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そうよ? またこの話よ?

知り合いのブログに「友だちというのは“お互いの”好意で成り立つものだから」と書いてあるのを見て、そうか!と思った。

私は、ひとの素敵なところに感動するとそのことを言わずにはおれない。でも、自分で感動していないところを相手との関係を有利に働かせるために褒めることはしない(よう、かたく決意した。2年前くらいの話だ)。
しかし、あくまでさわやかにクラフトビールなどに誘われて「さあ、わたしのここを褒めてください、張り切ってどうぞ」というのが結構あるのだ。あなた、そのために呼んだね?というようなこと。
マイクをこちらに向けて「セイセイ」とあおる相手。ぐっとこぶしを握りしめ黙るわたし。「らに子ちゃんはこういうの昔から苦手だよね?わたしは得意で。ここはあなたにすごいって言われたこともあると思うけど」と自ら歌いだす相手。黙っておかわりを頼むわたし。心の中で「褒め役として呼ばれたわけじゃないんだよね?」と悲しい期待をしながら。

帰り際「らに子ちゃんに会ったら希望が見えるかと思ったのに、全然だったわ!」と言われたことが、2週間たってもまだショックなのである。そういうことはTwitterとかに書けばいいじゃん…涙

がつがつと中野のゆきだるまでジンギスカンを食べながらそのことを夫に言ってみた(ここでジンギスカンたらふく食べても、翌日体重は落ちます。ラム肉って素敵にゼロカロリー)夫の答えはこうだった。

自分ができないことを「すごいですねぇ」って相手を見あげて言ったらつけあがるだろう。自分に自信がないとき、らによりは上だって思うために使われることだってあるだろう。自分の方が相手より上手に確実にできることで褒めなさいよ。

さすがの性悪説である。
でもわたし後輩指導以外でそれできないかもしれないと思った。自分にできないことが多すぎて、それをさくっとやる人(それが得意な人)だから感動しているのである。それをただ「ありがとうね」と受けてくれる人と、その言葉がぐるぐる頭の中を巡って次の会話を聞いていない人がいるんだなあ、と思う。わたしが言ったことを思い出して「状況も何もあの頃と違うけどまたあれ聞こうっと」と思う人がいるんだなと。それが続くと、悲しくなってしまう自分がいるんだなと。(じゃんじゃん褒めたったらいい!と頭では思うのだ。でも発言をコントロールされるのが非常にいやなのです…)

冒頭に戻って「友だちというのは“お互いの”好意で成り立つもの」。わたしの方に好意がなかったら、その人とは友だちじゃなくなっていいんだ。
そこにちょっとびっくりしているのである。


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