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【新刊サンプル】J.GADEN52新刊『REUNiiON 2』

 新刊の冒頭です。


登場人物

受:杉石天河(すぎいし てんが)。26歳。家電メインのそこそこ大手企業営業マン。すぐに人と仲良くなるタイプ。今までは女性と付き合ったことしかない。高校時代、蛍の指輪が気になって声を掛け、よく二人きりで話をしていた。卒業の日、蛍の指輪にキスをしている。

攻:相崎蛍(あいさき けい)。26歳。アクセサリーデザイナー兼彫金師。穏やかな雰囲気で口調もやや丁寧。高校時代、真面目優等生な制服姿なのに、左手中指にいつも指輪をしていた。



   4.冬うららに芽吹く



side.K

 天河に、キスした。  再会してからずっと――きっと高校の頃から、無意識に抑制してきたのに、身体が動いてしまった。  天河が受け入れるという、確信のようなものがあったから。 ――……ごめん。 ――気持ち悪い?  咄嗟に出た謝罪と、耐えられず聞いてしまった問いに、天河は首を横に振って答える。 ――……蛍、もう一回。  その甘い言葉は、脳の芯から痺れさせた。引き寄せられ、もう一度口づける。  もっと、したい。触れたい。  ……、言いたい。  唇を唇で塞いで、溢れてしまいそうな言葉を飲み込む。  長く眠らせていた感情は、まだ周(い)囲(ま)の環境に馴染めずにいた。コールドスリープする間に、天河も自分も大人になっていた。大人になっても、変わらなかった。自覚しないままだった想いは、そのままずっと蛍の中で眠っていた。  目を覚ましても、まだ春は見えない。







 手早く身支度を済ませ、天河は「お先に失礼します」と逃げるようにして執務室を出た。廊下にはまだ人が少ない。けれど、金曜日の業後特有の賑わいがそこかしこから漂っている。  いつかのように後輩たちに捕まる前に、とエレベーターまで急ぐ。ちょうど開いた扉に飛び込むように乗り、先客に会釈して一階が押されていることを確認した。  一息吐いて、半分は建前だな、と思う。後輩たちも、そう頻繁に我を押しつけてはこない。ただ、自分が急ぎたいだけだ。  会社の入ったビルから外に出ると、涼やかな風が身体を撫でていった。肌の出ている部分がひやりと冷える。コートの首元を片手で引き寄せ、駅までの道を足早に進む。冬が深まり、相変わらずの人混みも少し空気が澄んだように感じた。  蛍は、まだ電車だろうか。それとも先に着いてどこかをぶらりと歩いているだろうか。  天河の足が地面を踏むリズムで、街路樹から落ちた葉が鳴る。乾いた葉が割れ、弾んでいる。その音に、天河は自分を見た。  浮かれている。  ようやく週末が来て、蛍に会える。それに、今日行く予定の店はもう決まっていた。天河の行きたかった店だ。気を抜くと顔が緩みそうで、ぎゅっと頬に力を入れた。  蛍との待ち合わせ場所である駅前に着くと、すでに着いていた蛍が天河に気付いて目を細めた。  二人で過ごす、週末が始まる。 「お待たせ」 「お疲れ様」  恒例のやりとりをして、身体の向きを変えた。蛍と話す、酒を飲む、楽しいと分かっていることへの期待と、これから向かう店への期待で、足はますます弾む。 「やっと二回目だ」 「うん。俺もちょっと久しぶりだ」  前回初めて蛍に連れて行ってもらって以来の道を意気揚々と進む。 「蛍はあれから行ってたの?」 「何回か。仕事関係でも行くことがあるから」 「そうなんだ」  蛍の仕事での行き先はあまり知らない。ただ自分のブランドの商品を製作して販売するだけでなく、撮影小物として貸し出すこともあるということを少し前の家飲みで聞いた。自分の勤めている業界以外はなかなか知る機会がないので、何を聞いても楽しい。 「今日もレオさんたちいるかな」 「金曜日だからいるかも。確かトオルさんはサラリーマンだし」 「あぁ、なんか納得」  確かに、トオルの見た目には、自分と似たような雰囲気があった。  ふ、と小さく蛍が笑う。 「ん?」  つられて笑いながら促すと、蛍が前を向いたまま首を傾けた。 「天河、嬉しそうで。本当にあそこにいる人含めて、f.f.を気に入ったんだなって」  蛍は、よく見ている。いつの間にか把握されている、そんな感覚を再会してから何回も覚えた。  働き出してから、自分が歯車の一つ、というようなことを思うときがあった。特に何でもない場面で、何があったわけでもない時に、自分はこの世界に生きている人間の日常を形成するほんの一部なのではないか、と。  蛍と話すとき、この世界は天河だけのものになる。  小学校で習った曲を思い出した。父が子供にこの広い世界はお前のものだ、という曲。王様か何かか? と当時思ったけれど、それはきっと子供はまだ自分の視点だけで世界を見ているからだ、と今は思う。 「天河」  優しく名前を呼ばれ、隣を見る。もう今更蛍に隠すことではないけれど、考え出すとあちこちへ思考が飛ぶ自分の性質を自覚したばかりなので、気恥ずかしさにへらっと唇を緩める。蛍は面白そうに笑った。 「今度は何を思い出してたの?」  蛍は慣れたようにそう言うけれど、蛍以外に指摘されたことはない。 「蛍といると、気が緩んでるみたいだ」 「そう? それは光栄だけど」  歩いているからか寒さが和らぎ、コートの襟を元のように寝かせる。 「小学校の音楽の授業で習った曲を思い出してた」  考えていたことを話すと、蛍は「なるほど」と呟いた。 「あの歌詞、俺も不思議だった。最近ビールか何かのCMでも流れてた」 「あー、あったあった」  ビール、と聞くと喉がアルコールを欲した。月曜日からの仕事の疲れがどっと溢れ出し、発散するときを待っている。  もうすぐf.f.が見えるはずだ。頭の中のデータはしっかりと店までの道を保存していた。  ここから小さな路地に入り、そこからはすぐ近くだ。金曜日なのに、小路地は一瞬人の気配が途切れる。前回来たときもそうだった。 「天河」 「ん?」  呼ばれて返した反応した声が、そのまま「わ」と慌てた声に変わる。蛍に肘の辺りを掴まれ、身体が傾いだ。  店の看板と街路灯の隙間、ほんの少し灯りが途切れたタイミングで目の前に影が差す。 「んっ」  掠めるように、唇に温もりが触れた。 「っ、蛍」  いくら人通りの切れる路地だからと言って、人の気配がまったくないわけではない。名前を呼んで咎めると、蛍はいたずらっぽく笑った。 「ごめん。楽しそうな天河が可愛くて、つい」  可愛い。聞き慣れない言葉に耳がぽっと熱くなる。  蛍が、元のように歩き出す。何言ってんだよ、と聞こえるかどうかの声で返して、天河も追い掛けて肩を並べた。  初めてキスをした日から、家飲みの合間にこうしてキスを仕掛けられる。いつも蛍からだった。触れたい、と思っても天河はどう動いたらいいか分からずに待ってしまって、そういうとき蛍は読み取ったかのように唇を寄せる。  大学時代はほぼ途切れずに彼女がいて、手が遅いというわけでもなかった。それなりに回数はこなしている。どう動くか、なんて歴代の彼女相手には考えたことがない。 「結構人がいる」  見えて来たクラシカルな外壁を持つ建物に、天河も視線を向ける。 「本当だ、前に来たときよりも多そう」  そう返してから、ちらっと蛍を窺った。  蛍は、どういうつもりで触れているのだろう。なんとなく、聞けずにいる。  木の扉を蛍が開くと、ベルの鳴る音とマスターの「いらっしゃいませ」という声に出迎えられた。 「ケイくんと……テンガくん、だよね。いらっしゃい」 「ご無沙汰してます」  軽く頭を下げ、扉をくぐる。入った途端に、やっぱり好きだと思う。店の雰囲気と、サキの作り出す空気を思いっきり吸い込んだ。 「ずっと来たかったんですよ」  どうせ行くならゆっくり過ごしたくて、蛍とお互いに時間がとれる日を探っていた。先週蛍の家で飲んだとき、蛍に「来週はf.f.に行こうか」と言われてから、そわそわと金曜日を待っていた。もちろん、後輩たちにはまたご機嫌だと訝しまれた。 「ふふ、この間ケイくんに聞いた。うちの店を気に入ってくれてありがとう」  店の奥、前回と同じ位置にレオたちもいた。今日は三人だ。一番小柄だった香(コウ)がいない。 「あそこも、気に入ってくれてるみたいで、今日もいるね」  天河の視線に気付き、サキが揶揄する声で笑う。 「ちょっとー? 感謝の気持ちが滲んでないわよ?」  すかさずヨウが離れた位置から抗議の声を上げる。  蛍の二の腕にぽんと触れて促し、広くはない店の奥へと進む。 「こんばんは」 「ヨウさん、レオさん、トオルさん、お久しぶりです」  奥のテーブルに近付きながら挨拶すると、三人から笑顔が返る。 「名前、覚えててくれたのね」 「そりゃもちろん、この間は楽しかったです!」  人の顔と名前を覚えることは職業柄得意だけれど、いろいろと印象的な夜だった。元々人見知りもしない性質なので、その点では今の仕事が性に合っていると思う。 「ほんと可愛いわ、テンガくん」  ヨウに流し目で微笑まれ、笑って返す。  可愛い、とまた言われてしまった。さっきと違い、今度は耳に熱を感じない。これは愛玩動物に対する可愛いに近い気がする。 「隣いいですか?」 「どうぞ」  レオからの了承を受け取り、蛍と隣のテーブルに腰を下ろした。すぐにサキがカウンター内を移動して、注文をとりに来てくれる。 「俺はビールで」 「あ、俺も」  仕事上がりにここまで歩いたことで、喉が刺激を求めていた。蛍もここに来る前に仕事で歩いていたらしいから、きっと同じような理由だろう。 「はい。ちょうど海外のビールをいくつか仕入れたところなんだけど、こういうビールの方がいい?」  透明な冷蔵庫から、サキが数本の小さな瓶ビールを出して見せてくれた。 「こっちはフレーバーつきのやわらかい感触で、こっちはフレーバーではないけどフルーティー、こっちはスパイシーで炭酸も強め」  カラフルなラベルを見比べる。一つ目のビールは海外製品を多く扱うスーパーで一度買ったことがあったけれど、甘くて食事には不向きだった。 「俺はそれ、フルーティーなので」  真ん中の瓶を指す。日本酒もフルーティーと書いてあるものは大体気に入ったから、ビールもそんな気がした。 「俺はいつもので」 「了解」  サキがカウンターの奥へと引っ込む。 「いつものって?」  前回来たときはカクテルばかりで、ビールは飲んでいなかった。部屋飲みでも、蛍はたまに缶ビールを飲む程度だ。 「生ビール以外だと、コロナはいつもあるから」 「へえ」  コロナは飲んだことがある。すっきりと軽くて、暑い日に外から帰った来て一気飲みしたら、気持ちいいだろうなと思う味だった。 「香、残念だったわね。テンガくんのこと可愛いって言ってたのに」  また、可愛い。これは多少そういう目も含まれているということであっているのだろうか。気に入られているのなら、どういう意味だって嬉しいけれど。 「あとで自慢のメッセ送っとくわ」  レオが相変わらず色気のある低温でクスクスと笑う。そのレオの前には、空のグラスが二つあった。グラスの形を見るに、片方がチェイサーというわけではなさそうだ。 「レオさん、今日も絶好調ですか?」  酒豪だということは、一度一緒に飲んで分かっている。 「んー。まだ今日は四杯目よ」 「十分でしょ。衰えるってことを知らないの? そのうち身体壊すから」 「ヨウさんもレオさんも、まだそんな歳じゃないでしょ」  トオルが二人を宥め、苦笑する。  こうして見ていると、やはりトオルは同種の匂いを感じた。反対に、レオとヨウにはどこか業界人っぽさが滲んでいる。 「お待たせしました」  サキがこの間と同じ小さなココットと、小瓶を二本トレイに乗せて来た。 「今日のお通しはワサビ菜とワカメのナムルだよ」 「へー、ワサビ菜!」  あまり普段食べることのない食材にテンションが上がる。口の中でじわりと唾液が滲んだ。 「節操ないでしょ。たまに和風の味も出すから、居酒屋かって言われるよ」 「酒に合うなら何でもいいと思います! この間来たときに食べたタコのカルパッチョも美味しかったです」 「そう? ありがとう」  サキの手が、瓶をそれぞれ蛍と天河の前に置く。蛍の前に置かれた見覚えのあるラベルの瓶には、緑色の果物らしきものが刺さっていた。天河の前にはグラスも置かれたけれど、蛍の前には瓶のみだ。 「天河、あのカルパッチョが食べたいってずっと言ってるんですよ」 「本当に美味かったから」 「それは嬉しいな。お通しはそのとき手に入った食材とかで気まぐれに作ってるけど、カルパッチョは結構頻繁に出してるから、また食べてね」 「はい」  サキが別の客に呼ばれ、離れていく。さっそく、と一緒に置かれた箸を手に取りつつ、蛍の前のビール瓶を見つめた。すぐに気付いた蛍が、そんな天河を見て笑う。 「こうやって飲んだことない?」 「ない。ライム?」 「うん。こうやって瓶の口に挿したまま飲むんだ」  直に口をつけ、蛍が瓶を傾ける。淡い黄金色がライムの表面を撫でて蛍の唇の中に流れ、蛍の喉が上下に揺れた。  美味しそうだと思うと同時に、とくんと胸が鳴る。  濡れた唇に、明度の低い灯りが淡く弾ける。数分前のキスを思い出す。  逸らした視線の端で、黄金色の揺れる瓶が天河へ差し向けられた。 「飲んでみる?」 「うん」  瓶を受け取り、口をつける。冷たいライムに、少しだけ温もりを感じる。蛍の体温だと意識すると同時に、キンと冷えたビールが口に入ってきた。爽やかな香りに、すっきりと軽い口当たり。 「……うま」  飲み込むと同時に呟いた。 「今度これ、家でもやろう」 「よく冷やすのがポイントよ。美味しそうに飲むわね、テンガくん」  レオが切れ長の瞳を細める。香り立つ色気に、顔には出さないけれど少しどきりとした。 「冷蔵庫の吹き出し口のとこに入れておきます」 「それがいいわ」  蛍に瓶を返し、自分の前にある小瓶を手に取る。初めて見るラベルだった。一文字ずつ自由に配置されたようなロゴがラベルを埋めている。ひっくり返すと、イタリアから輸入と書かれていた。海外のビールにはそれほど詳しくないので、イタリアのビールと見ても他の種類は思い浮かばない。  グラスに注げば、普段飲む缶のものとは違う鮮やかな黄金色が満ちていく。  ライムの刺激のある爽やかさとは違う、やわらかな風味が広がった。飲み込むとささやかな炭酸が通り過ぎ、ふわりと後味が消える。 「こっちも美味しい」 「へえ。それは飲んだことないや。一口」 「うん」  蛍が手を伸ばし、今度は天河が瓶を手渡す。  家飲みでもしょっちゅう酒を交換している。それが「いつものこと」になっていた。 「本当だ、美味しい。俺も次これ頼もうかな」 「あ、やっぱりこれも美味い!」  お通しにも箸を付け、天河は顔中で幸せを噛みしめる。ごま油の食欲をそそる香りに、箸を勢いづけるピリ辛加減。酒も進んだ。

 三杯目を注文しようとカウンターに視線を向けると、サキは洗い物の最中だった。空になったグラスを持ち、サキの前の空いたカウンター席に向かう。 「おかわり?」 「はい。洗い物終わったらお願いできますか?」 「次は何にする?」 「えーと……あ、キールで」  小さなブラックボードに視線を向け、目に止まったカクテルを頼む。 「かしこまりました。ちょっと待っててね」  頷き、そのまま手持ち無沙汰にサキの綺麗な所作を見つめる。店内全体は照明を落としていて落ち着いた空間になっているけれど、カウンター内は手元と足下がしっかりと照らされていた。サキの手が、水と飛沫でキラキラと光る。指にも別の輝きがあり、天河はじっとそれを見つめた。覚えのある、鮮やかな金属の煌めき。  洗い物を終えたサキが、グラスにワインを注ぐ。手早く作られた、綺麗な赤色を受け取った。 「それ、ステンレスですか?」  するりとこぼれた問いにサキは一瞬きょとんとし、それから「ああ」と頷いて手に視線を落とした。 「うん、そうだよ。ケイくんに作ってもらったんだ」  胸の高さで光る細い五つの輪を見つめ、やっぱり、と思う。彫金に詳しいわけではないし、細い軸にはロゴも何もついていない、シンプルな形だけれど、なぜか蛍が作ったものだと思った。  サキの細く長い指の関節と関節の間に、ばらばらと指輪が嵌まっている。ピンクを帯びた金が、サキに似合っている。 「真ん中に付ける指輪もあるんですね」  指の根元だけでなく、第一関節から第二関節の間を飾る指輪。繊細なデザインが、サキの指の綺麗さを際立たせていた。 「うん。俺もケイくんに教えてもらった。こういう仕事だから手元は見られるし、箔付けのためにもアクセサリーは必要かなって思ったんだけど、水仕事の度に外すなんて忘れちゃうし、俺ずぼらだから丁寧な手入れも無理だからさ。それを相談したら、ステンレスとこれを勧めてくれたんだ」  蛍以外が蛍の作品を身につけているのを見て、蛍の仕事を改めて意識する。よく見れば二つだけ、細い鏡面のようなストレートではなく、波打つ曲線のリングと少しだけ太く表面が細かくカットされたものがある。  一本だけが四方に小さく光りを散らす。それはサキの手元にとどまってささやかなステージライトのようだ。 「綺麗ですね。サキさんにすごく似合ってる」 「ありがとう」 「ファランジリング」  いつの間にか横に蛍が立っていた。 「え?」 「こういう、指の付け根じゃなくて関節の間につける指輪のこと」  蛍が首を傾げる。天河が気になっていたことはこれか、と確認する仕草。 「ファランジリング」  鸚鵡返しに呟いて、こくんと頷いた。蛍が笑う。いつも天河が何かに気をとられてるときの、面白がっている笑顔だ。 「出資したのは私よ」  片手にビールの小瓶を手にしたレオが、サキの肩に手を置いて言う。おかわりと取りに来たらしい。  店内は客が減り、ゆったりとした空気が流れていた。 「出資って。プレゼントでしょう」  蛍がクスクスと笑う。 「レオが出すって聞かなかったんだ」  あぁ、それはなんとなく分かる。 「アクセサリーは特別ですもんね」  恋人が身につけるものは、自分が買いたい。独占欲も含まれた、恋人としての特権。 「この子に任せると、どんなセンスの外し方するか分からないもの」 「センスなくて悪かったな」  恋人らしい気安さのある会話に、なんだか嬉しくなる。恋愛話を聞くのは、昔から好きだ。 サキの指が、レオの欲に応えている。  いつもは惚気を聞いても微笑ましく思うだけで、自分に重ねたことはなかった。友人の指に光る結婚指輪を見たときも。初めての気持ちに、思わず右手を胸に当てる。  覚えたのは、羨ましさだった。

 人のごった返す駅からどうにか終電に乗り込む。少し走ったというのに、同じくらい酒を飲んでいるはずの蛍の横顔は涼しい。お互いそれなりにアルコールには強いけれど、蛍の方が少しだけ顔に出づらい。 「間に合ったー」  今日は天河の部屋で飲むことになっていた。きちんとした約束というわけではなく、順番に互いの家に泊まっている。もし終電を逃せば二週連続で蛍の部屋に泊まっただけだけれど、なんとなく走ってしまった。  前回f.f.に行ったときと同じだ。浮かれている。楽しくて、気を抜けば身体が跳ねてしまうような感覚が、心地良い。  それに、自分の部屋の番だと、部屋に何かしらを用意してしまっていた。それをお披露目するのも、今では楽しみの一つだ。 「まだ飲める?」 「もちろん」 「よし。今日は酒ではなく、朝ご飯にあるものを用意しました」 「なんだよ、あるものって」 「それは朝のお楽しみ」 「期待しとく」  川と坂に挟まれた駅前から住宅地へ。蛍ももう慣れた様子で進んでいく。途中のコンビニに寄る。いつもなら簡単な朝食を買ったりするけれど、今日はその手を止めた。 「何にも買わなくていいの?」 「うん。飲みたい飲み物だけよろしく」  お茶や水はあるけれど、それは蛍も知っているので、ドリンクコーナーでフルーツジュースを物色している。 「紙パックのが美味しそうに見えるのって、何でだろう」 「冷蔵庫空いてるから紙パックでもいいぞ」 「じゃあそうする」  天河の持っている店内用買い物カゴに、林檎の写真が印刷された紙パックが追加された。  菓子コーナーでスナック菓子、酒コーナーの横でつまみをいくつかカゴに入れる。うろうろと店内を探し、フィルターで入れるタイプのインスタントコーヒーも放り込んだ。粉を溶かすものよりは、蛍の淹れてくれたものに近いだろうと期待して。  コンビニから裏道へ行き、そこからすぐに天河の住むマンションに着く。 「何で割る?」 「じゃあ烏龍茶」  ウィスキーを部屋に並べるようになってから、自然とお茶も増えた。緑茶、ほうじ茶、烏龍茶は常にある。そこはさすがに茶葉ではなくペットボトルだけれど。 「了解」  ウーロンハイを作るついでに、朝使う予定のあるもの、を冷凍庫から冷蔵庫に移す。  グラス二つを手にして戻ると、蛍はテーブルに買ってきたつまみを並べていた。その綺麗な並べ方にこっそりと笑う。たまに几帳面なところが面白い。 「ありがとう。先に海苔フライもらった」 「あ、それ美味いよな。最近はまってる」  コンビニのスナック菓子コーナーにある、海苔を揚げた菓子。実は三日連続で買っていた。 「酒飲んだ朝ってあおさの味噌汁飲みたくなるけど、前もって飲んでる感じ」  蛍の真面目な呟きに吹き出す。これは、そこそこ酔っている。 「それは共感できない、味噌汁欲しい」  味噌汁かコーヒーか。天河はその辺りが欲しくなる。もしかしたら、温かいもので身体をいたわりたくなるのかもしれない。 「じゃあ、味噌汁も買えば良かったな」 「それは駄目。朝食に合わない」 「そっか」  窓の向こうに、夜が見える。向こう側が暗いせいで、半分鏡のようだ。ベッドを背にして、テーブルに並ぶ蛍と天河。蛍越しに見えるその光景は、初めて見るものだった。制服の自分たちも、こうして並んでいた。校舎のあちこちで。  半透明の蛍が動く。目の前に影がさし、蛍の肩で窓は見えなくなった。また、唇が重なる。 「フライの油でテカテカ」 「そりゃお互い様」  唇の先で挟んで返した。蛍の吐息も、天河の吐息も、離したばかりの唇に触れる。  擽ったさに、背中がぞくっと震えた。  もっと、直接的な温度が欲しくなる。少し前へ傾ければ、またキスになって。そんなことを数回繰り返して、ここからどうすれば分からなくなると、元通りウーロンハイを口にした。

 最初は気を遣って床に余分な布団で転がっていたけれど、最近はベッドに並んで寝ていた。狭いシングルベッドなのに、不思議と触れることはない。二人とも、平均程度の身長も体格もあるのに。二人で眠るとき、きっと蛍は熟睡していない。なんとなく、ずっと距離を保っている気配がある。それが分かるくらいには、天河も熟睡していないということだけれど。けれど、安心してもいた。ここは、居心地がいい。蛍の部屋のベッドでも、天河のベッドでも、同じように。

 蛍が珍しく寝ぼけている間に、あるものの一つを戸棚から出した。SNSで話題になっていたふわふわに作れるというパンケーキのミックス粉だ。パッケージ裏の作り方を再読し、牛乳と混ぜ合わせる。一昨日見ておいた動画のようにフライパンで生地を焼いていると、香りに引き寄せられたのか蛍がキッチンに入って来た。 「パンケーキ?」 「そう。この間ハワイのパンケーキ食べたいって話、してただろ」  海外の観光地を特集した番組だった。旅行そのものよりも、パンケーキに二人して惹かれた。日曜日の昼近く、これから遅い朝ご飯を食べに行こうかと話していたときに見ただったからかもある。  少しいびつな丸をフライ返しでひっくり返す。お好み焼きよりは小さい分扱いやすいけれど、ふわふわにするということはやわらかくて、端はぐしゃりと潰れてしまった。それは自分のとして、もう一枚分の生地をまたフライパンに流し込む。  一枚目よりは綺麗に焼き上がったパンケーキを、冷蔵庫からホイップクリームとフルーツの缶詰を出して飾り付けた。 「うわ、クリーム溶けるの早い! 蛍、早く持ってって食べろ」 「ん、ありがと」  慌ててローテーブルにつき、二人で「いただきます」と手を合わせた。片付けは後でまとめてだ。 「んー、甘さがしみる」 「美味しい」  夜中まで菓子を摘まんでいたはずなのに、パンケーキはあっという間に二人の皿から消えた。 「ホイップクリーム、意外と美味しい」  蛍が呟く。 「え、まずそうなイメージだった?」 「というか、子供の頃に食べたときは美味しくなかった」 「そうなんだ。進化?」 「メーカーの違いかもしないけど」  立ち上がって二人分の皿を下げる。コンビニで買ったインスタントコーヒーを二つ取り出して、マグカップにそれぞれセットした。さっき一度沸かしておいた湯を再度コンロで沸かす。やかんはすぐに賑やかに音を立てた。  ゆっくりとコーヒーの粉を湯で蒸らし、コーヒーを淹れていく。溶かすだけのインスタントより、当たり前だけれど香りは良い。朝だな、と間の抜けた実感をする。 「そうだ、天河に聞きたいことがあったんだ」  コーヒーの入ったマグカップをテーブルに置く。蛍はマグカップを持ち上げ、立ち上る香りに鼻を寄せた。 「なに」 「コーヒーメーカー、欲しくて。天河の会社のでミル付きのない?」  蛍の家にある、アンティークなコーヒーミルを思い浮かべた。豆を挽くときの音と、香りごと思い出す。 「あるよ。今度見に行く?」 「うん。ミルで挽いて少しずつお湯を注ぐ時間も好きなんだけど、納期迫るとドリップする余裕もなくてさ。でもコーヒーの香りは欲しいから、自動で淹れられないかなって」  豆を挽いてコーヒーを淹れる蛍の背中。学生の頃から変わらない凜とした佇まいを思い浮かべた。あれが見えなくなるのは残念だ。 「最新はこの辺」  スマートフォンで検索し、商品情報を表示する。すべて自動で、粉の粗さや抽出の濃さも細かく選べるものだ。その分ボタンが多くてサイズも大きいし、値も張る。 「そこまでこだわりはないから、シンプルな機能のでいいんだけど」 「それだとこの辺かな。ある程度絞ったら実際見に行こう。新宿の店舗なら一通り揃ってるから」  情報は常に仕入れてるので、一応他のメーカーも多少は紹介できる。義理で選ぼうとしてくれているのは分かるから、嬉しいけれどそこは好みを優先した方がいい。ほぼ毎日使うものなのだから。 「まぁ、メンテナンスのしやすさと俺のアフターフォロー付きという点で、うちのメーカーをお勧めはしとく」 「うん、紹介してもらえると助かる」  コーヒーを口に含む。やっぱり少し物足りない。  コーヒーメーカーを買ったら、コーヒーミルはどうするのだろう。あの荒い音が恋しい。  ゆったりと休日を過ごす。  蛍の向こうにある窓には、四角く切り取られた空とビルがある。良い天気だ。吸い込まれるように前のめりになると、蛍の肩が目の前にあった。顔を上げる。気付いた蛍がマグカップを口から離すのをじっと見ていると、コーヒーの香りとともに唇にコーヒーよりも低い温度が触れた。  胸にじわりと染み出る温もりは、コーヒーよりも熱い。

 エレベーターホールに貼られた掲示物には、自然と目がいく。このポスターは少し前から目に入っていたけれど、自分の業務には関係がないので流していた。左下に、いつものように総務部のスタンプと掲示期限。期限は年内。いつもより短い。 「社内コンペ」  大きなフォントで書かれた題字を呟く。  毎年恒例の企画だ。天河が入社する数年前から行っている。  社内で新しい電化製品の案を募って年末にプレゼン大会を行い、直後に大賞が発表される。年度末までに社長の審査も通れば、来年度に商品化を目指して動き出すというものだ。  実際に新商品を開発するためというよりは、社内のお祭り的な要素が大きい。けれど個人で表彰、評価されるし、今までになかったような賞品の開発ができるので、一部の人間は毎年このイベントに大きな熱意を傾けていた。  営業課として関わるのは商品化後のことなので、社内コンペの情報はふーん、と流す程度にしか気にしない。 「杉石先輩」 「お、久しぶり」  一時期営業課で研修を受けていた後輩が、ひょっこりと視界に顔を出してきた。今年からの試みで、一年目の社員から数人を各部署に短期間研修させることになっていて、営業課に来たときは天河がメインで教えていた。小柄で人懐っこい。こうしてよく視界に入り込んで来るが、慣れているので驚きはしない。研修期間はもう終わっていて、正式な配属が少し前に発表されていた。その配属先を思い出し、「あ」と声を上げる。 「佐々木、お前、開発課になったんだっけ?」 「はい、そうですけど」  社内コンペで、メインとなる部署だった。 「これ、出るの?」 「これ?」  天河が指したポスターに視線を移動し、佐々木は「まさか」と頭を振る。 「俺一年目ですよ? まぁ、話になんなきゃ書類審査の段階で落とされるだけだからやってみてもいいとは言われましたけど」 「毎年ウケ狙いかって感じの迷走したプレゼンが一つはあるし、参加する分には問題ないと思うぞ」  去年の一例を挙げ、ひとしきり笑い合ってからそれぞれのフロアに戻った。  昼休みの残り時間を使い、社内のデータベースから最新のコーヒーメーカーの資料を検索する。もし近々新商品が出るのならそれも選択肢に入れようと思ったけれど、その情報はない。他社商品にも変化がないことを確認して、それぞれの機能比較一覧をプリントアウトした。  もし新しい情報があるようなら、開発課に顔を出すつもりでいたけれど、これなら天河でも十分役に立てそうだ。  スマートフォンを開くと、蛍から今週末OKと返信が来ていた。

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