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偽善とは何か?

辞書で調べてみると、「本心からではなく、見せ掛けでする善」のことを言うらしい。

でも、僕はこの定義を疑問に思う。
そもそも、人間の本心には、善も悪も混在しているわけで、何かのことを考えるとき、そのことに対して、善なる感情、悪なる感情、双方湧き上がってくることは実はほとんどのことに言えるんじゃないだろうか?
たとえば親のことを思うとき、僕は憎む気持ちと愛する気持ちがある。でもそれはいたって健全な反応であると思う。

何か善的なことをいっていたり、やっていたりする人のことを、あの人は、偽善的だとか、偽善者だとかいう人達がいる。
僕が不思議でたまらないのは、彼らの解釈が、人間の本性は悪である、という性悪説から出発していること。
僕はさっきも言ったように、たとえ犯罪者であれ、悪の本心と善の本心を両方持っていると思う。この世に善の心を持たない人間なんているだろうか?それは悪の心を持たない人間がいるというのと同じくらいまずありえない。
だから、善的なことをする人に対して、偽善者が成り立つなら、当然、善的な本心とは違う悪の行動をする偽悪者というのも成り立つことになる。そして、善悪両方の感情を持つ我々人類は、偽善者であり、かつ偽悪者であるということになる。なぜなら、善的な行為を悪の本心を隠してする偽善だからと、偽善者であることを止めて、悪に走れば、それは善の本心を隠した偽悪者にならざるをえないことになるからだ。だとしたら、偽善者であるとか、偽悪者であるとかいった区別は、まったく無意味ということになる。

性悪説に立つ人たちは、偽善者という言葉を軽蔑の意味合いで使うけど、もし本心と違うことのみがその軽蔑の理由であるのなら、その人たちの取っている態度は善を憎み、言っていることは悪になれといっていることになる。悪が人間の本心だから、それを偽って善行をする奴は悪で軽蔑に値する、という理屈になる。どう考えても納得できない。仮にもし彼らが、性悪説に立っているわけではないというなら、同じように偽悪者も軽蔑しなければならないはずだ。しかしこれはこれで大いなる矛盾である。なぜなら自分自身を軽蔑していることになるのだから。
故にこの偽善の概念は間違っているのではないか?

僕はこう思う。人間は何かの行動をするとき、その対象物、概念、行動に対して沸き起こる善悪の本心のうち、どちらかを選んで行動しているのだと。
友人の幸せを祝福している最中に、心のどこかで、友人のことを妬んだりする心があったからといって、自分は偽善者であると苦しむ必要はない。なぜなら友達を祝福したいという気持ちも紛れもない本心のはずであり、友人を祝福しているという行動をしている点で、その人は、本心の善の部分を選択し実行したということであり、それは偽善ではなく、「善」である。悪の心に打ち勝った善である。悪の心は、自らの心の中で燻ることくらいの抵抗しかできていないのだから。

また、こうも思う。たとえ自らの利己心、何かの見返りを期待して行なった善行であっても、それが他人に有益で正しいことに疑いがない限り、それは偽善ではなく善である。その利己心を内心に留めている限り、また何らかの醜い悪の心がどんなに跋扈していようが、それが外部に発露しない限り、行動において彼は善の本心、行動を優先させた善者なのである。

人間の内心には、善も悪もある。だからその時点では、人間は善者でも悪者でもない。問題は、そういう思念が浮かんだとき、どちらを優先させるか、選択するか、どちらであろうと努力するかによって、内部においては、自己に対して善者か悪者になり、外部においては、意思を発露させ、また行動に移した時点で、人は自らの意志で、自らと、他者に対して善者か悪者に別れるのだ。

では偽善とはどういうことをいうのか?
・利己心で善行を行なった後、その利己心を相手に強要し、善行を餌に自らの至福を肥やそうとすること。
・ある所で善行を行ないながら、他所では正反対の悪行をすること。
・自分に適応させた善の論理を他人には当てはめないこと。
これらの事を僕は偽善だと考えている。

ただ、これらの事は、多かれ少なかれ、自覚的にしろ無自覚的にしろ、皆、行ったことのある、経験したことのあることだと思う。そういう意味で、やはり人間は皆、偽善者だと言えるかもしれない。
(また、この場合に偽悪者を定義するとすれば、そのまま偽善者を逆の立場から見た名称であり、意味合いを同じくする。)

しかし、重要なのは、偽善は善を含むということである。
偽善を嫌い善行をしない人間は善を生まない、悪行を行なうものは悪者であるが、悪行をしなくとも、善を厭い行動をしないという事は、行動しないという行動をしているのであり、やはり悪の本心を優先させているという意味で、偽善者のほうが善であると思う。

人間は、完全な善者にはなれないだろうが、意識的な偽善を排除し、無意識の偽善に気づこうと努力する偽善者ではいられるし、それが人間のなしうる最大の善であると思う。その次に、善者になる努力をしない偽善者=偽悪者、その次に性悪説を信じ、偽善でいるよりはこちらのほうがマシだと錯覚して開き直った、偽善を厭う悪者がおり、最後に自覚的な悪者がくる。

故に、善的なことを行なっている人が、偽善だとか、偽善的だとか非難されるにはそれ相応の行動としてあらわれている悪行の証拠が必要であり、それを批判できるとしたら、それは努力しつづける偽善者しかいない。
少なくとも、開き直った悪者でいるよりは、努力しつづける偽善者でいたほうが、自分も、まわりも益があるし、できれば僕もそういう偽善者でありたいと思っている。

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