見出し画像

数学嫌い(興味なし)の理由に気づいた話 ~文系と理系とどちらでもない人~


人間には三種類の人がいる。文系と理系とどちらでもない人である。人間としての立ち位置、スタンスの違いがわかったので整理しようと思う。文系と理系選びの時に、こういう話を聞いておきたかった。数学が得意苦手とか、そんな話で選んではいけないのだ。




三種類の説明

文系とは

人間にとっての理想状態、人間の過去や先、人間とは何者か。どこに向かうのか。天国とは。そういう人間にとっての幸福や完全状態を模索する思考方法を選択する人が文系である。

完全状態を定義してから、それに向かって進む道を考える、そこに近づく道具や方法を考え出す。演繹的というか、上から降りてくるのが文系であり、人間とは?どういきるか?という人間を主眼に置く考え方をついついしてしまう。



理系とは

今目の前にある道具や方法や手段やらの改良、開発にだけ、興味を持つ人のことだ。そこに人間とは?何か?という視点は乏しい。しかし裏を返せば、そのものだけに興味をもって余計な視点や雑念がないので、自らの進む道とやるべきことがはっきりしている。

今よりも切れ味のよい包丁を作る!みたいなもので、道具があれば便利になって人間の暮らしもよくなるだろ的な、下から積み上げていく思考方法をするともいえる。つまり新しい発見やら何やらはそれだけで人類のプラスになるだろ的な。科学者研究者は、そうして新しい手段や発見や道具を我々に提供してくれるわけだが、その切れ味の良い包丁は時に誤った使われ方をしたりもする。使い方を決めたりうまく用いるのが文系の役割というわけだ。




どちらでもない人

自分の肉慾のみの人。人間や人類とはとかどうてもいい、自分だけの人。快楽や日々の平穏だけを求める日和見者。当然探究心や好奇心に乏しいので、自分にとっての身体的な快にだけ反応する。理系には向いてないので、とりあえず文系が望ましいと思う。





終わりに

文系思考方法だが、理系で活躍する人もいると思う。人類が幸せになるには、丸々という道具が必要だ!今ないなら、私が作り出してやる!というような、文系の人が必要性を感じ実践を行う際には、理系の人がしているある道具や手段やらの改良開発と同じ構図になるからだ。一方で、理系は結果として文系的貢献をみせることはあっても、思考も行動も理系は理系だろう。

というわけで道具や手段の開発自体には興味がないので、私はそれを突き詰める理系的学問には興味がもてなくて、苦手意識や嫌い感があった。数学嫌いの理由がようやくひもとけた話。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?