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エルヴィスと井伏鱒二

 『青い月のメンフィス』を観に行った。タイトルからは全く想像できないが、能、いわゆる日本の伝統芸能の能である。それも、英語で演じられる能で、エルヴィス・プレスリーの命日にメンフィスのグレースランド、エルヴィスの墓所まで来た女性がエルヴィスの霊と邂逅するという筋立てだと聞いて、能の作りにも則っているし、金剛能楽堂(京都府京都市)での公演だし、面白いに違いない、と思って観に行った。(なお、7月21日(日)の公演だったが、その前に東京は早稲田大学の大隈講堂で19日(金)に公演しており、しかも7月19日はエルヴィスの最初のシングルが出た記念の日、みたいなことであったらしい。)
 断っておくと、この文章はその感想ではあるけれど、そこからわかったことがある、というのを言いたいがために書いているのであって、あまり感想などは書いていないので、そのつもりでお読みいただきたい。

 舞囃子の『高砂』、狂言の『梟』があってから『青い月のメンフィス』が演じられる。『高砂』は地謡は外国で構成されているが日本語であり、シテも日本人である。『梟』はシテは茂山千之丞、アドはジュビリス・モーアとルイス・ヴァイスで、英語だった。(ただ、配役が一部変更になったとアナウンスがあったから、違うかも知れない)。『青い月のメンフィス』はシテがジョン・オグルビー、ワキがミカ・オスカソン、アイが茂山千之丞で、これも英語である。『梟』はもともとある能を英訳したものだが、『青い月のメンフィス』はデボラ・ブレヴォートが1993年に書いたものを今回のために新たなヴァージョンを作成したものであるらしい。
 能は日本語ですら聞き取るのが難しいのも、英語で聞き取ることができるかというのはまあ気になっていたが、結論から言えば、役者の技量の高さで、ほとんどの言葉を平易に聞き取ることができた。さらに言えば、日本語の『高砂』よりは英語の2作品の方が何を言っているのかが明確だったように思う。(ただ、それは、『高砂』はいわゆる原語であり古語だから耳で聞いてもわからない、というのあるが、大鼓が急遽変更になったということで、全体に緊張があり、シテ・地謡・小鼓・大鼓のバランスが想定されていたのとは違ったのもあるかも知れない。)
 『梟』は鳴り物も地謡も無いので、よく聞き取ることができる。次郎冠者が山伏に太郎冠者への加持をお願いすると山伏は

某も此間は別行の子細有て何方へも出ね共、そなたの事じやにて依ていてもやらうか

笹野堅校訂『大蔵虎寛本能狂言(中)』岩波書店、1943

と答えるのだが、英語は「I'm busy」とパッと返して、「but…」と続ける。その「I'm busy」のところで笑いが起きていた。逐語訳ではなく、どこで笑うか、というのが考えられた物であったように思う。
 『青い月のメンフィス』は、全体にエルヴィスの歌った歌の歌詞が引用されていて、それがわかればもっと面白かったように思う。表面の、みんなが知っているところしかわからなかったので、それが悔しかった。
 構成としては夢幻能を踏襲している。エルヴィスのファンであるジュディがクリーブランドからメンフィスまでエルヴィスの命日に詣でてくる。墓所への入り口が閉じているので墓守のオスカーに尋ねると、そのように詣でてくる人は山ほどいるので夜は墓所は閉じてあるのだとすげなく返される。ふと口ずさんだUnchained Melodyを地謡が引き継ぐと、黒人男性が出てきて、ジュディを墓所の中に連れて行き、エルヴィスについて一くさり話した後に消える。墓守のオスカーが狂言型として場を繋いだ後、ジュディが夢現の境地に入ると、エルヴィスが現れ、生と死についての嘆きを述べた後に舞い、朝が来ると消えてしまう。
 エルヴィスが登場した時に、ああ、エルヴィスが来た、と思えたので、それで良かったように思う。私たちの知る能の番組も、それができた当時には、ああ、小町が来た、実朝が来た、と思えていたのかも知れない。(にしては、だいぶ時代は下がるわけだけれど)。

 さて、『梟』に話を戻すと、日本語のテキストがどのようになっているのか知りたかったのでパラパラとめくっていると、山伏が梟に取り憑かれた太郎冠者に加持をする場面に、このような台詞があるのを見つけた。

ボロオンボロオン。橋の下の菖蒲はたが植えたしやうぶぞ。折れ共をられず、かれども苅れず。ボロオンボロオン。

笹野堅校訂『大蔵虎寛本能狂言(中)』岩波書店、1943

 インチキなお祈りの言葉であるが、たまたまこれを見たことで謎が解けたものがある。それは、井伏鱒二の『厄除け詩集』の中の「顎」である。「けふ顎のはづれた人を見た」で始まる詩で、電車の中で顎の外れた人を見て「気の毒やら可笑しいやら」で笑い出しそうになる、という詩なのだが、その途中に

「ほろをん ほろをん」
橋の下の菖蒲は誰が植ゑた菖蒲ぞ
ほろをん ほろをん

井伏鱒二『井伏鱒二全詩集』岩波書店、2004

というのが突然出てくる。今までは、これは本当に突然で意味がわからなかった(そして意味がわからないから面白かった)のだが、これが『梟』から来ているのではないか(来ている、と言い切りたいのだが、山伏のインチキ加持は他のものにも出てくるかも知れないので、「来ているのではないか」に留めておく)、というのがわかった。
 つまり、これは、顎の外れた人に対しての祈りでもあり、しかしインチキな加持の文言でもあり、という、非常にハイセンス・ハイコンテクストな言葉である、というのに気づいた。
 もちろん、知っている人は皆知っているのだろうけれど、自分で気づけた、というのはいつでも嬉しい。なんと言っても昔の人は色々なことをよく知っているし、偉いな、というのを思った。

 なお、公演当日に販売していた『エルヴィスの幽玄 能が英語になったとき』は、台本、日本語訳から関係者のインタビュー、そして能そのものについて記載された非常に読み応えのある、しかもデザインとしても優れた冊子だったので、もし手に入れる機会があればおすすめした。

 また、『青い月のメンフィス』については、以下からさわりを見ることができる。エルヴィスの能面だけでも観ていただきたい。


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