人を動かすオブジェクトとは

脱構築っていう言葉が哲学の世界にあるのですけど、意味合いがよくわからないのよね、って説明を求める時。その説明や説得はなんらかの論理的構造物を構築していないか?という死神が背後に現れて、そういう作り物をやめようっていうことなんじゃないかなと思う。

昔ニコニコ生放送で弾き語りしていたら、お前のギターはすごい!俺はプロの人間だ。お前のリアルはなんだ?と主張する人が現れたことがある。そのとき"リアル"について問われて、なんのこと?!ってなったけど、たぶんそういう言葉を使う界隈みたいなものがあって、どんな音楽が好きなのかって聞かれていたんだと思う。

構築よりもリアルってことなんじゃないかなぁ。脱構築って。

私側からしたら、そんなリアルなんて言葉を使う界隈の人はバーチャルに見える。なにか界隈に囲まれて、そこに住んで、そこの子になって。はたから見たらそれらはバーチャル。その囲いの内側から見たらその場所がリアル。なら、私はどんな囲いの中にいるのか?一切皆空とかいって、真の意味でのリアルなんて一切なく、あらゆるものがバーチャルで、それぞれがなんらかのバーチャルの囲いの中で生きていて、自分近傍10m,10km,100kmをリアルと思い込んでいる。

そこで脱構築のモチベーションに立ち返ると、構築行為っていうのは囲いを作ってその囲いの内側をバーチャルからリアルへ認識しなおす行為で、もちろんそれをやってもいいし、他方、それを不毛だとしたならあなたは何をする?というところでもある。

すぐさま、
"囲いを作らないという囲いになっていないか?という無限後退"
に陥る。

これは風さんのよく歌っている"手放す"行為にも当てはまる。
"手放す"にすがり付いていないか?

何かを言うことが囲いを作っていて、"囲いを作ることをやめよう"と言う囲いが自己言及のパラドックスになっている。これを起こしてしまう原因はね、視座が高すぎることにあるのです。見えてもいない遠くまで見えているつもりになっていることにある。数学のように、客観的に、なれている気になってしまっている。宇宙の創造神の気持ちになってしまっている。外側に立っているつもりになってることが原因。自己言及の"自己"の部分がとても小さくなんの影響もないものなのに、世界全体を指し示しているつもりになってるのが原因。

僕らは集合論の登場人物ではない。なんらかの集合の要素ではない。ぼくらの喋ることも、何にも囲われないただ一つのもの。あわぶく。川を流れるうたかた。気が付かないほど大きな流れに沿って、勝手に流されていく。それを不安に思う人もいる。コントロールしたいと足掻く人がいる。そして必ず失敗する。では成功パターンってどんな状況?それはね。勝手にバトンが繋がっていくもの、音楽文化なんかわかりやすいんじゃない?100年前にアメリカで隆盛を誇ったブルースという音楽ジャンル特有のブルーノートという音程やブルース進行という和音進行が今でも残り続けているのは、一人が構築した構造物でなくて、勝手にバトンが繋がっていった、いわばなりゆきの結果でしょ?

だからね。一切架空の一切皆空で虚無主義なんじゃなくって、自分がいいと思ったことをやる、バトンを受け取る、それらが勝手に引き継がれて、変化しながら永久に残る"オブジェクト"そのアーカイブサーバーの保守業務が、なりゆきっていうことなんじゃないかと。ブルースオブジェクトを、これいいね!って思えるのは、構築された論理的説得なんかじゃなくて、いいものはいいっていう同語反復な説明なんだ。それをそれでも説明しようとするなら、スピリチュアルオブジェクトを持ち出して、魂の話をすることになる。リアルより、ソウルのほうがいいね。

この文章を読んで、
説得されました?
それとも、これいいね!って思った?

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