生かす仕事

この前、愛媛に行って原裕太郎くんに会ってきました。
アキレス腱断裂の大怪我から復帰した後、今度は、骨折をしてまた離脱していたのです。
それでも彼は、いつも笑顔で自分の境遇を恨む顔は見せずにいてくれるのです。

サッカー選手としては、ほとんど試合に出ていないのです。
ですが、彼が選手を続けていることで生かされている人(自分)が居ることに気がついたのです。

それは、彼を励ますつもりで書いた手紙だったのです。
「あなたがサッカーをしていることで誰かの生死に関わることは、ありません。
でも、あなたががんばる姿を見ようとすることで、明日を生きようとする人がいる、そういう人のためにある仕事なんですね。」

こう書いたことを後で思い返していました。
たしかにそうなのだけど、本当に明日を生きるためにサッカーを見て応援してるのか?と、考え直してみたのです。

3年前にうつ病を発症し、その間も仕事にも行きサッカーにも行っていました。
ですが、どこかでいつ人生が終わってもいい感覚があり、何事にもとことん楽しむことができない時期がありました。

ふと、最近、生きていることが当たり前になってきました。
楽しい!と、感じることも増えてきました。
ふと、なぜ?と、思ったのです。
あれだけ、終わってもいいと思っていたのに。

終わらせると戻ることはできません。
ついつい人が死ぬことに敏感になってしまったせいか、死んだら何がおこるんだろうと思ったりしていたのですが、死ぬと何もなくなるわけですよね。
明日、は、なくなり、明日誰かと会うことありませんし、明日なにかおいしいものを食べることもなく、明日誰かに期待したり、明日のサンフレッチェを見ることも、その時点で自分の人生から消えてしまうのです。

消えてしまう、と思うと、それは、ちょっと、という、しかし割と軽い気持ちで、去年は、いつ初勝利するのか、いつ勝つのか、残留するのか、と、思いながら通っていました。
次は、と思うと次の試合まで生きてないとならない理由が生まれるのです。
今年は、勝ち続けるし、その理由が知りたいしで、1試合たりとも目が離せません。

生きて試合に行くことで明日を生かされていることに気がついたのです。

これは、明日の朝のおいしいごはんでもいいんです。
明日、なにをするか、ということがひとつでもあればいいし、生きるためとかいうほど、大げさなものでもないわけです。

でも、サンフレッチェがあるから、というのは、私にとって大きな理由だったのかもしれません。
私以外の人にとっても明日を暮らしていくための希望でもあると思ったのです。

そう思うとこの世にスポーツ観戦という「娯楽」がある事実。
そういう仕事があるということ、その仕事の意味。
そして、それに救われていた自分に気がつくことができました。
大げさですが、大真面目にサッカーを仕事としている人たちがいるんですから、大げさなくらい意味があるんですよ、という、オチ?にしたいと思います。

思えば原爆の惨禍から立ち直ることができたのはカープのおかげ、というのも簡単な話じゃないわけです。
漠然と、そうね、スポーツは、励みになるわね、くらいに思っていましたが、サンフレッチェが明日勝てるのか、カープの明日の先発は?とか、ということが気になる、気にさせることが、もしかすると球団の存在意義なのかもしれません。

好きな野球を好きなサッカーをしている、それは、素晴らしい仕事だと、思ってくれたらとても嬉しい限りです。

がんばれ、裕太郎くん。


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