リアリストとして生きるロマンチスト

この記事は言語化コミュニティ『シナプス』のアドベントカレンダー12日目として書かれたものです。


ドイツの哲学者ハイデガーが提唱した世界劇場という概念がある。
この世界は一種の劇場の舞台のような場所であり、すべての人が何らかの役柄を与えられ、脚本の通りに演技をすることを求められているというものだ。
しかし、私たちのありようと世界から求められる役柄は異なり、その差異は理想と現実のギャップなどという言葉でたびたび表現される。
会社員だろうとフリーランスだろうと仕事をすることを経験すれば、組織や時代の変化、自分の力ではどうすることもできない大きなものに踏みつぶされそうになったり、押しやられたり、意に反する選択を迫られることは何度もあるだろう。
社会人として一定の立場と責任を負えば、自分の意志や理想よりも役割を優先せよというプレッシャーを感じたことがない人はいないのではと思う。

自分のありようや理想を求めることをやめ、世界劇場における役柄に埋没していくことを耽落とハイデガーは表現した。
現実に折り合いをつけ、効率的に適応をはかっていくマインドは社会生活において重要だろう。脚本に合わない演技ばかりをしていればすぐに舞台から降ろされてしまうからだ。
サラリーマンであれば組織の脚本に従わなくてはいけない。そのほかにも親として、子供として、恋人として、
人は明確なラベルが付かないものであっても関係性ができあがれば、そこで必然的に何らかの役割を担うことになる。

しかし、自分の中に覚えた違和感や適応することの是非を顧みることなく耽落することは、自分にとってなにかとても大切なものを薄めていってしまう。
そのなにかとはたとえば「理想」とでもいうべきものかもしれない。「可能性」とも「希望」とも「夢」といえるかもしれない。もしかすると「自分自身」かもしれない。しかしとにかく、大切な、極めて大切ななにかが、少しずつ薄く透明になっていってしまうのだ。


耽落までには至らなくとも多くの人はロマンチストとリアリストの間で揺れて生きているのかもしれない。
現実がどうなっているかよりも、自分にとっての大切な「なにか」を優先するのがロマンチスト。
自分にとっての大切な「なにか」よりも、現実にどう適応するかを優先するのがリアリスト。

だとするならば、世界という劇場の中で役割を果たしつつ、
その「なにか」を探っていくリアリストとして生きるロマンチストとして配役を演じていきたいと思っている。

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