グッピーと金魚

霧雨49号
テーマ「調和」
作者:忍
分類:テーマ作品

「高浜先生、新しいクラスはどうですか」
 高浜修司はデスクで珈琲を飲んでいると、学年主任を担当している加藤道夫に尋ねられた。
「元気な子が多いですね、これからが楽しみです」
「それは良かったです。頑張ってください」
 加藤はにっこりと笑った。「はい、頑張ります」と高浜は答えた。
 高浜はふと職員室の窓の外に目をやった。そこには一本の立派な桜の木がある。初めてこの学校に来た時、とても綺麗に薄桃色の花を咲かせていたのを覚えている。今、目に映る木は花を散らせ、深い緑の衣をまとっている。気付けば、慌ただしい春が過ぎようとしている。
 デスクの上に並べられた生徒たちの自己紹介カードをぱらぱらとめくる。去年の担任から引き継ぎで渡された物だ。もうすでにクラス全員の顔と名前はちゃんと一致している。気になることと言えば、少し私語が多いくらいで、今のところ特に問題は起きていない。
「あ、そうそう。三年生は各クラスで何か生き物を飼うことになっています。今度のホームルームの時間で決めておいてくださいね。と言ってもウサギとかは駄目ですよ。場所がない」
「そうでしたね。分かりました」
 生き物。たしか、小学校の頃はクラスで亀を飼っていた。あれは何でだったかな。命の大切さを学ぶためとかそんな感じだった気がする。何も知らない子どもたちは簡単に残酷になり得る。人間には、最初からまともな倫理観がプログラムされているわけではないだろう。理性的に構築・コントロールされた教育こそが人の身体に人の心を創る。子どもたちが大人になったとき、この事実に気付くだろうか。いや、大多数の人間は気付かないはずだ。そうなってこそ完璧な教育と言えるだろう。
 ちょうど昼休みが残り五分であることを知らせるチャイムが鳴り響いた。
「あ、もうこんな時間。休み時間が終わるのは早いですね」
「ええ」
 相槌を打ちながら、高浜は少しぬるくなった珈琲をぐいっと飲み干した。

***

 僕はクラスで決めごとをする時に自分から意見を言う方ではない。それに、特に賢いというわけでもないから、意見を求められることもない。基本的には成り行きを見守るだけだ。だから、ホームルームでいきなり僕の名前が呼ばれた時はびっくりした。
「飯原くんが詳しいと思います。家でお魚を飼ってるんです」
 クラスメイトの田牧加奈が言った。飯原はきょとんとした表情で停止している。そこに皆の視線が集まった。
「そうなのか、飯原」
 教壇の上から高浜が聞いた。
「え、あ、はい」
 飯原は複数の視線を感じて、おずおずと答えた。どうして僕が魚を飼っていることを知ってるんだろうと思った。そういえば、去年自由研究か何かの作文で書いたような気もする。こうなるなら、カブトムシに一票入れておけば良かったと少し思った。結局、昆虫は苦手な人がいるからって却下になっただろうけど。
「それならこの件は飯原に任せていいか?」
 飯原は俯いていた。
「皆、お前を頼りにしている。これはお前にしかできないことだ」
 高浜先生の言葉には熱が籠っているし、断れる雰囲気じゃないなと飯原は思った。ここで断ったら皆に嫌なやつと思われるだろう。飯原は顔を上げた。
「……あ、あと一人、誰か手伝ってくれるならできると思います。水槽の管理は思ったより大変なんです」
「もちろん! 飯原一人にやってもらうわけでない。クラス皆でお魚さんの世話をするんだ。飯原にはその責任者になってもらいたいだけだよ」
 セキニンシャ。僕にはよく分からないけど、ちょっとだけ偉くなった感じがした。
「水槽とその他諸々は、去年の三年生が使っていた物があるからね。準備万端さ。さっそく飼う魚を皆で決めよう」
 高浜先生は満足気にそう言うと、天井から真っ白なスクリーンをおろして、プロジェクターを起動した。そこには、いくつか見覚えのある魚の写真が映っていた。

 ***

「飯原君、ちょっと」
 飯原は一人で下校していた。自宅のある住宅街に差し掛かったところで、クラスメイトの成川万穂に横かろから話しかけられた。どうやら近くの公園にいたようだ。二人の家はここからしばらく同じ方向にある。
「飯原君、ごめんね」
「どうしたの突然」
「飯原君がお魚さんを飼っているって加奈ちゃんが知っていたのは私のせい。去年、クラスで自己紹介カードを書いたよね。あの冊子の飯原君のページを読んでたら、加奈ちゃんに声を掛けられて少し話をしたの」
「ああ、それで」
「結果的に、飯原君の負担になっちゃった」
「大丈夫だよ。名簿順でクラスメイトが手伝ってくれることになったんだし」
「……うん、そうだね」
 成川は何か言いたげな様子だった。しばらく無言になってからこう言った。
「高浜先生のことどう思う?」
「いい先生なんじゃないかな。それに全部テキパキしてるし、できる先生って感じ」
「仕事早いよね」
「終わりの会が終わるのが学年でいつも一番早い」
「分かる、それ。いつも隣のクラスの子を待ってるもん」
「去年は一番終わるのが遅かったのに」
「ほんとそれ」
 二人は小さな丁字路に差し掛かった。この場所で帰り道は分かれる。
「じゃあね。何かあったら私にも教えてね。手伝うから」
「たぶん大丈夫だけど……、一応ありがとう」
 飯原は段々と小さくなっていく成川の背中を少しの間見ていた。赤いランドセルが小さく揺れている。あの子が本当に言いたかったことを聞けば良かったと少し思った。

 ***

 夏休みが明けてすぐの日、飯原は学校に登校すると、いつものように水槽に餌やりをしていた。すると、田牧がクラスメイトと話をする声が聞こえてきた。
「見て、かわいいでしょ。この前の夏祭りで金魚掬いしたの」
 田牧が小さなプラスチック容器を持って、クラスメイトに見せていた。その中に赤い金魚が何匹か入っているようだった。
 飯原は金魚掬いが嫌いだった。あんなにたくさんの金魚が人の手に渡って、まともに飼育されるとは思えなかった。それにしても、どうして学校に持ってきているのだろうと思っていると、「あ、飯原くん」と声を掛けられた。田牧は嬉しそうにこう言った。
「この金魚たち、うちのクラスの水槽で飼ってもらうことになったの」
「え?」
「もう高浜先生にも許可をもらったし」
「そんな自分勝手な」
「自分勝手?……先生が言ってるんだから何も問題ないじゃない」
「問題はあるよ。先生と話してくる」
 皆は知らないんだよと飯原は思った。田牧は困惑した表情をしていた。
 その時ちょうど「皆おはよう」と言って、高浜先生が教室に入ってきた。飯原は早歩きで詰め寄った。
「高浜先生」
「おお、飯原か。どうした」
「金魚をうちのクラスの水槽で飼うって本当ですか」
「そうだ。何も問題ないだろう」
「今飼っているグッピーは熱帯魚です。だから、水槽の環境は熱帯魚に合わせてあります。金魚には合わないと思います」
「大丈夫だ。そこはちゃんと調べてある。両方が生きられる温度帯があるんだ。魚に詳しいからって、先生のこと見くびっちゃいけないぞ」
「それは僕も知っています。水温だけじゃないんです。隠れ家のレイアウトも変えないといけません。水槽も大きくする必要があると思います」
「気にし過ぎだよ。実際に飼ってる人もいるわけだし」
「それはそうかもしれませんが……」
「世の中にはやってみなきゃ分からないこともあるんだよ」
 飯原が黙っていると、高浜は少し身を屈めて、小さな声でこう言った。
「田牧のご両親と話をして、もう決まったことなんだ。うちのクラスで預からないとこの金魚たちに行き場所はないんだよ。飯原、協力してくれ。この金魚たちを救おう」
 これだから金魚掬いは嫌いなんだ。後先考えない無責任な奴らがやる遊びなんだ。ぐつぐつと負の感情が沸き上がる。飯原はそれらを吐き出さないように「分かりました」とだけ答えた。それを聞いた高浜は「ありがとう」とにっこり笑った。
「田牧、金魚さんたちを持ってきてくれ。水槽に入れてあげよう」と高浜が言った。

 ***

「飯原君、グッピーが死んじゃってるよ」
 秋がもう終わりを迎える頃の出来事だった。この頃になると、クラスメイトの半分近くは当番のことをすっかり忘れており、その時は飯原が一人で魚たちの世話をしていた。飯原は特にそれを咎めることもなく、当然のことのように受け止めていた。
 その日は成川が水槽の当番で、朝一番に水槽を確認していた。そして、動かなくなったグッピーを発見した。
「見る」
 飯原が確認すると、水槽の片隅で一匹のグッピーが微動だにしていなかった。その模様には見覚えがあった。
「この子、最近元気がなくなってきている気がしていたんだ」
「そうなんだ……残念だね」
「死んじゃったのは、これで2匹目」
「2匹目? 先生には言ったの?」
「うん、寿命じゃないかなって。もらった段階で生後半年経っていたからおかしくないって。中庭にうちのクラスのスペースがあって、先生と一緒にお墓を立てた」
 飯原が話す間、成川は彼の目を真っ直ぐ見ていた。暫くしてから口を開いた。
「飯原君はそれで納得してるの」
「……寿命という可能性は否定できない」
「わたし、ちょっと聞いてたよ。夏休みが明けてすぐに先生と飯原君が話しているの」
 飯原の顔に困惑の表情が浮かんだ。やがて諦めたように小さく溜息をついた。
「盗み聞きだ」
「訂正するね。聞いてたじゃなくて聞こえてきた」
「もう何でもいいや」
「そう」
 飯原は水槽を覗き込んで何かを探しているようだった。
「あの金魚。実は、尾ひれが微妙にだけど切れてきている。多分ストレスだと思う。このままだと、あと何匹か死んでいくかもしれない」
 水槽というのは管理を必要とする空間だ。人の手によってこの空間が生み出された時からそれは決まっている。生き物たちのいる環境は刻々と変化するから、管理者はその都度意思決定をしなければならない。出来る限り、全ての生物が調和するように環境を整える。でも、時にはある種によって空間の維持が困難になったとき、その種は排除されることもある。全体の調和を求めたとき、全体は多数という意味になる。そんなときもある。
 飯原はしばらくの間、水槽の中で泳いだり、物陰に隠れている魚たちを眺めていた。その背中に成川はこう語りかけた。
「残念だけど、仕方ないんじゃないかな。……もしここで飯原くんが独り抱え込むのなら、相変わらずお人好し過ぎると思うよ」
「魚たちは人間の都合なんて知ったもんじゃないって言うと思う。それに僕にだって我慢ならないこともあるよ」
「……何かするつもりなの?」

 ***

 お盆明けの学校が始まってすぐの日、昼休みに生徒が何人かで職員室にやってきた。その内の一人、田牧が目に涙を浮かべていた。
「高浜先生、私の金魚がいなくなっちゃった」
「どういうことかな」
「さっき、久しぶりに皆で加奈ちゃんの金魚を見ようって水槽を見てたんだけど、どんなに探しても見つからないんです」
「分かった。先生が今から見に行くよ」
 高浜は生徒たちと教室に向かった。水槽を確認すると、たしかに田牧が持ってきた金魚がいなくなっていた。
「飯原はいるか?」
 生徒たちに聞くと、視線が教室の端に向けられた。飯原は窓の外を見ていた。時折、運動場ではしゃぐ生徒たちの声が聞こえてくる。
「飯原」
 高浜はその背中に呼びかけ、飯原は振り向いた。視線の先には、高浜とその横に田牧がいた。
「田牧の金魚がいなくなった。何か知らないか?」
「……正月前に、残念ながら死んでしまいました」
「そんな! あんなに元気だったのに! 飯原君ちゃんと面倒見てたの?」
 飯原の表情が一瞬だけ揺らいだ。そして、小さな声で「うん」と言った。
「嘘!」
「田牧、落ち着きなさい。生き物はいずれ死んでしまうんだよ。にしても飯原、お正月の前に死んだのならその時に教えてくれれば良かったじゃないか」
「え? どうしてですか」
「どうしてって」
「これまでにもグッピーが何匹か死んでいましたが、その時は誰も何も言いませんでした。だから今回も特に何も言いませんでした」
「グッピーと私の金魚は別物じゃない!」
 田牧が飯原に詰め寄る。
「そうだけど、同じ魚であることに変わりはないよ」
「もういい、飯原。もう少し、人の心を理解しなさい」
 高浜はそれだけ言うと職員室に戻って行った。飯原は暫くそこに立っていた。静まり返った教室は自分の存在を拒んでいるような気がした。

 ***

 飯原は約束の16時が近づくにつれて気分が悪くなっていた。田牧が泣いている様子を思い出すと、余計に胃の当たりが締め付けられるような心地がした。あの子は来てくれるだろうか。掃除の時間、田牧が一人になる瞬間があった。飯原はそのチャンスを逃さないように、勇気を出して声を掛けていた。
「話したいことがある。放課後、一人で三階の踊り場に来てほしい」
 その時、彼女はすこし驚いていたと思う。クラスメイトたちに見つかるわけにはいかないから返事を待つことはできなかった。
 飯原が落ち着かない様子で踊り場を歩き回っていると、田牧が姿を現した。涙のせいだろうか、目の周りが少し腫れている。16時ちょうどだった。
「話って何」
 棘のある口調だった。それは当然のことと思われるので仕方がない。
「今から保健室に行くから付いてきてほしい。そこで説明するよ」
 二人は黙って保健室のある一階まで歩いた。飯原は内心クラスメイトたちに見つからないかずっと不安だった。
 飯原は保健室に入ると、そこにいた先生に身長を測りたいと伝えた。先生は「君ね、いいわよ」と許可してくれた。そして、飯原の後ろにいた田牧を見つけて、「あら、あなたもなのね」とにっこり笑った。
 飯原は荷物を入口のソファーに置くと、壁際にある測りで身長を測った。前に測ったときから少しだけ伸びているような気もした。田牧はその様子を怪訝な目で見ている。「田牧さんも測って」と小さな声で伝えた。田牧は少し嫌そうな顔をしてから、さっと身長を測るふりをした。
「本当に同じくらいだね」と大袈裟な感じで飯原が言った。すぐに小さな声で「ありがとう。本題はこっち」と付け加えた。
 飯原は部屋の窓際に向かって歩いた。そこには大きな水槽があった。教室の水槽の二倍の大きさはあると思われた。飯原はその中にいる一匹の金魚を指差した。
「見て、分かる?」
 田牧の表情がみるみる変わっていく。状況を理解したのだろう。もう後戻りはできない。もしかしたら怒られるかもしれない。
「どうして? どうしてこんなことしたの」
 田牧は保健室の先生に聞こえないように小さく言った。
「これしか皆を救う方法がなかった。ごめん黙ってて。田牧さんが怒るとは思わなかったんだ。もうとっくに興味がなくなったと思っていた」
「そんなこと……」
 これ以上ここで話をするのは不味い。飯原は中庭でもう少し話をしようと言った。
 二人が保健室を出るとき、「またいつでもおいで」と先生は優しく声を掛けてくれた。少しだけ心に棘がちくりと刺さったような気がした。
 中庭には学年とクラスで割り当てられたスペースが存在する。たいていは授業で野菜を育てるときに使われている。二人はその場所に来た。
 ここには魚たちのお墓がある。小さい木製のプレートで魚たちの名前が刻まれている。もちろん、田牧さんが連れてきた金魚も死んだことになっている。
「このお墓のなかに田牧さんが連れてきた金魚はいない。冬休みに入る前、さっきの水槽に移した」
 保健室の先生にバレないかとても不安だったけど、どうも大丈夫らしい。作戦が上手くいったのかもしれない。
「この方法しかなかったってさっき言ったよね、どういうこと?」
 飯原は当時の状況を説明した。グッピーが数匹死んでしまったこと、金魚の尾ひれが切れていたこと、それらの原因として二種類の相性が良くない、あるいは水槽の大きさが足りないと考えられること。先生に相談しても聞き入れてもらえなかったこと。このまま何もしないで世話を続けるのが我慢できなかったこと。
「最初は自分の家で飼おうとも思ったんだけど、両親に説明がつかないし。それに、持って帰ったらそれはもう窃盗に近い。それで保健室にしたんだ。あの部屋には大きな水槽があって、そこには金魚が何匹か飼われている。保健室の先生が世話をしているけど、そこに金魚が何匹泳いでいるか気にしていないから、たぶん大丈夫だと思う」
 あの日、家に金魚を持って帰ろうとして、万穂ちゃんに止められたことは黙っておく。今冷静に考えれば、万穂ちゃんの言ったことは正しいと思う。僕が逆の立場だったとしても止めていた。あの後、保健室の水槽に移すことを思い付いたときはこれしかないと思ったけど、振り返れば全然冷静な判断とは言えない。もしこれで田牧さんが先生に言えば、三者面談くらいにはなりそうだ。それならそれでいい。よく分からないことがあって、僕はそれを確かめたかったんだ。
 田牧は飯原が話す間、何も言わず黙って聞いていた。
「やっぱり、飯原くんはお魚さん想いだね」と田牧は独り呟いた。「え?」と飯原は聞き返すと、田牧は頭を下げていた。
「ごめんなさい。私のせいで。私は何も分かっていなかった。結局、私のやったことは飯原くんに迷惑をかけていただけだった」

 ***

 その日の終わりの会はいつもより長かった。
 昨日の出来事を何かの形で解決しなければならないと高浜は考えていた。小さな綻びをほっておくとやがて大きな流れになることもある。早めに手を打っておくに越したことはない。そこで、クラスに話し合いをしようと呼びかけた。
「今、飯原に水槽管理の責任者をやってもらっているが、それを降りてもらうことにして、これからは毎日名簿順で二人ずつ当番になってもらうのが良いと思っている」
 飯原は名前を呼ばれてドキリとした。けれども、昨日のことを考えると、どこか仕方がないような気もしてきて、思ったことを素朴に聞いてみようと思った。
「先生、どうしてですか? 僕は毎日ちゃんと世話をしました」
「その点は間違いない。飯原はよくやってくれた。でもな、昨日の件を考慮すると、どうやら飯原が一人で世話をし過ぎてしまっている。クラス皆で生き物を飼うのが目的なのにそれだと意味がない。魚が死んでしまったことですら、飯原以外が知らないというのは良くない状況だよ」
 飯原はふと心の中でなるほどと思った。先生はクラスの管理者だったんだ。全体が調和するように個々を操作する。僕が水槽を管理してきたように、先生もクラスを管理する。一人だけ歩幅の違う人間が全体の足並みを乱すようであれば、排除されることもあり得る。
「成川、どうした?」と高浜が言った。見ると、後ろの席で成川が手を挙げていた。
「それは単に、勝手にサボっている人が悪いのではないでしょうか?」
 空気が静まり返った。高浜は落ち着いて答える。
「犯人捜しをしても意味はないよ。今の構造的にそうなってしまっているんだから、ルールを変えるしかないんだ。それから、社会では責任者は皆がちゃんと責務を果たすように見守らないといけないんだよ」
「それだと飯原君が悪いと仰っているふうに聞こえます」
「先生は別に飯原が悪いとは言ってないよ」
「そうですか、なら私は大丈夫です」
 成川はもう興味がないというふうに窓の外を見た。
「他に誰か何かあるかな?」
 誰も手を挙げるわけがないと飯原は思った。
「飯原、いいな?」
 クラスの視線が自分に集まったような気がする。一瞬、田牧が青ざめた表情をしているのが見えた。
「はい、問題ありません」
 これ以上何か言ってもクラスの皆を敵に回すだけだと思った。万穂ちゃんも巻き込んでしまった。あの口調はたぶん怒っている。
「では明日から毎日名簿順で二人ずつお魚さんのお世話をするように」
 
 ***

 冬が明けようとしている。職員室の窓から見える桜の木には小さな芽が出始めていた。
 高浜はかれこれ数時間くらいは握っていた赤ペンを置き、これでやっと終わったと思った。やっとのことでクラス全員の感想文にコメントを書く作業を終えたのだ。
 子どもたちが書く文章を読んだ感じでは、それなりに教育の機会は平等に与えられていたふうに思う。生き物を飼うということの一番のポイントは、死を目の当たりにすることだろう。そのためにわざわざ寿命の短い個体群を譲ってもらった。途中で田牧が金魚を持ってくるという予想外なこともあったが、これは逆に良い機会になるとも思っていた。あの時、加藤先生は保健室の水槽で世話をしてもらったらいいと仰っていたが、結果的にうちのクラスで預かって良かったと思う。生徒たちにとって思い出のある生き物ならば余計に印象に残ったはずだ。
「高浜先生、年度末の仕事終わりそうですか?」
 学年主任の加藤が横から声を掛けてきた。
「ええ、問題なく。ちょうど今最後の仕事が終わったところです」
「さすがですね、仕事が早い。私なんかはまだまだ残ってます。さあさあ、自分の仕事に戻らないと」
 加藤は満足して自分の席に戻って行った。高浜はコーヒーメーカーのスイッチを入れて、待っている間少し伸びをした。
 そういえば、あの当時クラスで飼っていた亀はどうなったんだろう。誰かが引き取ったのか? すっかり忘れてしまった。そもそも、なぜ亀を選んだんだろうか。ちゃんと考えれば寿命が長すぎると思うはずだ。

 ***

「今日もどこか具合が悪かったの?」
 帰り道、いつも通る公園の前を差し掛かった時だった。ブランコの上に成川がいた。ぴょんと飛び降りて道路まで出てきた。
「どういうこと?」
 とりあえずはしらばっくれてみる。
「保健室に行ってたでしょう。職員室と反対方向だと、保健室以外に生徒が行けて時間が潰せる場所はないよ」
「身長を測りに行ってただけだよ」
「いつまで測らないといけないの?」
「今日がしばらくは最後のつもり。これからはたまには行こうかな」
 保健室を訪れる理由が欲しかった。それで身長が伸びている瞬間が知りたいなんて滅茶苦茶な嘘をついてしまったのだから、春になるまではちょくちょく顔を出す必要があった。それに、大丈夫だとは思うけど金魚たちの様子も気になった。万穂ちゃんが尾ひれが切れた金魚のことを覚えていて、保健室の水槽で見つけているのなら、もう僕がやったことはバレているだろう。
「そうなの。それは良かった」
 二人は帰り道の続きを歩き始めた。住宅街は人が出払っているようでひっそりとしている。しばらくして成川が口を開いた。
「やったほうが良いって言われてることなんて、いくらでもあると思わない?」
「まあね」
「そんな見栄え良くするためにやらなきゃいけないことで、誰かが無理するなんて馬鹿げてるって思ってしまうの」
「そうだね」
「飯原君、あなたはお人好しのくせにちょっと変なところで譲らない。今回の件はどうにかなったのかもしれないけど、もうあんまり何でも引き受けたらダメだよ」
「何回か聞いたことのあるセリフだなあ……。譲れないことなんてそんなにないよ」
 今回の件は特に自分でも危ない橋を渡ったな思う。結果的には、三者面談になることもなかったからセーフってへらへら笑うことはできる。でも、そういうのじゃない。安っぽい手品でルールからはみ出ることは、できれば二度としたくはない。まして、その手品を明かすようなリスクを取るなんてまっぴら御免だ。結局、田牧さんのことはよく分からなかったけど、もう怒ってはいないみたいだし大丈夫だろう。つくづく人間の思惑というのはどこで交差しているのか分からないなと思う。そんな世界で、みんな仲良くやっていけるのだろうか。
 ふと思い出したように成川が言った。
「新しいクラス、どうなるだろうね」
「さあね、どうだろう」
 新しいクラス。もうすぐ春が来る。空気は段々と暖かくなってきている。いつの間にか月日が流れている。僕たちだって、あと指の数で数えられるだけの春を迎えたら、学校という空間を出ていく。その先には社会がある。そこには、いつか先生が言っていたように、人の働きを管理する責任者がいっぱいいるのだろうか。責任者って偉い感じがするから、お金はいっぱいもらえそうだ。僕には向いてないかもしれないから、関係のない話かもしれないけど。


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