うたかたの構造物

きたかみさんは楽譜の人だと認識されている。
事実そうではあるけれどそれは一部分で、きたかみさん本体はいろいろ。
そして最近楽譜の動画はなかなか出てこない。

細胞壁や、コミュニティの規範、材の接合部分について、
うまくいってる状態のことを哲学している。
物理でなく物理化学、有機化学で、昔から有機化学は嫌いだっった。
パターンが多すぎて、煩雑で、これといった法則性や統一的視点のようなものを持てないから、有機化学には触れたくなかった。
しかし、自然農法、共生農法、環境のカオスのもたらす動的平衡、柔軟な冗長性?それは鋳造で家を作るような考え方ではなく、作ること自体の解体し、解釈の側から再構成して、やっと構造物へ辿り着くような道のり。
長く残るものは、今あるものの動的平衡に沿うということだ。波打ち際に絵を描くような儚い人の夢、足掻きも、それはそれでよいし、なんでもそれ以上のことはできないともいえる。でも、波を認識できているなら、満ち引きのない場所に絵を描けば良いし、また、波の満ち引きを見て満足することもできる。

きたかみさんの視点から見て、この楽譜動画はよくできたなぁと思ったり、
この動画は古くて未熟な表記をしていると思ったり、きたかみさんの感想はあれど、読まれなければ楽譜はどれも同じで、演奏されなければどれも同じで、どこか知らない誰かが、弾いたことのない和音に出会うことができたのか、否か、それだけが本当の成果で。音楽的ミーム、和音ボイシングの遺伝、CM7もDb7-5(9)も、誰にも所有できない。誰もその和音を演奏しなくなったときにのみ初めてその存在が消滅するような、演奏行為の動的平衡状態として、コードシンボルやピアノボイシングがある。

行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、
久しく止まりたるためしなし。

何かをする時、何がどうさせている?
自由意志のままに立ち上げた小屋は、
ではそこに小屋がなかったのはなぜ?
なかったから小屋を建てることができたはずで、
そこには波は寄せていない?どうでしょうか。

何かをする時。
何が私を動かしたのか。
それは、私が、打ち寄せた波の側であるのか否か。
カオス的環境の柔軟性の結果として私の活動があるのかしら。
カオスである事と、協力し合う事は、両立できないと思っていた。
協力し合うには秩序が必要だと思っていた。
釘を打って材をつなげるものだと思っていた。
いまでも、愛は負けることだと思っています。

私が許さなくても、負けなくても、愛さなくても。

私のガーデンは私が所有しているわけじゃない。
草花たちは、虫と微生物に覆われて。
主に温度と水分に反応し。
その場所で咲いている。
私は彼らの関係者であれど、支配者ではない。
支配者にはならないように努めています。
その場所で、彼らが"成る"状態を見せてもらっています。
植物の細胞はいわゆる万能細胞で、節が陰陽的な陰ならば発根します。
生きていけない場所はある。
地球上の生きていける場所で咲き、生きていけない場所では、
休眠したり、枯死したりする。
虫やカビやキノコたちに食べられて。
人間は移動できる。生きていける場所に移動できる。
生きていけない場所にいるなら、人間も休眠したり枯死したりする。
それで良いと思う。よどみに浮かぶうたかたも、よどみというのは死に近い環境だ、変化がなくなっていき、固定化したときに死んでしまう。そんな場所に浮かぶ人たちも、よくみると変化に次ぐ変化による動的平衡のすえに、まるでそこに存在しているように見えるものである。

車中泊が流行った。
小さな空間と思うか、
サービスエリアごと我が家と思うか。
結局のところ通貨はなんなのか。
所有しないよう、支配しないよう、
それでも協力し合うために。
楽譜の動画を置いておけば、
私は誰も支配せず、誰にも支配されずに、
カオスのままにして誰かを助けられる。
他の果実もつけたいと、楽譜を実らせるのを遅らせて、
材と接合部のことを考える。

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