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私がすきになる人は。

簡単には振り向いてくれない人ばかりです。
なんなら、こちらも振り向いて欲しいなんて素振りは見せず、他の人よりは仲良しかもしれないね、なんて風を装っています。
装っている、というより、それくらいの方がいいのです。

愛する、といういうことは、こちらから発するものなので、自分が注ぎたいだけ注ぎたければ注げばいいし、でも、疲れて減らそうと思えば減らせるわけです。
愛の量のイニシアチブは、常に自分にあるのです。

振り向いて欲しいとは、見せず、愛を注いでいるのです。
注いでいることに気づいていたとしても、振り向く必要はないので、なぜ、注がれているのか、相手からすると不思議かもしれません。

私とあおちゃんやそうやくんの関係は、ファンとアスリートの関係なので、彼らはひたすら愛を注がれてなんぼ、振り向く必要もないのです。
注ぐことが生きがいなのであれば、ここに注ぐのが、あれこれなくていいかもしれません。

何も無い?ないわけないですが、振り向いてくれて、こちらに愛を注いでくれる人のほうがもっと大変。
私の意志とは無関係に愛を注いで来るので、飽和状態の時もあれば、まったく足らない時もある。
愛されるイコール満たされるというわけでもなく、愛されるためには愛されるだけの「努力」も必要なのですから、愛を注がれることに慣れてしまうと、それがなくなることの怖さが付きまとうようになります。

故に私は愛するより愛される方が難しいと思っています。

だから、私が愛する人たちへ、簡単に振り向いちゃダメなんですよ。
振り向かれたら、その愛に応えなければならない。
愛をそのまま、浴び続ける事がとても怖い。
この愛に溺れてしまいたいけれど、若しかするとこの愛はすぐに枯れてしまうかもしれない。

普遍的に愛される人や物や歌や世界中のあらゆる物がありますよね。
魅力、愛される力を持っている、すごいなぁと思うのです。
その、愛される力が備わっている人達が、私は、アスリートなり俳優なり歌手なり、人から必要とされる人になるんだなと思います。

元々愛される素養を持った人が愛される努力をする、
みんなを愛する幸せに浸らせてくれる。

そう、「愛する幸せ」を与えてくれる。
これは才能ですよね。
うらやましいなぁ。
溺れずにうまく泳ぎきりたい。

愛の海を。

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