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シンプリスト(ミニマリスト)の憂鬱。ちゃんとした大人になりたい葛藤と克服

自分をシンプリストだと思っている。何故か、

生活は自分の求めるシンプルでいい。基準が満たされていれば幸せ。

小欲知足。充足を知れば幸せになる。求めることに際限がないなら、永遠に幸せ(満足)に到着できないから。

愛着。充足するには今の環境やモノを愛せばいい。愛着を持てばいい。あるものを重宝すればいい。

耐久性。愛着を持ち続けるには、それがそれであり続けないといけない。最低機能の維持耐久性がないといけない。維持耐久性はシンプルさに宿る。

最低機能。それがそれであり続ける最低機能を有していれば愛せるし、それが充分過ぎる愛着の理由になる。逆説的に、最低機能以上を欲しがることが、将来自分の首を絞めることがわかっているので、最初から高い最低機能を求めない。物欲に乏しく見える。省エネに見える。上昇志向がなくみえる。

無駄。身の丈に合わないこと、分不相応なこと、十分を過ぎている世の中の全てが無駄に思えて、最低以上を求める人の欲が、無駄や浪費や歪やらの産物に思えて我慢ならない。ねじれしわ寄せがあるようにしか思えない。理解できない。一人乗りが多いファミリカーとか。街中SUVやランクルとか。いらんだろそんなん。



と、ここまでが今の自分を構成する考え方生き方だと思う。世にいうシンプリストとは、若干毛並みが違うのかもしれない。表面的にシンプリストに見えるだけかもしれない。ただ根底にあるのは、永遠(循環型社会)で、平穏で、がつがつしなくても、そこそこ労働で十分見合うだけの余暇や生活や自由が保障されている世界なのだと思う。以下から本題。




シンプリストの憂鬱

それっぽいことを言っても実際現実問題、目の前には、ただのボロボロよれよれの○年物の古着セーターを着ている男、傷つきの軽自動車に乗っている男、アクセも時計もかばんも持たない男がいる訳です。みずぼらしい、ちゃんとしているように見えない大人がいる訳です。

まだ10代や20代であれば、やれスタイルや生き方だ。お金も時間もないあるのは夢だけのキラキラだ。世間を知らない若さだ等々。尖っていても誰も咎めず、また若さや勢いで誤魔化せていたり、許容されていた部分もあると思う。

厄介なのは、30代。お金や時間があるのになんでしないの?? もう良い年なんだから。見てて恥ずかしいから新しいの買って。ちゃんとした大人という社会の最低像と、自分の許容ラインとのせめぎ合いが続く。冠婚葬祭用レンタルスーツとか、旅行用の大きいレンタカーとか、その場しのぎのケースなら、必要性もあるし社会の最低像を無理に逸脱する気はない。でも、本当に必要ならその時はなんとかするできるが、ますます普段は自分基準を押し通してしまう理由になる。

結婚をして子供も二人できて、ますます社会の目にさらされる機会が増えていくのに、逆に結婚して子育ても共闘した奥さんとの相互理解から、今の自分を十分に受け入れてもらってしまったので、見栄や虚栄や飾る必要が薄くなり、自分基準を押し通してしまう理由になる。




ちゃんとした大人になりたいけど、無理だ。

新築の家。カーポートには旦那の大きめファミリーカー。もう一台が奥さんの軽。新しくて小奇麗なベビーカーにのる赤ちゃん。キャラクターグッズやもしもの時道具が沢山詰め込んである。中年こぎれいおっさんか、まだまだ若いつもりのがっつり刈り上げフェードヘアのイケイケお父さんだったり。

そういうちゃんとした大人になりたいけど、やっぱりどう考えても無理だ。

亡くなった祖父母の家(そこそこ住める家)や、空き家問題もあって家なんか余るんだから、新築の家を建てるつもりが薄い。ショートボードが車内積みできれば、別にいい。だから助手席の頭置きが外せる軽自動車で十分。子供が大きくなればその時に考えればいい。服装がみずぼらしいお父さんでいい。喉が渇いたときのお茶だけで十分。多少雨に濡れたって泥で汚れたっていいじゃん。

多少の折り合いやせめぎ合いで、ちゃんとした路線によったりすることはあるんだろうけれど、皆が実践しているちゃんとしたには到底辿り着きそうにない。これは・・・無理だ。どう考えてもちゃんとした大人になる絵が思いつかない。だってなりたくないのだし、なれないのだから。




甲子園中継で、キラキラ青春を夢見るようなもの

書き出してみて気持ちの整理がついた。外見や持ち物や家や車やらで、ちゃんとしたお父さんに見られないような気がして、なにか自分がおかしいとかかわらなきゃいけないような憂鬱があった。自分一人ならまだしも、子供の手前、なおさらちゃんとしなきゃかなと思っていた。

でも、やっぱりなれないものはなれない。甲子園中継でキラキラ青春を夢見るようなものだ。恋愛ドラマをみて、あんな風に男女関係を謳歌したいと思うようなものだ。

何かが全然違えば、そういう世界線もあったのかもしれない。体格やセンスや興味関心で、全くそんな道を選ぶことはなかった。でも、隣の芝生は青く見える。ように、ないものねだりをする。ように、1度はあんな日々を過ごしてみたいと頭をよぎるのである。ちゃんとした大人という生活やライフスタイルも私にしてみれば、全く同じものだ。違いすぎるから少し理解不能で興味を惹かれ少し憧れもするけど、私とは別世界の生き物なのだ。




終わりに

学校の授業参観で子供の両親が並んだ時、一番若い(若そうに見える)お父さんから、一番老けたお父さんまで並び替えられるだろう。オシャレでも、お金持ってそうでも、格好いいでも。背が高いでも低いでも。基準はなんでもいい。

自分が若いに入ることもあれば、若いけどダサいやお金もってなそうに入ることもあるだろうし。逆に派手でダサいとか今風じゃないとかまぁ、色々な分類や立場になることも考えられる。

ちゃんとした大人というのもそんな基準の1つで、皆が考える平均像を指しているだけなのだと思う。無難でそこそこなまともさだ。まぁ誰しも一番両端にたって良い目立ちや悪目立ちをしたくない気持ちはわかる。でも、両端に立ってしまったからといってなんなのだろう。違う基準で並びかえればそんなものすぐに違う順番になるし、人からそう見えることと実態は違うし。実態が本当にそうであっても、その実態から受け取るメッセージも人により真逆にもなる。清貧と尊敬される場合もあれば貧乏と揶揄されることもあるのだ。

子供ができて、将来パパ友、ママ友とかそういう付き合いができてきたとき、そして子供がそういう中でちゃんとしていない大人の子供みたいにみられることに不安や憂鬱があったのだが、杞憂だし、ちゃんとなれないのに無理してもしょうがないと思った。

パパの人より少し変わったありのままを見て育って、思春期を迎えるころには、部分賛成や反発や別意見をいつしか持っていて、時には、君に批判される。ただそれだけで、それで十分すぎる。

人より小難しく複雑に考えて考えこむくせに、出す答えはシンプルで、シンプリストを名乗るという不思議。人間や人格とは本当に不思議。


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