文字はきっと視界に入れていたはずなのに、記憶として残ったのは「あのキノコ頭の子、初めて見たな〜良かったな〜」くらいだった。悔しい。ほくとくんを好きになってから、あの時のキノコ頭くんがほくとくんだったって、正しく点と点が線で結びついた瞬間は、やっと出会えたスッキリ感と、"あの時なんで名前を調べなかったんだろう、クレジットで見ていたはずなのに"という大きな後悔だった。きっと、あの頃Twitterで呟いてたらどこかに住む北斗担が親切に教えてくれていたんじゃないかなとも思うが、そういう知恵もなく自分の気持ちを素通りしてしまった。悔しい。でも、きっとその時は「へ〜」で終わっていたと思うし、私には私にとってベストなタイミングでほくとくんに出会っている。言うなれば、松岡星児という人物は、私が松村北斗と出会うための序章だったのだろう。

この経験からも、わたしにとってクレジットの松村北斗という文字は大切にしたいものなのである。






ディアファミリー。ほくとくんの作品が決まると、いつも私はできる限りほくとくんのインタビュー記事を読み、ほくとくんがどのようにその作品と、その人物と向き合ったのか、苦戦したところや褒められたところ、今回の作品を通して得たもの、感じたものなど、松村北斗という人物が今になって話す作品のあれこれをできる限り入手してから作品に立ち向かう。これは、ほくとくんを知りたいという気持ちが先行したもので、作品の知識を深めたいからというわけではない。ネタバレはあまり踏まないようにしたいので、原作は1回目と2回目の間に読むことが多い。語弊を生まないように注釈を入れると、もちろん作品に全く興味がないわけではないので安心してくれたら嬉しい。私は割と感受性が豊かなタイプなので、事前情報がなくてもすぐ作品には感情移入できてしまうのだ。
わたしの見方は、もしかしたら、ほくとくんが観てほしい作品の見方じゃないかもしれないけど、どうしたって私はほくとくんのお芝居が観たいから。ほくとくんのエキスを含んだサプリを飲んで、ほくとくんが悩み抜いた期間やシーンを少しでも理解して見届けたいと。こんな気持ち悪いことを考えながらも、結局作品にいつものめり込み涙を流していたり感動したり、ほくとくんが話していなかった別のシーンのお芝居が好きで忘れられなくなったりするから、つくづく自分は自分勝手だなとも思う。

今回、年度末から新学期を経たことで、仕事がこの仕事を始めてから経験したことのないくらいの忙しさになった。それゆえに、いつものある種ルーティンともいえる雑誌漁りが一度もできずに映画公開日を迎えてしまった。わたしがディアファミリーのほくとくんの情報として知っていたのは、挑戦してもらいたかった医者役ということぐらいで、役名は絶対何度か見ているはずなのに、名前さえも覚えていなかった。


クレジットを真剣に観るようになってから、なんとなく流れてくる順番に興味を持つようになった。キャストの順番は、主演の人から流れてきて、段々と所謂脇役になっていった後、サブ位置にいるけど物語の重要な位置にいる重鎮のような役者さんが最後を飾ることはなんとなく理解していて。今回、事前情報をあまり仕入れていなかったこともあり、ほくとくんはどれくらい出るのか、どんなポジションにいるのかもわからなかったが、作品を真っさらな気持ちで観ると、(富岡くんのお話はTwitterやら、スペースできっとしていると思うので、今回は軽く大雑把に)ほくとくんの演じた富岡くんは坪井さんにとってなくてはならなかった人だと思う。素敵な役をもらったな〜とぼんやりエンドロールを眺めていたが、一向にほくとくんの名前が出てこない。あれ?と不思議に思いながらも見続けていたら、少し空白が空いて有村架純ちゃんのお名前が出てきた。架純ちゃん、時間軸が今に近い時代での出演で、最初はかなり脇役なのかな?と思っていたので、この作品って贅沢な使い方するな〜と生意気ながらに感じていたのだが、クライマックスにはここに有村架純ちゃんを置いた理由がわかってしまう関係性で面白かったな〜だなんて思い返していたら、松村北斗の文字が流れてきたのである。いやまじ?有村架純の次?いやいやいや、待って?しかもその次に光石研さん?え、終わったよ?いや、光石研さんが最後に来るのは、映画観てたら出てる役者さん的にわかるんだけど、ほくとくんってその位置に居たんだ‥‥‥と嬉しいようななんとも形容し難い気持ちでいっぱいになってたらエンドロールが終了していた。エンドロールでがつんと殴られたような感じは初めてだった。映画館を出て、これはすぐにクレジットの流れについて知識を得なければと、ネットを探りまくった。わたしが得た知識は以下の2つである。

・主演者に匹敵するか、より重んじられる出演者を、キャスト順の最後に配置する手法があり、日本語では「トメ(止め、留め)」という。(Wiki)最高位の脇役で鍵を握る役割を持っている。
・最後から2番目に表示される役で、殆どの場合において物語の鍵を握る役に相当する。トメには劣るが、ドラマによってはトメと同等の影響力を持つ。→「トメ前」という。




ほくとくんって、富岡くんって、トメ前だったんだ‥‥‥トメ前。初めて聞いた響き。うん、素敵だ。嬉しい。嬉しい嬉しい嬉しい!底のほうからじりじりと興奮が迫る感覚、喜びで押し浸されるようなそんな感覚。初めての場所にいるほくとくん。そっか、そんなところまで来たんだ。さっきも書いたけど、富岡くんは坪井さんにとってなくてはならない存在だったし、物語を大きく支える人でもあった。全体の出演時間は少なかったかもしれないけれど、物語の核を担っていたし、富岡くんの医者としての熱さは、ほくとくんの最近の傾向ではやや珍しい切り口(最近は、ほくとくんの中のさびしさやある種の劣等感、内省力という風な不安とか寂しさとかから切り拓いていった役が多かったように感じる)で、だけどほくとくんの仕事における情熱の熱量や豊かさを記事やブログから日々感じているオタクのわたしからすれば、この役はほくとくんにぴったりだと思った。医者という立場の真髄を1番行動に移せる人だった富岡くん。ほくとくんがアイドルとして目指す先が"与えられる人"なのがとてもすきなんだけど、与え手を志しているほくとくんが演じる富岡さんは間違いなく与えられる人だった。

●中盤は富岡が宣政のヒーローに見えるような展開も。役の関係性の変化をどのように構築していかれたのでしょうか?
北斗:お芝居のキャリアもたいしてない人間だから自信がなかったし、実際自分の演技をモニターで見てどうしたものかと頭を抱えている状態で。でもいざシーンが繋がったものを見ると、できている。「なんでなんだ?」と考えながら見ていくと、やっぱり隣で僕の顔を見て僕の言葉を聞いて受けてくれている大泉さんが、富岡がどういう意図でここにいるかを説明してくれているんです。大泉さんのお芝居とセットで、今回はできた。だから役の関係性ができていたのは、はすべて大泉さんのおかげです。僕の力なんて微々たるものですから、すべて大泉さんによってという感覚でした。

ディアファミリーSPECIAL TALK
対談:大泉洋さん×松村北斗さん


このブログを残す中で、そういや対談を見ていなかったことを思い出した私はいそいそとYouTubeを開き、ほくとくんの憧れである大泉洋さんとほくとくんの対談を観ることにした。

⬆︎ほくとくんの愛はこちらから


ほくとくんにとっての北極星ともいえる存在との念願の共演。ほくとくんはどんな気持ちを抱えて現場に足を運んでいたのだろうか。楽しい?念願?憧れ?恐れ多さ?今回のほくとくんは「委ねた」先にある自分の演技を見て、「できている」と感じたらしい。
珍しいな、と思った。過去の作品でも、共演した俳優さん女優さんとの掛け合いから自然に出たもの、だったり、〇〇さんが上手でどうしようかと思った、みたいな話は出てきた記憶があるけれど、それに対しても「できた」と表現することは少なかったように思う。絶対的信頼の大泉洋さんが相手だから安心感もあったのかな〜なんて考えると、ここに帰ってくる。

「実は僕、オーディションが好きなんです。もちろん緊張もしますが、その瞬間だけは責任なく、自由に演じられるのが楽しくて。今回も練習試合をしているようで興奮しました」


今回はオーディションでもなければ、真反対のめちゃ大事シーンであっただろうが、控え室で大泉さんと夜明けのすべてでも共演していた光石さんがふざけていた状況は、ほくとくんのひとつの強みでもあろう隠の傾向に、ある意味陥りすぎない環境であり、いっちゃえ〜!なんて大きなクッションに飛び込むような気持ちで臨みやすかったのかもしれない。


大泉洋さん:僕に全然できないお芝居をする松村くんが面白かったですね。「へ~こんな言い回しをするんだ!」って。だから僕は彼に言ったんです。「自信がないとか、自分は役者でもないって言うのは失礼だから言わない方がいいよ」と。でもその自信のなさがまた、“演じ過ぎない”彼のお芝居に繋がっている。そこが僕が見て面白いなっていうお芝居をされる所以ゆえんなのかなとも思います。

ディアファミリーSPECIAL TALK
対談:大泉洋さん×松村北斗さん


ほくとくんは製作者サイドに「これもやらせてみたい」という一種の「染めたい」欲を刺激させるらしい。困ったスパイスである(褒めてる)。その根源だろうか?


月川監督「富岡は実在の医師をモデルにしています。主人公の無謀にも見える挑戦に対して過度な期待を抱かせないように距離を置く態度や、衝動的に込み上げる熱い想いの表出など、繊細にキャラクターに息吹を吹き込んでくださいました。わずかな目の動きや息遣いに至るまで、劇場空間で見る価値のある表現が作品に刻まれていると思います」

実のところ、わたしはまだほくとくんの繊細さを言語化できるほど、その魅力に気づききることができていない。見たままをそのまま取り入れてしまうわたしの悪い癖なのは重々承知の上、叶うことならば実際に現場で、肌感で感じたいと。わたし自身が気付けるほくとくんの繊細さを知りたい。もちろん、これから先もスクリーンや映像から、吸収できる限りの繊細さを見つけていくし、北斗担として繊細さに気付ける人間でありたい。




ほくとくんが作品に挑んだ証としてエンドロールまでしっかりと見届ける。ここまでが作品を観ているわたしができること。そして、観終わった後はできるだけ感想を残す。これが作品に対してわたしができることなのかなと思う。




ほくとくんがトメ前として演じた富岡進は、わたしにとって思い入れのある役柄になるだろう。





いつだって、どんな場所にいても、星は輝き続けるのだ。



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