高貴にして優雅なワルツ(前編)
夜になると店の前にぼんやりとした灯りがついた。それと知らなければ気付かずに通り過ぎてしまうほどの明るさだったが、近づいてみるとガラス戸に確かに「カフエー へいあん」と書いてあるのだった。
扉を開けるとこれも暗い廊下があって、その先にまた扉があるのが見える。そこを開けると急なキラキラとした光に目が眩むが、慣れてみるとやっぱりそれほど明るくない、しかし、奥が見えない上に壁一面がガラス張りだったから実際よりもずっと広く感じられる店構えだった。
壁際にテーブルがいくつも置いてあって、そこに女給たちが座っている。真ん中には一段高くなった円形の舞台があり、そこだけが明るいように客たちには思われた。
ステージの右手にはこういう店には似つかわしくないほどの立派なグランドピアノが置いてあって、時間になるとピアニストが座って流行歌を弾き始める、すると、まるで壁の中から出てきたように男女の踊り手たちがスッと舞台に現れて踊り始める。そうすると客と女給とも店の真ん中で踊る、そしてたいていのカップルはそのまま2階へと上がっていくのだった。
戦中には8軒あった界隈の店は今や3軒にまで減っていた。それもこれもGHQが公娼を廃止したせいだった。どの店もやむなくカフェーやレストランに名前を変えたが、中心部の「特飲街」と比べると、この辺りの寂しさはどうしようもなかった。戦後の糸の切れた狂乱とは縁がないと割り切るしかなかった。
ただ、瑗子は気づいていなかったが、それとは別の理由でこの界隈は避けられていた。それは、戦中に将校連が毎晩のようにここの店で大騒ぎをしていたからで、そのために酒も食料も何一つ不足のないまま終戦を迎えたのである。街の中心から離れていて寂しいことがまさにこの辺りが選ばれた理由で、しかしそれで何が隠されるわけでもなかった。
瑗子の店がそれで儲けた、というだけならまだしも、色々と便宜を図ってもらったというのが街の人たちの静かな怒りを買っていたのだった。息子の健一の兵役を逃れさせるために店の女中を売ったという噂まで流れていた。そして、それは根のないことではなかった。
瑗子は召集された息子が内地勤務になるように、配属に口の利ける将校に女を「払い下げ」たのだった。それで健一は兵站を管理する部署に入ったのだが、何を思ったか自ら志願して戦地に赴いてしまった。そして、今はどこにいるのか、行方はようとして知れなかった。
戦争が終わると店が何とか続くように瑗子は奔走したが、GHQが公娼を廃止するのは如何ともできなかった。慌てて料理人を雇い入れ、女たちを女給にはしたものの、界隈で一番の店であった自負から、どうしても安っぽいところにはしたくなかった。健一弾いていたピアノを改装した店に入れて、復員したがいくあてのない飲んだくれのピアニスト、そして男女の踊り子を雇い入れて、昔日の盛場のような誂えにした。それで瑗子は満足したが、客たちは戸惑い、女たちも稼ぎのいい街中へと流れていった。斜陽となっているのは明らかだった。
突然、息子が帰ってきたのはそんな折だった。
waltz/ワルツ
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