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さよならミヨコ

祖母が99歳で亡くなった。
認知もなく家で暮らしていたが、6月に誤嚥性肺炎を起こして施設に入所し、帰ってこなかった。コロナ対応でリモート面会をしたとき、あまり声が聞こえないみたいだったからパワポに文字を書いて紙芝居のように出した。祖母はそれを見てうなずいたり「だいじょうぶ」「みんなやさしい」と言ったりした。
死因は「老衰」だった。
 
危篤の知らせを聞いてかけつけて(道中に亡くなった)施設のベッドで死にたての祖母をみたとき

 おばあちゃーん!かわいそうにー!
 
と思って、わーわー泣いてしまった。
日頃「らに子はきっと親が死んでも笑ってる」と母に言われている私なので(そんなこと言います?)まわりもちょっと引いていたのかもしれなくて、ドラマでよくあるように、泣いている私の背中をなでたり肩を抱いてくれる人はおらず単独・棒立ちで泣き続けた。
寂しいより前に、ぎゅっと固く小さく体を丸めて死んでいた祖母がかわいそうで悲しかった。私は、老衰って、少しずつ弱っていって眠るように亡くなるのかと思っていたのだ。甘かった。施設に入ってからの祖母は階段を2、3段ずつ転がり落ちるように負けていくというか、「心臓が」「血管が」「呼吸が」とどんどん危険な部分が増えていって、向こうに無理やり連れて行かれてしまったように感じた。「もういい歳だからね」と思っていたのは私たち側だけで、祖母はまだ生きる気だった(とおもう)。

 
施設に入ったばかりの頃、母が、祖母と母が入信している宗教施設の
祭壇写真を写真立てに入れて持っていった。
「おばあちゃん、祭壇よ。ここにおいておけば、教会に行けなくても大丈夫!」と言った母に祖母は、写真をちらと見て「いらねぇ。」と言った。
母は祖母が理解していないのかと思って「おばあちゃん、これ、祭壇よ。S教会の」と声を大きくしてもう一度言った。「持って帰って」と、祖母は言った。母は納得して言った。「もうおばあちゃんは、モノはなにもいらないのね。」と。心の中に全部あるのよね。と。
次に施設に行ったとき、部屋には造花や国からもらった長寿祝いの賞状、ぬいぐるみなどが飾ってあり、祖母が、部屋に色がなくて寂しいからなにか置いてほしいと言っていたと聞いた。
なんか、宗教の限界を感じたね。言わなかったけど。
 
祖母がいない寂しさは翌日以降に小走りでやってきて、お風呂で泣きコンビニで泣き夜中に起きて泣き、私はしばらく泣き女となった。
5月までは庭でBBQをする私たちを眺め、「お肉食べてみる?」と持っていったら7枚食べたりしていたのに(それはちょっと食べ過ぎだよミヨコ)。
「天国にいちばん近い女」っていうキャッチコピーつけてあげたら無視したりしてたのに。
デイサービスでモテるとおじいさんふたりに囲まれた写真を見せてきたから「3人目のおじいさんにしか見えない」と言ったら若い頃斎藤清六をテレビで見たときのように爆笑したりしてたのに。(笑いのツボ、は?)
ほんとにいなくなるなんて〜。
 
 
で、お通夜&葬儀である。
母と離婚した父もかけつけ(父は葬儀代を半分もったそうだ)、家族葬で温かく送ろうじゃないかと思っていた。私が実家に到着した時、庭で父と母が並んで立って笑っていた。「いま、お父さんが芝を刈ってくれたの」と母が言って「腰が痛いよ」と父が言った。ちょっとびっくりした。なんか私初めて見た気がする、こんな絵。おばあちゃんが、家族仲良くねって言ってくれてるんだろうねぇ…。などと思った私はやっぱり本当に甘い。甘くてゆるい。もうみんな私のことプッチンプリンって呼べばいいYO。
 
通夜の前日、祖母送別イベントとまったく関係ないところで父が妹の発言にキレ、母に怒鳴り、母は私たちに父が怒った理由を分析して語り(不正解だった。お立ちいただきたい。逆になんでわからないのか)だめだこりゃと仲裁に入った私に妹が怒り出した。世界大戦って、こういうふうにはじまるのかも、と思った。
葬儀が終わるや否や父は荷物をまとめて帰り、暗い雰囲気のなか残った人たちで行った焼肉屋で母と妹は父の悪口を言いまくり、私の意見を聞かれたのでまた同じことを言ったら妹が怒り、お姉ちゃんはひどいと泣き出し(もう、罠じゃん。聞かれたから言ったのに)気まずく家に帰り、いまに至る。
 
なんていうか、おばあちゃん、私合わんわ、あの人ら。
 


ベッドの横に貼ってあった。嬉しかったんだな。

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