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【創作BL①】アクセサリーデザイナー×営業マン【サンプル】

次回のJ.GARDEN5にサークル参加予定です。スペースもいただいています。
前回、知人以外でお一人手に取ってくださいました。すごくすごく嬉しかったです。
どうもわたしのやり方では宣伝不足で、今ってネットを使っていない人は実力不足以上に見てもらえないのだと周りの方から教わりました。
WEB連載のようなことをやれたらいいのですが、まだ環境が整わないですし、今書いているお話は本という形にしたいなと思っているので、サンプルとして前回発行した1巻(メインの二人のお話としては上巻のつもりです)を半分以上を期間限定で載せてみようと思います。
どなたかが暇つぶしにでも読んでくださり、気に入っていただけたらいいな、と期待を込めて。



『REUNiiON 1』 KEI×TENGA


1.新宿22時、再会。

もうすぐ十月だというのに、湿気が身体を包んでぐるぐると渦巻いていた。残暑というにももう季節外れで、こんなところで地球の温暖化を感じながら、天河は人でごった返す夜の交差点を進んだ。
 喧騒を全方位から感じる。カラフルなネオンライトと、思い思いに騒ぐ人々の活気。
 賑やかだからこそ、一人で歩いていると、生まれ育った街の夜らしい静寂に満ちた夜を思い出した。
 地元はもう涼しいだろうか。学校帰りに感じていた草いきれを、土地を離れて初めて意識した。ここで感じることが出来るのは、人いきれ。人体の温度によって温暖化は進んでいるんじゃないか、なんてアルコールの入った頭でぼんやりと思う。
 交差点の短い横断歩道を渡りきり、客引きと目的もなく談笑している集団の隙間を抜けたとき、思い浮かべていた故郷の景色に重なるように一つの人影が視界の隅を通り過ぎていった。
 色褪せた校舎を背に、ぴんと伸びた真っ直ぐな背中。天河が呼ぶと、いつも緩かな微笑みで振り返ってくれた。
「相崎(あいさき)?」
 久しく口にしていなかった名前が、唇からするりとこぼれる。今にも雑踏に消えてしまいそうだった人影が、ゆっくりと振り向いた。
 とうに日常となっていた光景が、鮮やかに色付いていく。もしかしたら今の今まで、視界には灰色のフィルターが掛かっていたのかもしれない。
「……杉石(すぎいし)?」
 見開いた瞳が元に戻るまで、きっと一秒にも満たなかった。けれどその一瞬、街の喧騒が消えたような気がした。
 金曜日の二十二時。新宿は仕事から解放された人たちと夜の街の住人が入り混じり、いつも以上に賑やかだった。ついさっきまでは。
「うわ、久し振り。いつ以来だ? 元気?」
「おかげさまで。同窓会でも会わなかったから、卒業以来かな」
「ってことは……八年ぶりか?」
「うん」
 うわー、うわーと間の抜けた声を何度も上げる。そんな天河をじっと見ていた相崎はふっ、と吐息をこぼした。切れ長の目尻がスッと細くなり、やわらかくたわむ。深く落ち着いた濃い色の瞳は、当たり前だけれど昔と変わらない。
「変わってないな」
「相崎だって」
 同窓会にはもうずいぶんと行っていなかった。大学に入ると同時に上京して、大学生の内はまだ地元へも帰っていたけれど、その間相崎には一度も会っていない。就職してからは忙しさから同窓会のお知らせが届いても「まぁ、いいか」と流してしまっていた。
 約束をして会うような仲では、たぶんなかった。だから、どうしてるかなと時折思い出しながらも、何も行動を起こすこともなく。そうか、八年も経ったのか。
 八年ぶり、と自分の声が遅れて胸に響く。今日はそれほど飲んでいないはずなのに、いま突然アルコールが回ってしまったみたいに頭がふわふわとしていた。
「なぁ、相崎いま時間ある?」
 問い掛けてから、ある、と聞くのもおかしい時間だと気付く。声を掛ける前に相崎が向かっていたのは駅方向だった。けれど、このまま別れるのは惜しくて、思わず問い掛けを重ねる。
「もしかして終電迫ってる?」
 小さく迷う素振りをして、相崎は腕時計に視線をとした。細身のシンプルな時計は、いま大多数がしているスマートウォッチではなく、機能よりもデザインに重きを置いたもののようだった。それに刻まれたロゴには見覚えがない。
「一時間半くらいなら大丈夫。杉石は?」
「俺も一時間ちょいなら平気。んじゃ、飲みに行こうぜ。お勧めの店とかある?」
「特には」
「じゃ、俺の知ってるとこでいい?」
「うん」
 金曜日のこの時間にすぐに入れそうな店を頭に数件リストアップし、相崎を誘導して歩き出した。

相崎とは、高校が一緒だった。千葉の奥地。住宅地を少し離れると、同じくらい畑と森がある、そんな場所で相崎と天河は育った。高校は電車で数駅。さらに数駅行けば県外の人でも名前は聞いたことがあるようなそこそこ大きな街があり、同校の生徒が遊びに行くと言えば大抵その辺りだった。
「相崎、もしかして今日休みだった?」
 駅に向かう人の群れを避けながら、相崎の隣をキープして問い掛ける。
「いや、仕事帰りだよ」
 最近はクールビズでラフな格好の職場も多いけれど、相崎の服装から滲む雰囲気はそういったものとも違う気がした。
「そうなんだ。職場この辺?」
「ううん、違う。俺、在宅のようなものだから」
「在宅勤務? それとも自営?」
「自営、になるのかな」
「へぇ、すごいな」
「どうだろう」
 大通りから角を曲がり細い路地へ。途端に人が減り、歩きやすくなる。明るさも、騒々しさも、角一つ向こう側に引っ込んた。
 ふと、あの喧騒の中でよく聞こえたな、と思う。天河が相崎を呼んだ声は、ほとんど呟きのようなものだった。
 雑居ビルの一つで足を止め、地下の看板を指す。都内の大きな駅ならどこにでもあるようなチェーンの居酒屋だ。
「チェーンだけど、ここでいい?」
 相崎が頷いたことを確認し、地下への階段を降りていく。予想通り、席の埋まり具合は五割といったところだった。
 まずはビールと、すぐに出て来そうなつまみを選んで注文する。相崎もビールを頼んだ。
「食い物は?」
「ん、見せて」
 相崎が身を乗り出しメニューを覗き込む。記憶よりもさらに落ち着いた佇まい。顔の近さにどきりとした。あの頃と同じようで、やはり違う。そして、アルコールの匂いがまったくしないことに気が付いた。
「杉石が頼んだもので」
 店員に「以上で」と言い、改めて向かい合う。
「相崎と飲むのって初めてだな。今更だけど酒飲める?」
 最後に会ったのは高校の卒業式。初めてで当たり前だ。学ラン姿の相崎、を思い出す。
 ――桜、間に合わなかったな。
 ふいに、あの日の相崎の声が蘇った。
「飲めるよ。杉石は飲み帰り? あんまり酔ってる様子ではなさそうだけど」
 記憶に、いま目の前にいる相崎が重なっていく。
「そ。接待。だからあんま飲んでないんだよ」
 注文してから数分もせずにビールとお通しは運ばれて来た。さすが有名チェーンだ。
 「乾杯」とグラスを合わせる。グラスが軽い音を立てるとき、相崎のテーブルに置いた左手で指輪が光った。一見シンプルだけれど細かく施された模様。腕時計同様、洗練されたデザインだった。
 変わらない、と思った。昔と同じ、周りよりも少し澄んだ空気を持っていて、落ち着いた仕草に穏やかな声。丁寧な口調と余計な言葉を接がないところも。
 けれど、身に着けているものの効果か、少しだけ纏う雰囲気が違って見えた。
 短かった髪は伸び、ぎりぎり後ろで尻尾を作り、後れ毛を散らす。体型にぴったりと合ったガーゼシャツに、よく見れば下もフォーマルなスラックスなどではなく黒いデニムパンツだ。
 学生の頃は、もっと服をそのまま着ている印象だった。他の生徒のように制服を着崩したりせず、いつまでもお手本のような制服姿。一つだけ、左手中指を除いては。
 向かいの席から無意識に見つめていたら、お通しにつけていた箸が止まり、相崎が顔を上げた。
 昔と同じ、少し釣り上がった目尻に、目が合うと吸い込まれてしまいそうな深い水底のような瞳。
「もしかして、杉石って営業?」
 再会してから初めての、相崎からの質問だった。
「そうだけど、分かる?」
 そこそこの会社に勤める普通の会社員で、営業課所属。さっきまでしていた接待も、その延長だ。
「なんとなく。元々社交的だったし、話すときもリードしてくれてたけど、それに磨きが掛かってるなと思って」
「そうか?」
 営業としての成績は悪くはないけれど、会話は天河自身が意識してやっていることではない。
 相崎と同じように、自分も他人から見ればどこかしら変わっているのだろうか。
「相崎の職種は? さっき自営って言ってたけど、社長?」
「社長と言われると、違うかな。俺も今日新宿に来たのは営業みたいなものだよ」
 相崎はトートバッグの中からタブレットを取り出し、タップした。すぐに画面を天河へと向けてくれる。
「アクセサリーデザイナーをしてる」
 画面に表示されたサイトに、ゆっくりと数点のアクセサリーが浮かんでは消えた。左上に浮かぶ文字は『Luciole』。
「ルシオル?」
「リュシオル。フランス語で蛍」
「あぁ、名前か」
 大きく頷いて納得すると、相崎がきょとんと瞬いた。
「名前、憶えてるんだ」
「もちろん。蛍と書いて、ケイ、だろ」
 天河の方がきょとんとしてしまう。
「そりゃ、覚えてるよ。一年だけとはいえ、同じクラスだったんだし」
 ほとんどのクラスメイトは名字で呼んでいたから、名字や顔を思い浮かべてみても下の名前の印象は薄いけれど、相崎とは同じクラスだっただけの関係ではない、と天河は思っている。
「そっか。特に同じグループってわけでもなかったからさ」
「あー、そうだな」
 体育や校外学習などで常に一緒にいるような仲の良いグループは、確かに別だった。相崎とのことを思い出そうとすると、その背景は校舎の外ばかり思い浮かぶ。凛とした背中を見つけたとき、視線が合ってふわりと変わる表情を見たとき、四つ葉のクローバーを見付けたように嬉しくなった。
 同じクラスだった一年のときでさえそうだから、クラスの違った二年三年はなおのこと、話すタイミングは偶然でしかなくて。けれど、話す回数が減るわけでもなく、そういう相崎との関係は約三年間、卒業するまで続いた。
 相崎の、一緒にいるときの、空気が好きだった。
 相崎がビールジョッキを傾ける。その左手の中指に、シルバーが光っている。注視しなければ分からないような細いラインが繊細に華麗に、その表面を彩っていた。記憶の中の、鏡面のような鮮やか輝きとは少し違う。
「高校んときもさ、そこに指輪してたよな」
 受験案内の制服紹介にそのまま載っていそうな着こなしをする相崎の、それだけが違う雰囲気を持っていた。天河の中の最も強い相崎蛍の印象は、その指輪だ。だから、アクセサリーデザイナーと聞いたときになんだか納得してしまった。あの頃の相崎からは想像つかない職種だと思いながら。
「あぁ、これとは違うけど」
「うん。もっと光り方が違った気がする」
 相崎がジョッキを置き、左手をひらりと返す。
「高校の時にしてたのはステンレス。これはシルバー」
 そう、そう言っていた。
――それ、材質何? ゴールドともシルバーとも違って見えるけど。
――……ステンレス。
――え、キッチンの?
――ふはっ……うん、そう。金属アレルギーが出にくいんだって。
――ふーん、似合うな。
――指が長いからな。
――自分で言うか。
 ステンレスがアクセサリーになるということを、あのとき初めて知った。クラスメイトの言葉に小さく噴き出す相崎のやわらかな表情も、意外と冗談めかしたことを口にするのだということも。
 そうだ、それがきっかけだった。校舎の廊下で、自販機のある別館に続く渡り廊下で、裏庭で。たまたま互いを見つけては話をするようになった。クラスメイトだから教室でも顔を合わせていたはずだけれど、教室でのことはあまり印象にない。
 幅の広い、ひらべったい形が、節張った細い指をさらに綺麗に見せていた。
 器用そうな手だなと思っていたけれど、そうかデザイナーか。
「もうしてないのか、あの指輪」
「仕事上、ここも広告だから」
「あぁ、なるほど」
 その感覚は天河にもよく分かる。自社商品を売り込むために、自分も使っていますよとアピールするのは常套手段だし、アクセサリーのような芸術作品なら尚更、目に触れさせるということが大事だ。
 今の指輪も相崎によく似合っている。なのに、少し残念にも思ってしまう。どうしてあの指輪にそんなに惹かれていたのかは分からない。自分も欲しい、と思ったわけではなかった。それなのに、相崎を見掛ける度にさり気なく指輪を確認した。天河が知る限り、高校の三年間はほとんど毎日あの指輪をしていたと思う。決まって、左手の中指に。
「今は銀が多いかな。ステンレスは一部に人気だけど、やっぱり男性にはシルバーが根強いから」
「あぁ、ステンレスって金属アレルギーが出ないんだっけ」
「正しくはアレルギーを起こしにくい、かな。金属アレルギーって身に着けた金属が溶けだして体内に入り込むことで起こるんだ。つまり、汗なんかで溶けにくい金属にすればいい」
「えっ、金属って溶けてるの?」
 思わず頬を引き攣らせる。天河は金属アレルギーを起こしたことがないのでそのつらさは未経験だけれど、たまにネックレスや指輪をしているからそう聞くと微妙な気分になる。
「溶けるってつまりイオン化するってことだけど、安いアクセサリーなんかに多いよ。実は金や銀は他の金属を混ぜたせいでアレルギーを引き起こしているから、純金属に近ければアレルギーは起こりにくいんだ。高校時代はそこまで知らなかったから、お店で書いてあったことをそのまま口にしてたけど」
「そうなのか」
 そういえば、裏に「SV925」と書かれているシルバーアクセサリーは他の物よりも高かった。あれは、純度を書いているのか。
「作ってるのってメンズだけ?」
「女性向けも作るよ。俺はシンプルで細身なものが多いから、ユニセックスなデザインだと思う。彼女にプレゼントでもしたい?」
 特に深く考えずした問い掛けに、茶化す瞳で覗き込まれる。
「いないよ」
 間を置かずに返してから、思いの外さらっと言ってしまった、と思った。もう少し苦笑でもした方が良かっただろうか。
「そっか。結婚してるから彼女じゃないって意味じゃないよな。意外」
「そうかー? もう長いこといないぞ」
 天河が適当に注文した中から、切って出すだけのものが並ぶ。時間も時間なので軽食しか頼んでないけれど、手の付け方を見ていると相崎もすでに食べていたようだ。
「そっちは? 結婚とか彼女とか」
「いないよ」
 相崎の答えも、淡々としたものだった。
 喉が渇いていたのか、あっという間に相崎のビールが消える。
 仕事柄喋り続けることは多いけれど、その分聞き役にも徹するため、こうして飲みながら気負わずにぽんぽんと言葉を交わすのは随分と久し振りな気がする。
 出汁巻き玉子が出て来たとき、店員を呼び止めて相崎を窺うと、もういっぱいビールを注文した。天河も同じくビールを追加する。
「相崎はビール党?」
「いや、何でも飲むよ。酒は好き」
「お、じゃあ今度別の店でも飲もうぜ。ワインでも焼酎でも、ここって店を常にピックアップしてあるから」
 こめかみの辺りを指さしながら笑う。
「それは楽しみだ」
 相崎の綺麗な指の上で、よく手入れされたシルバーが時折きらめく。明度を絞られた間接照明が、コントラストの差で輝きを際立たせていた。
 あの指に、唇で触れたことがある。
――あれ、相崎?
 高校生活最後の日、卒業式後の空虚をまばらに散らしたような校内の空気の中で、天河は一人で卒業の余韻に浸っていた。
 街に繰り出して騒ごうという同窓生たちを後で追い付くからと見送り、校内を気ままに歩いた。相崎に遭遇したのは、例の如く教室の外、渡り廊下だった。
――教室にいなかったから、もう帰ったのかと思ってた。
――うん、校内を見て回りたくなっちゃってさ。
――あはは、俺も俺も。
 一人がいいのかな、とはちらりと思った。けれど何も言われなかったから、しばらく並んで中庭を眺めていた。
――桜、間に合わなかったな。
 相崎がぽつん、と呟いた。
――あれ、間に合うのはドラマと漫画だけじゃないか?。
 静けさの中で、声を潜めて笑い合う。
 人の気配はしている。職員室ではようやく解放された先生方がやれやれと一息吐いている頃だろう。
 でも、二人きりのような気がした。大きな音を出せばこの空気が壊れてしまう気がして、声を潜めた。
 これで相崎とも最後かと思ったとき、目に入ったのはやっぱり左手中指の指輪で。哀愁漂う空間に酔ったのかもしれない、気付けばその手を取り、唇を寄せていた。
 我に返っても、不思議と後悔や恥ずかしさはなかった。むしろ、すとんと自分の中で納得したくらいだ。そうしたかったから、身体が自然と動いたのだと。
 相崎にも、特に驚いた様子はなかった。
――このあとみんなでカラオケ行くけど。
――俺はやめておく。まだ荷造りが終わってないんだ。
――相崎も上京組?
――いや、県内だよ。でも少し遠いから、一人暮らしをするんだ。
――そっか。
 特に打ち合わせることもなく、自然と校門へと足は向かっていた。学校を出て、駅まで十五分。その間また並んでまたぽつぽつと話をした。
 改札を抜けたところで、じゃあ、どちらからともなく手を振った。
 反対側のホームにいる相崎を見ながら、予定をキャンセルすれば良かった、と思った。そうしたらあと数駅、一緒にいられた。

薄暗い階段を上がって外に出ると、風がひんやりと頬を撫でた。ようやく秋を実感する。
「今日も暑かったよなー」
 両腕を緩く上げて伸びをすると、相崎が笑う。
 ゆるゆると駅へ爪先を向けた。
 煩わしかった湿気は手品で指を鳴らしたように消えていて、爽やかな風の心地良さにこのままあてどなく歩きたくなる。
「JR?」
「うん。杉石は?」
「俺はあっち」
 通路の奥を指さす。天河の乗る私鉄の改札は、通路の一番端にある。
「じゃあ」
 卒業式の日と同じように、相崎はあっさりと改札を抜けて行く。
「今日は楽しかった! また飲もうぜ!」
 改札越しに、今度はしっかりと「次」を口にした。相崎が振り返り、笑って手を振る。
 天河はその場に立って、高校時代と同じ凛とした背中を見送った。
 地下にいるというのに、身体がひんやりと冷えていく。アルコールの火照りも、すでに遠のいた。
 さみしい、という言葉が浮かぶ。
 俺は寂しいのだろうか。通路を奥へと進みながら、自分自身に問い掛ける。まあ、二十六にもなって彼女もいない独り身じゃ、世間的には寂しい人間か。
 さっき蛍と交わした言葉を思い出していた。最後に彼女がいたのはいつだろうか。
「もう一年前か……」
 思っていたよりも、月日は経過していた。特に恋人が欲しいとは思っていなかったけれど、そりゃ寂しいな、と一人頷いた。

スマートフォンを開き、昨日交換したばかりの連絡先を開く。
『次いつ会える?』
 この一言を送信するための理由を探す。別に、懐かしい相手に会いたがることは、おかしくはないはずだ。けれど、昨日の今日。さすがに当日にメッセージを送るのは仕事みたいだからとやめた。
 友人に連絡するための、適切なタイミングはいつだろう。今まで気にしたことのなかったことにつまずいた。
 ひとまず、検索エンジンの窓に「Luciole」と入力してみる。検索結果の一番上に、昨日見せてもらったページが出る。
 白い背景に浮かんでは消えていくいくつもアクセサリー。写真は反射した光ごと閉じ込めて静止しているのに、きらきらと眩しい。
 天河の知らない世界。に、相崎はいる。
 ブラウザを消し、改めてメッセージ送信画面を開いた。

side.K

今朝はうっかり食事するのを忘れてしまった。蛍が遅い朝食を食べようか、それとももうすぐ昼だから少し待って昼食にしようか、ぼんやりとそんなことを考えていたら、スマートフォンが着信を告げる。ディスプレイに浮かんだ「杉石天河」という文字を見て、ぴん、と頭を糸で引っ張られたように背中を伸ばした。
 そうか、連絡先を交換したのだから、こうして連絡が来るんだ。そんな実感が、今頃になってじわじわと湧く。
『Lucioleって、シリーズものなの?』
 昨日はありがとう、楽しかった。そんな言葉のあとに質問がついていた。
『厳密には数人で立ち上げた共同経営の事務所の、俺の商標。』
 同じスクールに通っていた同期数人で、事務所を起ち上げた。理由は単純で、一人一人では力が足りなかったこと。大きなコネもなく、コンテスト受賞履歴もあまりない。そして何より全員が全員アーティスト気質で経営に向いていなかった。だから、まとめて一つの事務所にし、作業場兼オフィスも共用している。
 夢中になると昼も夜もなくなる人間ばかりだから、事務所の近くに住んでいて、それでも泊まり込むことも多い。
「蛍? お前昨日遅かったのに、もう作業してるのか」
 共同経営者の一人、田中が欠伸をしながら作業場へと降りて来た。上下スウェットの無精髭姿は、田中の定番だ。
「ここに泊まってた田中がそれを言う。それにもうお昼近いぞ」
 キッチンスペースへと足を向け、Lucioleと書かれたシールが貼られた缶を取り出す。
「コーヒー飲む?」
「頼む」
 自分のマグカップと田中のマグカップを取り出して、やかんを火に掛けた。朝食は摂らないことにした。
 コーヒーの粉を入れたフィルターの中央に、湯で円を描く。ぽたぽたとビーカーに落ちていく滴を見ながら、手持無沙汰に考えていた。
 次はいつ会えるのだろう。
 スマートフォンを持つためにやかんを左手に持ち替えると、カツンと軽い音が鳴った。左手中指の指輪。その響きで、指にはまっているものがステンレスであることを実感する。
 高校時代に毎日していた指輪だ。
 ただの指輪だった。高校に入学する前の春休み、実家のツテでアルバイトをした。初めてもらった給料で何かを買いたくて、ステンレスでアクセサリーなんてあるんだ、と手に取ったのがこの指輪だった。付けたまま手も洗えるし、何の飾りもないシンプルさなら、制服でもそれほど目立たないだろうと思った。特に髪を染める気も、制服を着崩す気もなかった蛍の、小さな高校デビュー。
 それ以上の意味を持たなかったものが、杉石に見つけてもらったことで蛍の大切な一部になった。
 高校卒業後は県内の大学に進み、就職は県内であれば県内で。場合によっては都内でもいい。どうせいずれは実家の店を継ぐのだから長くは勤めないし、と将来に期待も希望も持っていなかった蛍に、杉石はアクセサリーデザイナーという夢を見せた。卒業式の、あの瞬間に。
 唇と一緒に吐息が触れ、甘く痺れるような感覚が体中に広がったことを覚えている。いつまでも、忘れられずにいた高校時代の思い出。
 杉石の視線がいつも指輪に注いでいたから、なんとなく毎日つけていたものを、意識的に毎日つけるようになった。あまりに気にしているから指輪が欲しいのかと思えばそういうわけではないらしく、買った店を聞かれることも、杉石がアクセサリーをしていたような記憶もない。
 話すようになった切っ掛けも、この指輪だった。どんな会話をしていたかを思い起こせば特に内容なんてなくて、とりとめなく日常を話していた。
 ただ心地良くて、何話してたっけ? と思うのと同時に楽しかったと顔が綻ぶ。これだけ時間が経っていても、それは変わらない。
 杉石の近くは、空気が甘くてやわらかい。
「はい、コーヒー」
「……おお、サンキュ」
 共用ソファでだらんと座る田中の前に、マグカップを置く。スツールに腰をおろして目の前のスマートフォンを見つめていたら、また震えた。
『次はいつ会えそう?』
 頬が緩む。
 トーク画面を縮小し、スケジュールアプリをタップした。
 向こうは会社勤めだから、金曜日がいいのだろうか。普通の会社が終わるのは十七時頃だっけ。
 なるべく早く実現させるため、蛍はじっとカレンダーを見つめた。

お前がキスなんてするから、俺は――……。


2.きらきらの街

返事を待つのがもどかしくなった頃、相崎から着信があった。
――時間の相談がしたくて。
 あまりメッセージのやりとりに慣れてないから、電話のが早いかと思ったのだと相崎は苦笑した。穏やかな相崎の声は、機械を通しても耳を優しく撫でるように響く。
――じゃあ、今度の金曜日に。
 同級生時代に連絡先を交換していなかったから、電話をするのも初めてだった。
 返事を今か今かと待っていた。仕事中に社用携帯以外を気にすることが、自分でも珍しかった。彼女がいた頃は、こんなふうに連絡を待っていただろうか。あまり記憶にない。こまめにやり取りはしていたはずなのに。
 スマートフォンに視線を落とす。待ち合わせ十分前。遅刻の連絡はないから、きっと時間通りに来るだろう。
「相崎」
 リアルの声は、電話越しよりも滑らかだった。耳に入った心地良い声に顔を上げる。
「お待たせ」
 小走りで駆け寄ってくる一週間ぶりの姿に、頬がゆるりとほどけた。
「いや、まだ時間前だよ」
 会社を出たタイミングでは、待ち合わせ時間ぎりぎりのはずだった。一週間働いたあとなのに相崎に会うと思うと身体は軽くて、予定よりも早く目的地に着いていた。
「お店どっち?」
「あっち」
 今日も、天河の脳内リストにある店へと向かう。メッセージをやりとりしながら相崎の好みを探り、連れて行きたいと思った店だ。
 少し古いビルの、やはり古い型式のエレベーターに乗る。この辺りは似たようなビルが多く、古いゆえに中を思い切りリノベーションしていたりする。この店もそうで、エレベーターが開くと突然薄暗いフロアが現れ、絨毯で作られた道が店内へと続く。道の脇には遊園地の乗り物にありそうなゴンドラが並び、その中だけが明るい。簡易的な個室は、中央にテーブルがあって周りをゴンドラの壁に沿った椅子で囲っていた。コーヒーカップを思い出す造りだ。
「せいろ蒸し、楽しみにしてたんだ」
「結構種類あるから、三つくらい頼んでつつこうぜ」
 先週の蒸し暑さが嘘のように、今週は秋の風が吹いていた。鍋にはまだ早いけれど、温かいものでほっとしたい。そう意見が合ったから、この店をピックアップした。
 注文聞きに来た店員に選んだメニューを伝え、店員が去った瞬間からまた会話は弾む。
 その日以降も、金曜日は毎週のように会うようになり、ご飯を摘みながら酒を飲み、いつも気付くともう終電目前だった。

まったく違う環境にいるから、知らないことも聞きたいこともたくさんある。どれだけ話しても、いつも次の聞きたいこと、話したいことが頭に残っていた。
 その感覚が、本当に高校時代に戻ったようで。同じ学校の同じクラスだけれど相崎について知らないことはいくらでもあって、なのに気付くと昼休み終了のチャイムが鳴っていたり、帰らなければいけない時間になっていた。なぜあの頃、連絡先を聞かなかったのか、今になって不思議に思う。

「じゃあ、家はお姉さんが継いだのか」
 相崎の家は老舗の呉服屋だ。着物の販売だけでなくレンタルや買い付けもしていて、それなりに需要はあるらしい。高校時代はいつかその家を継ぐと言っていた。まだ将来働く自分を想像すらしていなかった当時の天河には、相崎がいくつも歳上のように見えた。
「うん。俺がアクセサリーデザイナーになりたいって言ったとき、両親は兼業でもいいだろうって言ったんだけど祖母が大反対で」
「あぁ、あのおばあさん……」
 天河たちの故郷で成人式と言えば、相崎の家で袴を買うか借りるかするものだった。天河の家も同様で、母に連れられて初めて相崎の実家に行ったとき、店の中心にいたのは相崎の祖母だった。上品な仕草でしゃきしゃきと元気が良く、年齢を感じさせない迫力に、声を掛けられて思わず一歩下がったことを思い出す。
「会ったことある? それなら、勢いの良さは分かるだろ」
「ん、なんとなく」
 苦笑で返すと、相崎も眉を下げて笑った。
「姉さん、本当は着物のデザインやりたかったんだって。でも俺がいるしいつかは嫁に行くだろうからって諦めてた。だから、それなら私が継ぎたいって言ってくれて」
「そっか。じゃあ、双方が納得いく形になったんだな」
「うん。祖母は怒っちゃったけどね。未だに実家に顔を出すとうるさいよ」
「おばあさんは、やっぱ男に継いで欲しいかんじ?」
「古い考え方の人だから」
 けれど、相崎はもう呉服屋の店主の座には未練がない。それはこうして話を聞いていれば分かる。
「杉石はもう地元に戻る気はないの?」
「んー、そんなはっきり考えてるわけじゃないけど、たぶん。今の仕事を続けるつもりだし」
 相崎の家と違い、天河の父親は地元の企業に勤めているだけの普通のサラリーマンだ。両親も元気に働いてさえいれば特にどこだろうと構わないらしく、地元に戻るように言われたことはまだ一度もない。
「もっと実家に顔を出せとは言われるけど」
「ああ、こっちに出て来ちゃうとなかなか帰らなくなるよな」
「そうなんだよ。俺、車も持ってないから」
「向こうは車ないと不便だけど、こっちだと乗るのも休日とかだけになるし」
「そうそう。相崎も?」
「いや、俺の住んでいるところはそこそこ必要だから一応持ってる。仕事でもたまに使ってる」
 杉石は東京寄りの埼玉に住んでいた。数駅で東京都に入るけれど、都内とは打って変わって高いビルのない住宅地で、東京から戻るとやけに静かに感じる、とこの間言っていた。
「うちも住宅地ではあるんだけどさ」
 東京に住む、ということに多少なりとも憧れはあったから、家賃の高さに圧倒されながらも新宿から一本で行けて、都内らしさの残る場所を選んだ。それでも、ビルは減るし新宿などに比べたら当然静かだ。
 そのうちお互いの家にも遊びに行こう、と家の周りにある店の話で盛り上がったところで約束をする。今回もまた終電の時間が迫っているとぎりぎりで気付き、慌てて店を出た。
 金曜の夜が短い。何の約束もなく学校に行けば会えていたあの頃と、週末に約束をしなければ会えない今。なんとなく、もどかしくなる。子供の頃は時間は無辺にあると思っていた。大人になると常に時間が足りない。
「そうだ、来週暇?」
 駅に向かう人の群れの中で、意識して大きな声を出す。すぐ近くでは完全に酔っ払いと化した集団が雄叫びを上げていた。その集団をさりげなく二人で避ける。
「来週の金曜日?」
 相崎の声は相変わらず穏やかなのに、この騒々しさの中でもよく聞こえる。
「そう。来週は早く上がれそうなんだ。六時くらいに待ち合わせできそうなんだけど」
「珍しいな」
「ちょっとうち時間外時間やばくてさ。労基引っかからないように、余裕のあるうちにみんな帰れって上からのお達し」
「ブラックの気配がする」
「会社勤めなんてどこもそんなもんだって」
 からかうような相崎の声に笑って返す。実際、上司がきちんと管理してくれているから、違反になるようなことは今回のように未然に防がれている。それなりに大きな企業だからしっかりしているのか、それとも大きな企業だから目立つようなことをさせられないのか、今の会社以外を知らない天河には分からないけれど、接待で飲んでいる他社社員の愚痴を聞く限り、おそらくまともな方だろう。
「じゃあ、いつもと違うお店に行こうか。食事と飲みに分けて二軒行くのはどう?」
 そう話している間にJRの改札に着き、あとは携帯で話そう、と別れた。改札を抜け、相崎が手を上げる。天河も同じ仕草を返し、人混みの中を階段へ入っていく姿を視界の端に見ながら、私鉄の乗り場へと向かった。
 首元を風が通り抜ける。上着を羽織る季節になった。もうすぐ暦の上では冬になる。
 相崎と再会してから、季節が一つ通り過ぎようとしていた。

月末締めの報告書に最後の数字を入れる。あとの処理は上司の仕事だ。おわり、と弾むように呟いて、パソコンの電源を落とした。
「先輩、もう上がりですか?」
「おう」
 隣で同じようにパソコンを落としている後輩に笑って返すと、すかさず向かいの席で別の後輩が立ち上がった。
「なら飲みに行きましょうよ!」
 立ち上がった勢いで、綺麗にウェーブした毛先が揺れる。夕方だというのに、化粧も髪型も乱れがないのはさすがだ。
 前の彼女と別れたことが知れ渡ってから、彼女には何度も誘いを受けていた。好意を持たれているのだろうと気付いてはいる。だから、二人きりで飲みに行くようなことはしていない。必ず他の同僚か後輩を誘って同席するようにしていた。
 今日はそんな気を回すまでもなく、断る理由がある。急がなければ、せっかく早く会えるというのに遅刻してしまう。
「悪い、約束あるんだ。お先」
 脇机の引き出しから手提げ鞄を取り出し、そそくさと立ち上がる。
「先輩、最近付き合い悪いです!」
「そうかー?」
「分かった、彼女でしょう?」
 だから、なぜお前はそう余計なことを言うのか。彼女と別れたことだって、最近は付き合いがいいと絡んでくるこの後輩にぽろっとこぼしたら大きな声で驚かれたせいだ。素直なところは彼の魅力だけれど、こういうときは少し面倒だった。
「男だよ。高校んときの同級生」
「嘘だ、すげー楽しそうなのに!」
 だから、どうしてお前は……と内心で頭を抱える。
「男だからだよ、気楽で楽しいの。じゃ、もう行くから。お疲れ」
「先輩、待ってくださいって!」
 ドア脇のコート掛けからトレンチコートを取る。廊下に出ても、後輩たちは食い下がってきた。
「じゃあ俺らも混ぜてください! 楽しい大人の男の遊び教えてくださいよ」
「だーから、ただ飲んでるだけだって。懐かしさに花咲かせてんの」
「私も行きたいです! 先輩のお友達さんにも会ってみたいですし!」
 反射的に二人に手のひらを向けた。制止するポーズに後輩たちも反射でピタリと動きを止める。
「だめ。また今度な」
 ちょうど開いたエレベーターに飛び込み、操作盤前に立つ人に会釈して閉じるボタンを押した。エレベーターが降りていく。
 相崎を、紹介?
 センスが良くて、よく見れば綺麗な顔をしていて、会社員の自分たちが持たない穏やかな空気を持っている相崎を。相崎に会えば、きっと身近にいる先輩よりも魅力的に映るだろう。
 それでどうなるかを決めるのは当人たちだけれど、なぜか会わせたくない、と思う。
 会社を出たところで、後ろを振り返る。誰もついてきていないことを確認し、足を速めた。
 二十六にもなって、心が狭い。結婚した友人だって何人もいるのに、今更彼女にとられて会う時間が減るのは嫌だ、なんて。
 そんな軽い自己嫌悪は、待ち合わせ場所に立つ相崎を見た途端吹き飛んだ。手を上げる相崎に駆け寄る。
「走らなくてもいいのに」
「ちょっと出るのが予定より遅くなったから、つい」
「遅刻はしてないよ。仕事お疲れさま」
「おう、ありがと」
 今回は事前に店を決めている。いつもは時間の都合で行けない焼肉屋だ。
 相変わらずの人混みだけれど、まだ酔っ払いが少ない分並んで歩いても歩きやすい。
「で、ご飯のあとどうするか思いついた?」
「んー……まだ考え中。なんかある?」
「俺も特には。杉石には毎回色々なお店に連れてってもらってるし」
 そう言われると、仕事で得た特技ではあるけれど嬉しくて頬が緩む。相崎は一人だと色々食べたいと思っても同じ店に行きがちなのだと言っていた。それなら自分といるときは色々な味を楽しんで欲しくて、天河もつい張り切った。
「ひとまず食うか。肉焼きながら考えようぜ」
「うん」
 地下街の奥にある小さな焼肉屋に入った。入り組んだ細い路地だから慣れていない人間はなかなか来ない。天河も会社の先輩に教えてもらって知った、隠れた人気店だ。
「目玉はホルモンだけど、他も美味いよ。相崎、ホルモンいける?」
「うん、好きだよ」
 食の趣味が合うということは、再会してから知った。学生時代も好きな食べ物の話はしていたと思うけれど、一緒に食事をするようなことはなかった。こうして擦り合わせをするように好みを知っていくことが楽しい。
「これは塩」
「俺も」
 塩を振る動きで、相崎の手元が光った。今日の指輪は細い流線型を並べてねじったような、シンプルだけれど立体的なデザインをしていた。相崎の長い指の上では繊細に見える。
 相崎が振った塩の瓶を受け取り、自分の小皿にのる焼けた肉に振った。
 相崎の作品を並べたホームページを見て感じた輝きを、相崎を通して感じる。きらきらした世界。そこから相崎が顔を覗かせ、一緒に美味しいものを食べている。食の好みは大事って本当だったんだな、としみじみ思った。好きなものを共有できると、こんなにも嬉しくて楽しい。
「ふー、腹いっぱい。足りた?」
「うん、俺も。いつも以上に食べた」
「ここ美味いだろ?」
 得意気に笑うと、相崎も楽しそうに頷く。
「さすが、杉石のお勧め」
 会計はいつも通り割り勘だ。
 店をすぐ、バッグから小さなスプレーボトルを取り出した。
「はい、あっち向いて」
「え?」
「衣類用の消臭スプレー。あ、この服ってそういうの平気?」
 ぱちくりと瞬いてから、相崎が頷く。
「大丈夫。用意がいいな」
「これも仕事柄だなー」
 外を出歩いて取引先に会うのだから、外見だけでなく臭いにも気を使う。清潔感は必須だと、最初の研修で教わった。
 着たばかりのコートを脱いでもらい、内側にもスプレーした。自分でも振りかけていたら、スプレーを手から抜き、相崎が背中にかけてくれた。
 階段を昇り地下街から地上に出ると、新宿は今まさに賑やかさのピークを迎える時間帯だった。いつもなら、待ち合わせはこの喧騒の中だ。夜の静けさの内側で、これでもかと光と音が溢れかえっている。
「で、結局食べてる間には決まらなかったけど、どこ行こうか。もうお腹はいっぱいだし、バーとか?」
 相崎の声は、相変わらずこの賑やかさの中でもよく聞こえる。
 とりあえずいつもの飲み屋エリアに行こう、と信号を渡った。天河はうーんと声を上げる。
「行ってみたいところはあるんだけど……」
 すでにアルコールが入っているからだろうか。ずっと気になりつつも口に出したことがなかった興味が袖を引いていた。
「どこ?」
「二丁目」
 ちらっと奥の道へ視線を向ける。新宿にいながら、今まで足を踏み入れたことはないエリア。
「なんか、一人で普通に入っていいのか分かんなくて。興味って言ったら良くないのかもしれないけど、行ってみたいんだよな。せっかく近くにいるんだし」
 相崎なら、茶化すことも過剰に反応することもないだろうという期待があった。
「……俺の知ってる店で良ければ連れて行こうか?」
 相崎を見ると、さっきまで天河が見ていた方向に視線を向けていた。
「行きつけあるの?」
 問い掛けると、ようやく視線が合う。
「うん、新宿で唯一通ってるお店がある。居心地はいいよ。あとマスターお手製の料理が美味しい」
 初めての、相崎のお勧めだった。
「それは楽しみ」
 あっち、と爪先を向ける相崎に連れられ、未開拓のエリアに入る。
 相崎の足取り迷いがなく、行き慣れているのだと分かった。
 もしかして、と思う。
 二丁目に行くことが、イコール同性愛者でないことは、天河も知っている。
「結構離れてるな」
「うん。ほら、あそこからもう三丁目だよ」
 二丁目とは言っても、実際には三丁目の一部もエリアに含まれていた。オフィスビルも多い場所だから、昼間なら天河も何度となく通っている。
「端の方?」
「そう」
 夜になると、雰囲気ががらりと変わる。それは二丁目に限らずだけれど、ここは特に振り幅が大きい。
 いつもとは少し雰囲気の違う喧騒を通り抜け、比較的静かな通りにその店はあった。外観は古い喫茶店。中は照明を絞っていて外からは様子が窺いづらい。ほんのりと明るい場所に、長い髪の人影が立っていた。近付くにつれ、そこがカウンターだと分かる。細身に長髪、顔立ちもどこか中性的だった。
 相崎が扉の取っ手に手を掛けると、カランと懐かしいベルの音が響く。カウベルのようなものが扉の上部で揺れた。
 その音で、カウンターの中に立っていた人物が顔を上げる。
「こんばんは」
「ケイくん、いらっしゃい。久しぶり。友達?」
「はい、高校のときの同級生なんです」
 彼がマスターだよ、と相崎が言う。
 皿を拭く手を止め、彼は柔和な笑顔を浮かべた。男性と分かってもどきっと胸が鳴る。天河は一瞬遅れて「お邪魔します」と返した。
 中に入ってみると外観同様、中もレトロな喫茶店風だった。カウンターの中と照明が、酒場らしさを表している。席はテーブルが五つにカウンター席が五つのこじんまりとした店。初めて来たのに、なんだか落ち着く雰囲気があった。
「あ、ケイちゃんじゃない!」
「ほんとだー! 最近来ないから恋人でもできたかって噂してたんだよ」
 奥側のテーブルに座っていたグループから二人が立ち上がり、相崎を手招きした。店内はマスターとその四人のみ。
 常連らしいその人たちの一人に、天河の視線は引き寄せられる。長い足をゆったりと組み、艶やかな黒髪の隙間から印象的な深い色の瞳が覗く。イケメン、を絵に描いたような容姿。マスターも整った顔をしているけれど、また違ったタイプだ。二人とも、街ですれ違ったら、モデルだろうかと思わず振り返ってしまうと思う。
「お久しぶりです。残念ながら、恋人はできてません」
 最初に声を上げた手前の二人に手招きされ、相崎が目配せした。頷いて返し、四人の手前のテーブルに座る。
「最近は彼と飲んでることが多くて」
「友達? 初めましてよね。こんばんは」
 一番手前の客が天河に笑い掛ける。線の細さを強調する、やわらかな布地のトップスのせいだろうか、彼も中性的に感じた。テーブルの下に見えるデニムパンツも、男性では珍しくぴたりと肌に沿った細身だ。
「こんばんは。すみません、独り占めしちゃって」
 そう返すと、四人は面白そうに笑った。その笑顔が、初対面の緊張から背中を押してくれる。話しやすそうだ、と天河の直感が言う。
「左から、ヨウさん、レオさん、トオルさん、香(コウ)さん」
 相崎の紹介に合わせ会釈する。離れた場所からでも目を引いたイケメンはレオというらしい。レオに手を差し出さ、握り返す。
「はじめまして。二丁目は初めて?」
 やわらかな口調。トーンは高いけれど、声自体は低い。予想外のオネエ言葉は、案外違和感がない。
 頭の先から爪先まで黒系統のメンズ服に身を包んだレオは、業界人のような雰囲気を纏っていた。
「はい。頼んで連れてきてもらいました」
「ようこそ。お名前は?」
 大きくて厚みのある手が離れていく。何気ない仕草にも、色気が漂う。レオはちらっと相崎に視線を送った。
「こういう店で、本名を名乗る必要はないから」
「むしろここではここの顔、って言うかね」
 相崎の言葉にヨウが頬杖をついたままで付け加える。なるほど、と少し考え「テンガ」と名乗る。本名以外で呼ばれてもすぐに反応できないかもしれないし、これが本名だと言わなければ分からない。相崎も、本名そのままのケイと呼ばれていた。
「テンガくん。よろしく」
 一番奥に座っているトオルが言う。トオルは人好きのする笑顔の、どこにでもいそうな青年だった。短髪の黒髪に眼鏡、ジャケットは脱いでいるけれどスーツ姿。仕事帰りなのかもしれない。その隣に座る香は少年とカジュアルさをミックスしたような格好で、薄く化粧をしていた。腕も脚も短めの丈から少し覗いていて、線の細さが分かる。
 全員、年齢は天河たちよりも少し上に見えた。
「みなさん常連なんだ。いつ来ても大体誰かしらがいる」
「暇人だからね」
 相崎の言葉にヨウが口を挟み、四人が声を揃えて笑う。
「そこはこの店が好きだからって言うところじゃない?」
 カウンターの内側から、マスターがやわらかに乱入した。
「もちろん、そこは大前提でしょ」
「なら良し。いつもご贔屓にありがとうございます」
「どういたしまして」
 コートを脱いで椅子の背もたれに掛け、メニューを探す。テーブルには見当たらず、見回すとカウンター上にミニチュアの黒板が立っていた。
「何飲む? ここはメニューはあってないようなものだから、言えば大抵のものは出てくるよ」
 相崎に促され、椅子に腰を下ろす。木の椅子は年代物なのか、座ると滑らかにフィットして座り心地が良かった。
「金額は良心的だから安心してね。高いものは作る前に確認するから」
 マスターが見やすいよう黒板をこちらへと向けてくれた。どこのお店にもあるような基本的なカクテルやウィスキーはあらかた並んでいた。
「じゃあ、マティーニで」
「俺はキール」
「かしこまりました」
 揶揄い混じりの丁寧さでマスターが頷く。
 レオが立ち上がり、カウンター奥の小さな冷蔵庫からグラス一つとココットを三つ取り出してマスターの前に置いた。カウンターの下に屈み、透明なペットボトルも手にする。水が揺れ、淡く照らされたカウンターに波を映した。手慣れた動きのレオに対し、マスターも当然のようにココットを受け取っている。
「水もらうわね」
「うん」
 容姿も仕草も絵になる二人のやり取りを、思わず見つめていた。
「珍しい。カノンちゃん、今日はもうギブ?」
 ヨウがレオをカノン、と呼んだ。
「喉が渇いただけよ」
「レオさんは酒強いんですか?」
 天河が問い掛けると、ヨウがこちらを向いて答えてくれる。
「強いなんてもんじゃないよ、ザルだから」
「いやぁね、これでも大人しくなったわよ」
 すかさず目を細めたレオが言葉を重ねる。
「飲んでも飲まなくても変わらないなら、大人しいも何もないじゃない」
「だから、いつも大人しいでしょう?」
「口を開かなければね」
 軽快な言葉の応酬に、天河たちも一緒になって笑った。
「お待たせしました」
 グラス二つと、さっきレオが出して置いたココット三つが運ばれてきた。ココットのうち一つはマティーニに欠かせないオリーブ。あとの二つはお通しのようだ。
「今日はタコのカルパッチョ」
「俺これ好きです」
 相崎がそう言うのなら、俄然期待が高まる。きっと天河も好きな味だ。
 ついでに目に入った料理をいくつかオーダーし、早速カルパッチョに手をつける。
「うま!」
 思わず大きな声が出た。ほどよい酸味をぎゅっと噛み締めると、冷たさとあいまって口の中が気持ちいい。
「ね、美味しいだろ?」
「うん、俺もこれ好き」
「ありがとう。テンガくんの反応、作り手冥利につきるよ」
 相崎の言う通り、マスターの料理はどれも美味しくかった。焼き肉で腹いっぱいだったのに、ついもっと食べたくてメニューを覗いてしまう。腹にたまりそうなものは、今度夕食を抜いて食べに来ようと心に決めた。
 四人と相崎と、それから時折マスターが会話に入り、まるで家飲みをしているようなリラックスした時間を過ごした。美味しい料理と楽しい会話に、アルコールがするする進んでいく。
 三杯目を飲んでいると相崎がトイレへ立ち、そのタイミングでレオが空になったグラスを持って立ち上がった。天河たちが来てからだけでも結構な量を飲んでいるのに、その足取りも仕草も洗練された格好良さのまま、よろめきもしない。
「咲(サク)、スコッチちょうだい」
 マスターを咲、と呼ぶ。
「ストレート?」
「水割り」
「今日は控えめだね」
「まあね」
 あれで控えめなのか、とひとりごちた。ペットボトルの水を飲みながらではあるけれど、確か五杯は飲んでいるはずだ。
「あ」
 マスターが小さく声を上げる。
「あらら」
 カウンターの内側は天河からは見えない。奥の棚に吊るされたタオルをレオが渡す。手を拭く仕草で何かをこぼしたのだと分かった。
「お二人って長いんですか?」
 店の特色なのか、たまたま常連しかいないからか、他の客とも気安さは感じるけれど、特にこの二人は店側と客の間柄でないことが分かる。
 ほんの一瞬、マスターとレオが目配せをする。特に意味のなさそうなその仕草に、親密さが漂っていた。
「長いも何も」
 ヨウが、唇でにんまりと弧を描く。
「一緒に住んでるもん」
 ね、と語尾を振られ、マスターは肩を竦めた。レオは微笑を浮かべている。
「え、それって」
 この界隈にいるからって、全員がそうとは限らない。けれどわざわざ含んだ言い方をするのは、天河に理解させるためだと思った。
「しかも幼馴染。マイノリティだってのに手近なとこで恋愛すんなっての」
 香が拗ねたような口調で唇を尖らせる。
 そのとき、トイレに続くカウンター横の通路から相崎が顔を出し、「あれ」と呟いた。
「サキさんとレオさんのこと話したんですか?」
「ほとんど自分で気付いてたよ」
 マスターが相崎に新しく酒の注がれたグラスを渡した。
「よく見てるでしょ」
 なぜか相崎が控えめながらも自慢げに言う。
「ショックだった?」
 マスターが離れた位置から天河の目を覗き込むように首を傾げた。
「実際に恋人関係が目の前にいて」
「いえ」
 ゆるりと首を振る。
 二丁目に行きたいと言ったのは、本当に興味だった。自分の知らない世界を知りたい、知っておきたいという。胸の中にすとんと実際に見た現実が落ちて、綺麗に収まった。
「納得しました。いつも一緒にいるからこその空気なんだなって」
 昔、相崎の指に光る指輪を見たときを思い出す。違和感が、しっくりとくる。視界が広くなったような感覚。
「今まで周りにいなかったから、多少脳に馴染むまでにタイムラグはありましたけど」
 驚いていないわけではない。けれど、それで動揺はしていなかった。
「少数派って言っても、十人に一人くらいいるって言うじゃないですか。それってそんなに少数でもないですよね」
 天河の職場にだって、その割合なら数人はいることになる。天河が聞いていないだけでどこにだって存在しているのだろう、きっと。
「……いいわね、あなた」
 ヨウがぽつりと呟いた。
「うん」
 レオがそれに同調して頷く。細められた視線にどきりと胸が鳴った。この色気は、少し心臓に悪い。
「あら、気に入っちゃったみたいよ、サキちゃん」
 ヨウが揶揄うようにマスターを呼んだ。ちょうど香の頼んだ料理を運んできたマスターが、テンガの脇から香の前へと皿を置く。置きやすいよう避けると、至近距離でふわりと笑われ、またどきりとした。この二人が恋人同士では、破壊力が高い。謎の確信をする。
「俺もいいなって思うよ、テンガくん」
「えっと……どうも」
 真っ正面から褒められ、思わずしどろもどろになって視線を逸らした。隣では相崎が声を殺して笑っている。
「あはは、可愛い。ほらほら、これも食べな」
 今運ばれてきたばかりの料理を香に差し出され、ごまかすようにどうもと箸を伸ばした。そしてやっぱりこれも美味しい。

邪魔をしない音量で店内に流れるジャズと、賑やかすぎずぽんぽんリズムよく飛ぶ会話。
 気付けば、テーブルの境目なんてないように、四人と一緒になって飲んでいた。
 香がそろそろ帰ると席を立ち、続いてトオルが帰った。二人は家が遠いのだという。
 そこからしばらくして、視界の隅に映った壁時計の示す時刻に、天河は目を見開いた。
「やば、終電!」
 え、と驚いた相崎がスマートフォンを手にする。
「あー……もうアウトだな」
 早い時間に待ち合わせたからと油断していた。店から駅は少し距離があるし、結構飲んでいるから走るのも危ない。
「俺はまだ大丈夫。うち、泊まる?」
 向けられた端末の、経路探索結果の画面を見る。確かに相崎が使っている路線なら、終電まではまだ少しあった。今からならゆっくり歩いても間に合う。
「明日の予定が大丈夫なら、泊まっていって」
「それは平気。助かる」
 ホテルに泊まることも今の一瞬で考えたけれど、今から見つかるかどうか分からないし、見つからなかったときにリスクがある。朝まで飲もうにも、そういったお店には詳しくない。それに、このあとも相崎と一緒にいられるなら、その方が楽しいに決まっている。
「じゃあ、お酒買って帰ろうか」
「やった!」
 拳を握って喜んでいると、レオがこちらを見つめていた。
「レオさん?」
「ん、二人はこれからなのねって思って」
 これから、と首を傾げる。飲むことを言っているのだろうか。
「行こう」
 相崎に促され、会計を済ました。レオとヨウにも「ごちそうさまでした」と礼を言い、マスターに見送られながら店の入り口に向かう。
「マスターの名前、サキさんで合ってます?」
 ずっと気になっていた。レオだけが「サキ」ではなく「サク」と呼んでいるように聞こえたから。
「そう、サキが通称。本名が咲太郎なんだ。古風でしょう」
 なるほど、それで「サク」。幼馴染みと言っていたから、レオにとってはその方が馴染みがあるのだろう。
 扉を出るとき、入り口を照らすライトでマスターの指が煌めいた。そこに指輪が複数はめられていることに今初めて気が付いた。見覚えのある、鏡面のような煌めき。
「また来てね」
 指から顔へ視線を上げる。身長は天河よりも少し下だろうか。華奢に見えていたけれど、近くで並べば一般的な男性の体格だ。ただ、その顔にはやはり中性的な魅力がある。
「はい。またテンガと来ます」
 耳がぴん、と反応をした。
 てんが、と初めて相崎に呼ばれた。耳に馴染む響きで。
 扉を出てすぐ横に、カウンターにあるものよりも二回りほど大きな黒板が立っていた。来たときには気付かなかったけれど、掠れた文字で店名が書かれている。
 f.f.~feel free~
 ――お気軽に。
 店の雰囲気そのままの名前を、いいなと思う。
 気に入った店は脳内フォルダに保存をする。これは仕事では使わない、プライベートで通う店として大切に保存した。
 駅までの道は、終電など関係ないように人に溢れていた。みんなどうやって帰るのだろう。このまま朝までここで過ごすのだろうか。相崎となら、それも楽しそうだ。
 なんだか走り出したい気分だった。浮かれている、と自覚がある。楽しい、と身体が言っている。
「知りたかったものは見れた?」
 相崎がこちらを向いて聞く。喧噪に吸い込まれない声で。
「うん、たぶん」
 メディアに取り上げられるような、いかにもな通りを歩いたわけではない。けれど、自分が知りたかったものは、今日のあの空間の中にあったと思った。
 眩しさに、目を細める。ネオンライトではない煌めきが、そこにはあった。
「なんか、ふわふわしてる」
 自然と、口から笑いがこぼれる。酔っ払ってるなと思うと余計におかしかった。
「こんな遊んでんの久しぶり」
「そうなんだ」
「大学の頃はやったけど、働き出してからはご無沙汰だなー」
 電車の中はそれなりに混んでいた。この路線の朝はぎゅうぎゅう詰めの地獄絵図だと聞いているから、その分家に帰る人も多いのだろう。
「言い忘れてたけど、部屋も仕事仲間と共同で借りてるんだ」
「え、俺が泊まって大丈夫なの?」
「ビル一つを借りてて、階ごとに各自の部屋があるから普通のアパートと変わらないよ。一階にオーナーさんの物置があって、二階から上が俺たちの住居になってる」
「職場は別って言ってなかったっけ」
「うん、少し歩いたところに別のビルがある。職場の方に大きな工具の置いてある作業場とか、ギャラリーや応接間なんかはあるよ」
 どちらもオーナーが厚意で貸してくれているらしい。ビルごと、という規模に少し驚いた。
「階段を通るときだけ静かにしてくれれば大丈夫」
「了解」
 ドアに背中を預け、話しながら横目に見慣れない景色を眺める。ビルの群れが、やがて生活の灯りに変わっていく。こうしていると、高校時代の延長のようだ。一緒に帰ったことはほんの数回。偶然帰りに会ったときだけ。あの頃なぜその距離感だったのかは、今思うとよく分からない。
 東京を出て埼玉に入り、すぐに下車駅に着いた。相崎のあとについて降りる。駅の周りは今はシャッターが降りているけれど、惣菜を扱う店と居酒屋が多いと相崎は言った。
 少し歩いてガードを潜ると、街灯の数がぐっと減る。そこから歩いて十分ほどで、小さなビルに着いた。
「ここ?」
「うん。古いけど、その分安く貸してくれて、中は自由に弄らせてもらってるんだ」
 懐かしい雰囲気の、素っ気ないコンクリートの階段を昇る。エレベーターはない。四階が相崎の部屋だった。
 部屋に入ると、確かに古い団地のような雰囲気の普通の部屋だった。キッチンスペースと、奥に部屋。使いやすいようにあちこち改良した跡が見える。不自然なところにある洗面台は、きっと後付けだ。
「階段、酔ってたらきつそうだな」
「普段はそんなに酔うこともないから。よく酔っ払ってる仲間は二階に住んでるし、面倒になると作業場で寝てることも多いよ」
 クリエイターらしい、と苦笑する。天河の会社でも、システム課や開発課は泊まり込んでその辺で寝ていることが多い。会議室から寝癖で現れたりする。
 途中のコンビニで買った酒やつまみを、ラグの上に設置されたローテーブルに置く。
「氷いる?」
「缶だしいいよ。今飲まないのだけ冷蔵庫に入れさせて。相崎、まずどれ飲む?」
「うーん……ウーロンハイにしようかな」
「はいよ」
 コンビニのビニール袋からウーロンハイとハイボールの缶、つまみをいくつか出し、残りを袋ごと差し出された相崎の手に渡した。
 座り心地の良いラグの上に腰を下ろし、脚を伸ばして寛ぐ。初めて来たのに、落ち着く。サキの店とはまた違う、相崎の住んでいる場所だという安心感のようなものがある。匂い、だろうか。
 部屋を見回すと、壁に接地している机には色々な工具やパソコンが置かれていた。脇に置かれたカラーボックスには本がぎっしり入っていて、机の上にも数冊積まれている。物の少ない部屋で、そこだけが賑わいを見せていた。
 立ち上がって見たことのない道具を見つめていると、相崎が水のペットボトルを手にして戻って来た。
「これ、仕事道具?」
「ああ、うん。簡単な道具は部屋にも置いてるんだ」
「デザイナーって、実際に作ったりするんだ」
「デザインだけって人もいるけど、俺は元々作る方がしたくて始めたから」
「え、そうなんだ」
「今でもオーダーメイドのものとか、細かくて手作業で作らないといけないデザインは自分でやってる」
 相崎の話に、身体が疼きだす。さらにしげしげと道具を見下ろした。
「危ないものは出してないから、触ってもいいよ。あ、削りかすには気をつけて。金属だから、うっかりすると怪我になるから」
 そうは言われても仕事道具だ。触れることは憚られて、けれど身体うずうずとする。透明なケースの中では、歯科医院のトレイにありそうな小さな金属棒が並んでいた。様々な形が両側についていて、そのすべてが違う形をしている。
 一番無造作に転がっていた細長い円錐を、慎重な手つきで持ってみた。何段も溝が引かれていて、そこに小さく数字が刻まれている。
「それは指輪のサイズを測るものだよ」
 いつの間にか隣に相崎が立っていた。
「これに通すの? なるほど」
 そういえば、と自分の指と円錐を見比べる。
「俺、左右の指のサイズ違うみたいなんだよ。前に買った指輪、左に合わせて買ったら右には入らなくて」
「あぁ、利き手の方が大きいことはよくあるよ。あとは、スポーツとか職業によっても違う。杉石、部活はやってなかったよね」
「うん、帰宅部だった。でも大学でテニスサークルに入ってたから、それかも」
「テニスはありそう。測ってみる?」
 相崎が引き出しを開ける。中にはさらにたくさんの道具が入っていて、そこからいくつも輪が連なったコードを取り出した。輪の一つ一つに円錐と同じように数字が書かれている。
「指はこれでサイズを測るんだ。この辺かな」
 一つの輪を残してまとめて掴み、相崎が手のひらを天河に向ける。その手に左手を乗せた。中指に輪を通される。少し緩い。相崎に指を固定され、今度は隣の輪がするりと指を滑る。今度はぴたりと指に嵌まった。
「うん、これかな。右手も貸して」
「ん」
 右の中指には、さっき緩かった輪がちょうど嵌まった。
「本当だ、少し違うね。お酒が入ってるから浮腫んでるかもしれないけど、左が十八号、右が十九号だ」
 自分の指に、数字がつく。今までは指輪を買っても店で試着して決めていたから、サイズというものを意識したことはなかった。
 相崎の手が離れひんやりとした手を、しげしげと見つめる。
「指輪によっても違うから、その都度合わせた方がいいと思うよ。厚みのある指輪ならワンサイズ上にするとか」
 輪の集団を引き出しに戻し、ローテーブルを挟んで向かい合わせに座る。缶で本日二度目の乾杯をして、移動で喉が渇いた分、一気に飲む。
 いつも飲んでいる缶が、いつもよりも美味しく感じた。
 飲みながら、もう一度ちらっと相崎の作業机を見た。あそこで、相崎はアクセサリーを作っている。
 向かいから、ふっと吐息が聞こえた。視線を戻すと、相崎が笑っている。
「杉石、相変わらずだ」
「え?」
 首を傾げた。相崎はいつもよりも緩い表情で堪えるように笑う。
「二丁目に行きたいって言ったときもだけど、興味が出るとちらちら意識がそっちにいくところ。高校のときと変わらない」
「そう……?」
 自分では分からないので、さらに首を傾げる。
「覚えてない? コールドスリープの話をしたとき」
 コールドスリープと聞けば、ふわりと記憶が浮かび、それから意識がそちらへと向くのを自覚した。あぁ、こういうことを言っているのか、と理解する。一度気になると積極的に調べるまではしなくても、ずっと気になっている。
「思い出した。そんな話してたな」
「話してて、ふとすると話題が戻るんだ。そういえば、って」
 相崎が思い出しているのか視線を下げ、缶を揺らす。笑う吐息に合わせ、ちゃぷちゃぷと缶の中で小さく水の音が響く。
 テレビで見て、気になったのだ。
「コールドなのに、人が眠ってるカプセルの中では氷じゃなくて水が動いてて、不思議だったんだよ」
 言われてみれば、昔からそうだった気がする。集中力があるのか散漫なのか分からない、と小学校の教師にも言われた。その意味を、この歳になって知ることになろうとは。
 相崎と話すようになった切っ掛けにしたって、そうだ。指輪が気になって、天河から声を掛けた。
「……成長してないのか、俺」
「違うでしょう。いいことだよ、興味を持つのは」
 またちゃぷん、と小さく音がした。相崎が缶に口を付ける。天河も缶の残りを飲み干した。
「相崎も変わってないな」
「え?」
 今度は相崎がきょとんと首を傾げる。仕草はやはり緩い。普段よりも可愛く見えて、思わず頬が緩む。
「笑い方。ちょっと堪えるように声を抑えるとこ」
 相崎があの頃大人びて見えたのは、普段の穏やかな笑顔のせいもあったと思う。
「で、それも抑えられなくなると笑い続ける」
 変なところでツボってる姿をたまに見た。意外と笑い上戸。
 相崎と会う度に、昔の記憶がどんどん鮮やかに色付いていく。
「そう……?」
 自覚はないらしく、相崎はまだ首を傾げている。
「ツボに入ると止まらないのは、分かるかも」
「一度入ると長いよな、相崎」
 冷蔵庫に二本目を取りに行く。相崎も後ろについて来たから、冷蔵庫を開けたまま横に避けた。二人とも、二本目はレモンハイだ。
 乾き物と小さな惣菜をちびちびと食べながら、朝方まで話した。
 再会してから、もう片手では足りないほど会っている。それでも話題は尽きない。高校時代に三年間話続けたのだから、ブランクのある今はきっともっと足りていない。反対に、黙っていたとしても、物足りないとは思わなかった。あの頃も、何も話さずにただ校舎に寄り掛かってぼうっとしていたことがあった。話していても、聞いていても、黙っていても、相崎のそばは心地いい。

日が昇る頃、二人ともぼんやりと外を見ていた。朝朝日が鉄やの目に眩しい。
 少し寝る? なんて会話を交わしたところまでは記憶にある。
 目が覚めたとき、目の前には驚いている相崎がいて、いつの間にか眠ってしまったのだとそこで気が付いた。シングルベッドに男が二人、布団も一枚を分け合っていて、今までにない距離に相崎がいた。いつも結んでいる髪が、さらりと流れて顔に掛かっていた。
「あ、悪い……俺潜り込んだ?」
「いや……どうだろう。……さすがに風邪を引くからって俺が寝るように言ったのかも」
 相崎が動揺している。その初めて見る様子に、慌てて視線を外して壁側を向いた。相崎がベッドから降りる気配を背中で感じていると、布団の隙間からひんやりとした空気が入ってきた。確かに、雑魚寝なんてしたら風邪を引いたかもしれない。
「杉石」
 名前を呼ばれて振り向く。もう、相崎はいつもの相崎だった。
「コーヒー飲む? 朝食もつけるけど」
「モーニング? 飲む」
 だから天河もいつも通り笑って返す。ほんの少し、違和感に指先をさまよわせながら。
 すぎいし、と自分の名字を口中で反芻する。
 ゴリゴリと低い耳慣れない音がし始め、キッチンに立つ相崎の手元を背後から覗き込む。小さな箱の上についた小さなハンドルを、相崎が回していた。
 また、さっきのようにふふ、と笑われる。
「粉にしたのを切らしてて。いつも少しずつ豆から挽いてるんだ」
 コーヒーミル。コーヒーメーカーと一体型の電動の物なら仕事で扱っているけれど、手動の物は初めて見た。音がするごとに、コーヒーの良い香りが広がっていく。
「家庭でも使うもんなんだ」
「うん。俺はそんなに味にうるさいわけじゃないから豆はその辺で適当に買うんだけど、せっかくなら挽いたばっかりの方が美味しいかなって」
 ふわりと漂う香りを楽しみながら、今度はコーヒーミルに興味を持ったわけだ、と自分のことを観察してみた。
 小さな箱の小さな引き出しから出された粉が、今度はドリッパーにセットされたフィルターへ移される。やかんはカフェにあるような先の細い物ではなく、普通のものだった。
「朝食って言っても。フライパンで焼くだけのトーストだけど」
「十分。手伝うことある?」
「大丈夫。座ってて、って言っても見てそうだな」
 コーヒーが落ちる間に、手早く卵を溶く。食パン一枚と一緒に一人分のソーセージと卵が焼かれた。
「名古屋に出張したときのモーニング思い出す」
「ああ、あれすごいよな。冷めちゃうから先に食べてて」
 トーストののった皿とマグカップを渡され、空き缶が並んだままのテーブルに運ぶ。どうせなら一緒に食べたいけれど冷めてしまうのももったいないから、ちびちびと食べ始める。
 そんな天河を見て、相崎はまた笑った。
「サラダも出せたら良かったんだけど。野菜が何もなかった」
「一人暮らしだとそんなもんだよな。野菜たくさん買ってもなかなか使い切れないし」
 トースターで焼くのとは少し違う焼き加減を味わう。仕事柄家電に溢れた天河の部屋と違う暮らしに、わくわくしていた。朝食を誰かと食べることも、久しぶりで楽しい。
 相崎と朝食を食べる日がくるなんて、高校の頃は思いもしなかった。
 ふと、サキとレオを思い出した。二人も、今頃こんなふうに朝食を食べているのだろうか。あの二人にとってはそれが日常で、当たり前で。特別でないことが特別で。
 そのままf.f.での数時間を思い返していたら、夢じゃなかったんだなとじわじわ実感した。今まで知らなかった空間だから、記憶はきちんとあるのにどこかふわふわとしている。
「ケイちゃん」
「……え?」
 無意識に呟いていた。相崎に聞き返されて「あ」と声をこぼす。
「昨日のことを思い出してた」
「ああ。最初にケイって名乗ったから、そのままなんだ。みんな気さくでいい人たちだっただろう?」
「うん」
 皿を空にし、ごちそうさまと手を合わせた。
 目の前に、相崎がいる。高校の頃は並んで座っているいることが多かったと思う。再会してからは食事や飲みばかりだから、いつも向かい側だ。
「……昔から、違和感があってさ」
 マグカップを手にし、ぽつりと呟いた。コーヒーはもう半分冷めているけれど、相崎の言う通り挽き立てだからか十分美味しい。
「違和感?」
「相崎を、相崎と呼ぶこと」
 相崎に、「杉石」と呼ばれること。
 お互いに生まれたときから持っている名前のはずなのに、ほんの少し感じた違和感が、高校の三年間消えなかった。再会してからも、ずっと。他の人にこんなふうに違和感を覚えたことはない。
「……天河」
 相崎が呼んだ。二回目の天河が、身体にじわりと馴染んでいく。
 胸にゆっくりと温もりが広がり、弾むような音を立てた。
「蛍」
 向かい側で、蛍がはにかむように笑う。
「はい」
 これだ、と思う。
「……しっくりきた」
「うん、俺も」
 長い時間が経って再び縁が繋がって、それからはまだほんの僅か。一瞬で、三年と八年を飛び越した。
「蛍、今日の予定は?」
 うーん、と呟き、蛍が壁のカレンダーへと視線を向ける。仕事関係でもらうのか下に企業ロゴが入ったカレンダーには、何カ所か蛍の綺麗な字で仕事のスケジュールが書かれていた。近いところで来週に「納品」の文字。
「午後からは仕事、かな。納期が近いから」
「ほとんど寝てないのに大丈夫か?」
「うん。すっきりしてるくらいだよ」
 そう言われると普段どんな生活をしているのか気になる。作業場に泊まり込むこともあるというのは、きっと仕事仲間だけの話ではなくて蛍もその一員だろう。学生の頃から、集中力が凄まじかった。本を読んでいるときに声を掛けて、しばらく気付かれなかったこともある。
「泊めてもらった俺が言うのもなんだけど、ほどほどにな……」
「大丈夫」
 蛍の言葉で信用ができないと思ったのは初めてだった。
「お昼は食べていくだろ? 近くに休日もランチをやってる喫茶店がある」
 少しでも寝なくていいのだろうか、と思いながらも、ランチに心惹かれて頷いた。



以上がサンプルです。1巻の8割ほどになります。(1巻は書店委託をお願いしていますし、次回のJ庭でも置く予定です)
スペースについてなどは、またnoteで告知させていただきます。どうぞよろしくお願いします。

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