のんのんさんもおやつにしなさい言うてはるわ
町内にある長屋の多くは戦前から姿を変えておらず、人の背丈ほどの平屋が並ぶ中に迷い込むと初めて来た人は簡単には出られなかった。碁盤の目の市にあるにも関わらずこの辺りは突き当たりばかりあるので、まごついている観光客を見かけることもよくあった。
そんな路地の一つに母の家があった。そしてその真裏にこの辺りの唯一のランドマークである教会が建っていた。これも戦前からあり、尖塔の中には鐘も釣ってあって、何か式のある日には乾いた音で鳴った。この教会がどちらに見えているかで町の者は東西南北が一目で分かった。とは言え、尖塔のてっぺんも新しく近所にできた3階建てのマンションより低かったし、水色の壁とも相まって、まるでおもちゃのように見えることもあった。
教会にはオルガンもあった。それが平日はきっちり3時に、日曜は9時に弾かれるのだった。日曜のオルガンはミサのためだが、平日は練習をしているらしかった。だから、途中で止まったり急に別の曲になったりした。母は3時のオルガンを聞くと、「のんのんさんもおやつにしなさい言うてはるわ」と言ってお茶をいれかりんとうを食べた。生協から出ているハチミツがかかっているやつでだいぶ邪道なものだと思うし、そもそもカタログに載っていないこともあって、そうなると機嫌が悪かった。私はそんなばばくさいものは食べたくなかったからいつも渋い渋いお茶ばかりお相伴に預かっていた。
「のんのんさん」のところの牧師さんは母が言うには「真面目な人」で、これは「日頃の挨拶はしなければいけないがそれ以上は特に何かしなくてもいい人」という意味だった。母は真宗だったしご近所という以外の付き合いは無かったようだ。ただ、時間にうるさい母は必ず3時にオルガンが鳴るのは気に入っていたらしい。「毎日毎日ようやったはるわ。」とかりんとうを齧りながら言うこともあった。
春先に母は倒れて起き上がれなくなってしまった。母が嫌がったのと主治医の北川さんのすすめとサポートもあって家で看病することにした。歩き回ることができなくなって母はすぐに衰弱した。しかし、本人も周りも恐れていた認知機能の障害は起こらなかった。むしろ、寝ていることしかできないのに頭脳がはっきりしていることが、常日頃からきっちりしている母の神経を苦しめた。始終イライラして私がすることなすことにケチをつけた。食べ物もなんでも食べたがったが、のんのんさんがおやつにしなさいと言ってもハチミツがけのかりんとうなど北川さんに許してもらえるはずもなく、それもストレスになっていた。
ある日、いつものようにオルガンが鳴り出した。すると、母が急に「あれを弾かはるし、もう夏やわ」と言った。曲そのものには興味がないと思っていたのに聴き分けているのに驚いた。
「ちゃうやん、何十年も聴いてるしや。」
しばらく耳を澄ませていたかと思うと、急にこちらに向いた。
「なあ、相聞寺さん呼んでくれるか? もう長ないわ。」
ぎくっとした。冷房嫌いの母が夏を超えられるかどうか気になっていたところだった。
「そんなん言うて、縁起でもない。」
「お葬式のこととかはっきりさせとかなあかん。まだわかってるうちにやらんと。」
「せやけど。」
「電話して。」
「なんや、元気やないか。」
「相聞寺さん、おおきに。もうあかんわ。」
「あんたがあかんかったら誰でもあかんわ。」
「ここで葬式したいんやけどええやろか。」
「うちに来はったらよろしいがな。」
「そんなん誰も来いひんし、ここがええねん。」
「お父さん時はようけ来はったな。」
「あんなんかなんわ。奥さんも言うてはったで、かなんなーて。」
「あれはいつでもうちで葬式やるとかなんなーかなんなー言うてたわ。まあ、それならここでさしてもらおか。」
「戒名も何もいらんしな。ほんで、三回忌くらいで一心寺さん入らせてもらお思てるしな。」
これには私も和尚さんも驚いた。週に1回は相聞寺に墓参していたのに大阪で永代供養をして欲しいと言うのだから。
「お墓に誰もなんもしいひんほうがかなんしな。」
「まあ、それはまた泰子ちゃんと話とくわ。」
「それは私が決めることやしな。」
「まあ、お葬式もお墓も残された人のためにあるもんやし、また気も変わるかも知れんしな。」
「地獄からじゃなんとも言えへんから今言うといたるねん。」
「またそんなことを言わはる。まあいつまで経っても大丈夫や。ほな、また来るし。」
「おおきに。ご苦労さんでした。」
相聞寺さんが来たと言うので、隣近所も最後の挨拶に来るようになった。なんと、裏の教会から牧師さんも来てくれた。母は近所の人が来ると這ってでも玄関に出ようとしていたが、なぜだか牧師さんはベッドの上で迎えた。
「おおきに、まあわざわざえろすいまへんなあ。」
「いえいえ。どうやらお加減も悪くないようで。」
「いや、これはあきませんわ。自分の体やし、わかります。」
「そうですか。何かできることがあればおっしゃってください。」
そう言われると思っていなかったのか、母は珍しく一瞬黙り、さらにまた珍しいことに、おずおずと口を開いた。
「あの、オルガンなんやけど…。」
「お耳障りでしたか?」
「いや、毎日3時に弾かはって、きっちり3時やし、そういうの、よろしおすな。」
今度は牧師さんが狼狽えた。
「そうでしたか。それはそれは。」
「別にのんのんさんのことはわからんけど、最近、オルガンの音が胸に刺さるような気いしますわ。信心足らんし、やっぱりなんかそういう気持ちになるんやろな。」
「毎週お墓参りに行かれていたのですから、素晴らしいことです。」
「お父さんがな、うるさいねん。そうしいひんと。」
「元気になったら教会にも一度いらしてください。」
「はい、おおきに。もうじき弾かはるね?」
「今日は土曜日ですから普段は弾きませんが、よろしければお弾きしましょう。」
「おおきに、ありがとう。」
「3時に弾いていてもいいものでしょうか?」
玄関で靴を履きながら牧師さんが低い声で尋ねるので「のんのんさんのおやつ」の話をした。
「それなら安心です。まだちょっとそこらへんの機微がわからないこともあって。」
「母は割とはっきり言うので大丈夫です。」
「ありがとうございます。それでは…。」
十字を切って出ていった。人に十字を切られるのは初めてだから面食らった。
「泰子、泰子。」
母の声で我に返った。
「北川さん呼んで。」
「昨日来てくれはったばっかりやないの。」
「もうあかんねん。」
ぼそっと呟いたのが本当に母の最後の言葉になってしまった。
あっという間に通夜が始まり狭い家は一気に人で溢れた。いくら母が人が来ないと言っても隣近所の付き合いはあるから、その人たちへの応対と、東京から来た兄夫婦と徳島から来た弟の相手をしてへとへとになってしまった。お葬式は次の日の朝になった。
「何、あの音?」
読経の最中に兄が兄嫁に聞いている。
「オルガンの音じゃない?」
そうだった、日曜朝だとミサの時間と重なるのを忘れていた。
「隣で葬式やってるのに非常識じゃないか。おい、やめてもらうように言ってきてよ。」
うわ、兄が帰ってきた、と昨日から何回も何回も思っていたが改めて兄が帰ってきたと思った。
「ちょうど日曜でミサしてるんだし、仕方ないでしょ。集中して。」
「何言ってんの、お坊さんが集中できないでしょ。俺言ってくる。」
玄関に行った兄をようやく捕まえた。
「ほんまにやめて。」
「は? だって非常識だから。」
「どっちが非常識なん、毎週ミサはしてはるんよ。」
「だったら言っておけよ。お葬式するってさ。」
「そんなん言いに行く暇あると思う?」
「別に電話すればいいじゃん。」
「なんでそんなこと言うの。」
「いいよいいよ、俺が今から言ってくるし。」
「近所の人でも通ってる人たちいはるんよ。なんて言われるかわからへんでしょ、言われるのは私なんよ。ほんまにやめて。」
「うるさいな。これじゃ母さんも浮かばれへん。お経とオルガンと混じって頭おかしくなりそうやわ。」
兄は母のつっかけで駆け出していった。しばらくするとオルガンの音が聞こえなくなった。私は玄関で耳にまとわりつく読経を聴きながら泣くのを必死に堪えていた。
初七日が終わってようやく落ち着いたので教会に謝りに行った。申し訳ない話だが、中に入ったのはその時が初めてだった。
「いえいえ、こちらこそすみませんでした。本当に突然のことで、お悔やみ申し上げます。こちらも気付きませんで。」
「兄が本当に申し訳ありません。」
「いえいえ、お兄様は教会に入られてから、入り口に座っていた妻に声をかけてくださったのです。で、妻が私のところに来て言ってくれたので、オルガンの音を小さくしました。それでも聞こえていたらすいません。」
「大丈夫です、大丈夫でした。ほんとうに申し訳ないことでした。」
当たり前のことだが、教会は外だけでなく中も小さかった。オルガンも、勝手にパイプオルガンを想像していたけれど、小さな足踏みのオルガンだった。
「お忙しい中にわざわざお越しくださいましてありがとうございます。」
「いえいえ、本当はすぐにご挨拶しに行かなきゃいけなかったんですけど。」「そんなことはありませんよ。何しろこれからはご自分を労られてください。」「ありがとうございます。」
「お詫びというか、私からのお祈りというか、今日はお母様のために祈りながら弾きましょう。」
「ありがとうございます。」
3時になった。教会からオルガンの曲が聞こえてきた。どんな曲かはわからないが、思ったよりも陽気な感じで安心した。誰もいない台所でぼんやりしていたが、ふと思い立って、おやつを呼ばれることにした。お茶を淹れて、輪ゴムで止めてある袋からざっとお皿にかりんとうをあけて母の椅子に座った。
「のんのんさんもおやつにしなさい言うてはるしな」と言って、かりんとうを口に入れた。
「うっわ、まっず!」
サクサクしてるものをイメージしていたら、湿気ていてふにゃふにゃのとんでもなく甘い何かが口の中を襲ってきた。慌てて吐き出してお茶で口をすすいだ。あんまり急いだものだから鼻にもお茶が回ってむせてしまった。何してるんだかと思ったら急に面白くなって一人で笑い出してしまい、それが止まらなくなって、気づくとわんわん泣いていた。その間もオルガンはなんだか楽しげな曲を奏でていた。
sting/突き刺す
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