祈りや死と呪いのパッケージの話

風が吹いていると感じることがある。
今まで同時並行的に存在していた別の時間軸、別の世界線、
別界隈。
こんなのがあったのかと。最初に教えてよね!ってなる。
それには、風が吹かなきゃ気が付かない。
大概インターネットのせいで、インターネットのおかげ。
ただ、そのような、"こんなものが売れるはずないと思っていたものが
実は市場があって、広告宣伝の母数が小さいだけの話だったんだ!
これでいきてゆけるぅ!"
という話でなく。
その先にある、自分由来でかつ、すでに自分の名札が外れた現象のほうに、
愛しさを覚えたら。祈りが届いた気がするし、その次があらざるをえないし。自分の筆跡、筆の跡。名札を外して初めて船外へ手紙は出ていく。
それはすでにあなたのもの、あなたの体験、あなたの時間、
それが私由来であったとしても関係ない状態。
それを愛おしく思えたら、自分から離れたものを愛おしく思えたら。
そうしたらもういなくなっても平気になれる。

お葬式のたびに、死者からなんらかの思いを受け取ろうと、
お心静かに、静粛に?いやいや自律的にね。死者と対峙。
僕はよく草木を植えます。草木はその生命力からして、自律分散的に環境と連帯し、風になります。明治神宮で例祭が行われなくなったとしても、木々は木々を植えた人々の祈りです。四十九日もまるまる回忌も、なくても、死者の名札が外れた僕たちの時間体験感覚は、彼らの祈りの一部です。

生まれてから死ぬまでを切り取って、自意識の檻に囚われ、
この期間とこの意識が自分だとしてしまうと、人生は悲劇です。
ここからここまでとされたものの、補集合のほうに、本体があります。
名札が外れてからが、初めてそこがバースデイなのです。
アドリブのタスキを受け取るようなものかしら?
自分自分となってしまうと不連続になります。
そのようなパッケージを作るのが言葉や信念であり、
呪いです。これはもちろん、良い悪いではありません。
信念や信心深さ、顔のないハックやルール、何色で引いたとしても
これらは線で、切り分け分類するもので、メタ的なレイヤー生成をしその上に新しく解釈を創造するものです。
言葉によるアプローチではこのように、なんらかの信仰が付き纏ってしまいます。そのアンチとして、無神論者、無心論者になろうとしても同じことです。呪いを呪いと把握するくらいしかできることはありません。

そこで、ならば他にどのようなことができようか?と思う方は、矛盾を忌避しているはずです。一貫性を求めているはず。それをやめましょう。するとどうなるか。時間が流れます。時間とは変化のことです。変化の前後は比較すれば必ず矛盾します。矛盾を認めず一貫性を求めるというのは変化しないということです。大事なことを表現するためには、ない、ない、ない、と否定系でしか語れません。ドーナツの本体で"ない"部分にドーナツの穴があります。あなたの本体は、あなたの心と体の"補集合"の方にあると思うと、自分がいなくなってしまっても平気と思えるし、まだ体を操作できるこの期間のうちに何をするべきかは自ずとわかるはずです。

自分に吹き抜ける風を。
心に川を流しましょう。
お心静かに整列していても。
あなたは誰にも支配されていません。
完全に自由にして、
それでいて完全に全自動です。

そのような空っぽの心で環境変化に力なく流されゆらめく時、
時間は一瞬にしてながれ、目覚めると大量の成果物が、、、
うふふ(’-’*)♪
楽譜でも書きましょうかね。

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