あいむらさき 考

まず、なぜこの記事を書いているのか、から。
わたくしきたかみさんとしては、あらゆる人間が作家であり、
演奏行為からつぶやき雑談晩御飯まで含めて全て作品であるとして、
過去の偉人が現代にいないのはなぜ?
いるのに気がつかないだけではないの?
どうして故人ばかりを賞賛するのか。
やりたいことや、するべきことは、今すぐできる。
ならば、身近な人、家族、同僚、らを、
文化人類学のフィールドワークのように、
精神科医の臨床のように、さまざまな自分になり、
さまざまな"自分の一面を見せてくれている他者"の作品を、
しっかりと受け取っていきたいと思っています。

学校で歴史を学ぶ場合、石器時代、縄文時代から、曖昧に始まり、
現代史には辿り着きません。
それは現代史は今作っている最中であって、
メタであるべき歴史書や教育自体が、現代に対して影響を与えてしまうからです。
もっというと、人類への麻酔をメタ認知されると、
事件が起きてしまうからです。

大きな事件がいくつもありました。
その多くは、直接的な関係の薄い人が命を落としてしまう類のものです。
事件が頻発すると、社会はどのように変化すると思いますか?
互いを縛り、監視し合うようになり、
すこしでも汚いもの、形の違うものは排除される世界になります。
論理や、損得、コンフォートゾーンを守りたい、
常識は人の心の形とは真逆へとアップデートされていきます。

このように記述すると、一つの社会を想像してしまいますが、
存在するのは多種多様な人間や組織や施設、
美術系の大学や、その周辺に位置する人ならよくわかると思うのですが、
端的に言ってぶっ飛んでる環境や空間も、しっかりと存在します。

"あいむらさき"コンテンツに限らず、素直であろうとした作品は、
社会性から逸脱し個人的なものになります。素直である、自分を見つめる、
さまざまな自分を見つけて、幼稚園の先生のように
自分たちを余さず抱きしめて回るような"あいむらさき"コンテンツは、
その背中を見せるということ、
あらゆるモデルケースになるということ、
生きられているし、生きられていくであろうし、
生きられるのならばそれは希望でしょう?
と言っているような気がします。

あいむらさきさん曰く、すべて自分のための行動であると。
それは、今までの、社会性の仮面や
人形としての自分からの反動だと言っています。
しかし本当に自分のためだけなのだとしたら、発信することもないし、
器用に自分のために自分を生きながらえさせていくはず。
背中を見せたり、奇跡を起こしたり、モデルケースになったりするのは、
前述の社会からの逸脱が起こした大きな事件たちとは異なり、
誰にも身体的精神的危害を与えず、
見た人が安心したり、気がついたり、
言葉にならない何かがその人へ届いたりすることを願った、
祈りだと言えると思います。

まるでドキュメンタリー番組のように、不完全なまま完全で、
演奏作品として記録されるあいむらさきコンテンツ。
同じ歌詞でも同じ人でも、同じ演奏作品には決してならない。
むしろ歌詞の解釈が逆転して、過去の自分を抱擁する。
ではその、様々な自分を抱擁する"自分"は一体何なのでしょうか?
過去の重要な決断をした時に、二択の片方を選ぶ選択権、
どちらが深くてどちらが浅いのか、それを決めた、
その"自分"は一体誰なんでしょうか。

スピリチュアル的にはハイヤーセルフと名付けられていると思います。
きたかみさん的には"占い力"
あいむらさきコンテンツでいう、幼稚園の先生側の自己は、
幼稚園児側の演奏作品よりも、生々しさがなく、
生身の自分とは距離のある、神様のように表現されます。
谷底へ飛び降りるような選択を平然とする神自己と、
足がすくんで動かない自分。

自分の操縦を、社会性機械に任せていたら
体が悲鳴をあげ、削られ、耐えられなくなり、
その"社会"というものから、地方や離島は外側に位置していて、
場所が、環境が変化すると容易に消えてしまうものがあり、
それでも残るものがあり。
旅によって日本の各地の人間と直で見聞きふれあい、
土地の空気、足袋から感じる大地、
比較人類学?フィールドワークをしていないきたかみさんには
得られないものを受け取り、
"大丈夫"って言い切れるようになった"あいむらさき"は
哲学者の呼ぶところの"超人"なのではないかときたかみさんは思うのです。

もう一段深く考えてみましょう。
フィールドワークによって、自身の立つ円盤の移動を行うと、
何かに属する自分を複数持つことができるようになります。
いじめの起きるような環境は、閉鎖的な空間で、
その狭い社会での死が、現実の死と同期してしまいます。
鉢植えで草花を育てていても解る事があります。
地上部が枯れても、季節が変わり、置き場所を変え、
土を入れ替え、鉢を変えてみると、あらたに芽吹き始め、
根っこは生きていたんだと気が付きます。
では枯れてしまいそうな人の心は?

心が叫びたがっている時。"しにたい"が出てきます。
それは錆びた鉄骨の軋みであり、
胸に空いた穴を吹き抜ける風の音であって、
言葉そのままの意味ではないのです。
そのとんでもなく辛い気持ちを持った心に対して、
規範や道徳やコツのようなもの、解決策とか正論のような、
心のない言葉は意味をなしません。
そんな時に自身への臨床医として現れるのが、
幼稚園の先生的自己なんじゃないでしょうか。

とにかくまずは自分から。
自分を救えたなら、他の人にもその真似ができるはず。
そしてもしかしたら、その先に、

一切の暴力性を含まないコミュニケーションとして、
自己が侵されず、他者の自己も侵さずに、
協力しあえる繋がり方、わかちあえる、その接合部のモデルケースも
奇跡みたいな物語と共に、
なんらかの作品として昇華されるのかもしれません。

ありのままでいよう、そして愛し合おう。
きっとできるはずです。手を伸ばし、発信をしましょう
心の通信、何度でも。



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