調和の幻想

霧雨49号
テーマ「調和」
作者:f
分類:テーマ作品

 ある小さな町のはずれの、こだかい山の中腹にはちょっとした池が広がっている。かつては蓮の名所として地元では少し知られた場所だったが、いまでは立ち入り禁止となって久しい。立ち入り禁止になったのは、数十年前にあった水死事故がきっかけだという。事故だったとも自殺だったとも言われているが、詳細は現代に至るまで不明のままである。
 もともと池の岸辺には小さな社が建てられていたが、その事故以来は打ち捨てられていた。その社は、池の伝説にまつわるものだ。地域のなかでのみ細々と受け継がれる、ほんのささやかな言い伝えが池にはあった。
 ――池には神さまが住んでいて、美しい人間を捧げれば、代わりに願いを叶えるらしい、と。
 言い伝えにはいくつかのバリエーションがあって、神さまの正体は竜であったり大蛇であったり、なかには蛙だとするものもある。しかし結末はどれも同じだ。美しい主人公は民衆に代わって池の神に願い事をする。未来永劫、変わらぬ豊穣をこの地に、と。そして池の水に触れた途端、突如湧き出した霧に消える。豊穣の願いは、主人公の犠牲と引き換えに約束される。
 近代に入って治水事業が完成するまで、この地方は洪水と渇水に繰り返し襲われてきた。利水のままならなかったこの土地で、豊饒の約束とはつまり穏やかに移ろう天候を約束することだ。天は調い、地と和する。日、雨、風、雷、全てが従い、恵みをもたらす。伝説はそんな言葉で結ばれる。 
 山のふもとの神社で開かれる夏祭りにだけ、その名残を滲ませる。だが池が立ち入り禁止になって以降、伝説について詳しく知るものは地元でも減る一方である。


 その年の梅雨はいつになく長引いていた。
 夏祭りの日付は例年決まっていて、いつもならば梅雨が明けて2,3日経った頃にあたる。快晴に恵まれるのが常だったが、その年ばかりは長引いた梅雨の雨がまだ降りやむ気配をみせなかった。
 祭りの最後には花火があげられることになっている。雨足の落ち着く頃合いを見計らって打ち上げられた花火を、一人眺めるものが山中とふもとにそれぞれあった。長い夏の日がようやく落ちた頃のことだった。


 池の中ほど、大きな蓮の葉の上に、全身まっ白の人影がぽつねんと座っていた。
「祭りの日だってのにここは清掃すらされなくなって、もう何年経ったかな」
 彼は傍らでうずくまる蛙に話しかけた。もう長い間、彼にはそれ以外に話し相手がいなかった。話しかけられたことを理解しているのか偶然か、蛙は興味なさげにケロと鳴いた。
 また花火が開いて、池を照らした。着物だけでなく肌も髪もまっ白の男は、その瞬間だけ鮮やかに色づく。赤や緑に染まる手のひらを彼はそっと翳し見た。
「誰にも忘れ去られているのに、それでもまだ消えたくないと願う俺は愚かか?」
 ゲッゲッと笑うようにして、蛙は池に飛び込んだ。ひとりきりで残されて、彼は天を仰いだ。そうして次の花火があがるのを待つ。彼は待っていた。もうずっと、長い間。
 何を待っているのかは、彼自身もまだ知らない。


 少年は部屋の片隅から窓の外を見上げていた。少し前から花火のあがる音は聞こえているが、少年の場所からでは光はほとんどうまく見えない。それでも彼は目を凝らした。かすかに窓枠が色づくのを飽きず見つめていた。それ以外のものを視界に入れるのが嫌だった。少しでも綺麗なものだけを見ていたかった。
 祭りの夜には地域をあげて宴席を設けるのがこの町の恒例だ。少年は膝を抱え、できる限り気配を殺して、目立たないよう扇風機の影に隠れていた。古くからの家ならば避けられないこの集まりが、彼は昔からどうも苦手だった。単純に、性に合わないというのが一つ。もっと悪いのは夜も更けて、他の子供たちが帰った後だ。できることならさっさと抜け出して帰りたいが、それは叶わない。今年の持ち回りは少年の家。宴の会場こそ彼の自宅だ。
 彼はひどく美しい少年だった。少年が集まりを嫌う理由。その大部分は彼の、人の関心を集めすぎる容姿に起因する。
 深夜、だるい体を横たえて、少年は窓の外に降りしきる雨を眺めていた。彼はただの一度も、自分がひどく美しく生まれたことを不幸に思ったことはない。己が美しいという事実に、疑問を持ったこともない。物心ついたころから絶えず投げかけられる賞賛を、当然のものとして受け入れてきた。
 ただ彼はとっくにうんざりしていた。おそらくは世界、というものに対して。その少年にとって、十三年という歳月は気が遠くなるように長かった。彼のようには美しくない他の人間には、決して理解できないほどに。
 雲が朝焼けに染まるのを眺めながら、少年は一つの決意を固める。
「ぜんぶぶっ壊してやるぜ」
 なおこの少年、容姿のみならず思考回路まで浮世離れしているということは、案外知られていない事実である。



 池の水面に、霧のように細かい雨が降り注ぐ。辺りは静かだ。水音と、葉擦ればかりに満ちている。そんな静かな池のほとりに、闖入者が一人あった。
 「イケニエになりに来た!」
 闖入者の少年は怒鳴った。傘もささず、履き古したスニーカーで地面をしっかりと踏みしめて、池のほとりに立っていた。美しい少年だった。水の滴るつややかな黒髪に、透き通る肌のコントラストが眩い。成長途中の体は薄く、けれども絶妙な比率によって頼りなさは微塵も感じさせられない。大きいが切れ長の目元は、彼の表情と合わさるとむしろ涼しげというより勝気そうな印象を与える。
「叶えてほしい願いがある」
 無人の池に少年の声はよく響いた。声量に驚いたのか、足元の草叢から蛙が一匹飛び出して、ぽちょんと池に飛沫をたてた。
「留守じゃないなら出てこい、神サマよお」
 池に向かって傲然と言い放つ。神をも畏れぬ、を地で行く態度は他の人が見れば滑稽にも映るだろう。けれど彼は真剣だった。
「おかしい……俺が来たからには絶対に願いが叶うはずなのに」
 独り言でさえ声を憚る様子はない。少年はしばらく苛々と歩き回っていたが、やがて合点したように水辺ぎりぎりに駆け寄った。伝説では、池の水に触れることがきっかけだったと思い出してだ。
 服が汚れることも厭わず屈みこみ、彼は水面に手を伸ばした。そうして願い事を呟く。
「この先ずっと、雨が降りやみませんよーに」
 いまあるもの、全部を押し流してしまうまで。
 少年の細長い指が水に触れると同時に、ふいに雨脚が強まった。
「誰だ」
 声が、聞こえた。
「えっ」
「冷やかしに来たのなら失せろ、早く」
 土砂降りの雨に打たれながら、少年はひざまずいたまま面を上げた。けぶるような雨飛沫で視界が悪い。見渡すと、池の中央に人影のようなものを見つけた。
「見間違い……じゃ、ないはずだ」
 彼は目を凝らす。この土砂降りのなか、池の中央に突然人が現れるなど常識ではありえない。けれど少年には確信があった。理由は説明できなくとも、彼はどうしてもそれをきちんと見なければいけない気がした。
 吸い寄せられるように少年は池に飛び込んだ。溺れる、などとは少しも頭によぎらなかった。少年は一心に池の中央を目指す。自分が今、泳いでいるのか歩いているのかもわからない。まとわりつく泥、濡れた服の重さ、そんなものは全て関係なかった。人影は確かにそこあったから。見間違いではない。確かに、池の中央に。
 彼は少しずつ明瞭になる人影を見つめるのに必死だった。頭のてっぺんからつま先に至るまで真っ白なその影は、そこかしこに広がる巨大な蓮の葉のひとつに座っていた。この雨の中で悠然と、そして少年になどなんの関心もないかのように。やがて少年が辿りつき、蓮の葉に手をかけると初めて視線を寄越した。二つの目玉が少年を捉える。真っ白な姿のなかで、ただそこだけが恐ろしいほどに鮮やかだった。
「俺はギン、深泥池 銀(ミゾロケ ギン)だ」
 見竦められただけで、金縛りにあったかのように彼はそれ以上動けなくなった。ほとんど無意識のまま、うかされたように自分の名前を早口に告げる。
「あんたは、いったい……」
 鳩の血よりも深い赤が、黙って少年を見下ろした。

――銀はそのとき、彼の十三年の生涯で初めて、己よりも美しいと思えるものに出会った。



 池の中央に現れた人影は男の姿をしていた。少年と青年のちょうど中間ごろであろうか。白く見えたのは、着物のような服が白いせいだけではなかった。軽く逆立てた短髪から、鱗のようにひび割れた肌から、全てが漂白されたように色がない。ただ一か所、その瞳ばかりが血のような深紅に色づいていた。
「おい」
 声は存外低い。だが、まだどこか不安定さが残る響きだ。食い入るように熱視線を寄越す銀を、その人影は呆れた様子で見下ろした。
「さすがに……それは生贄の態度じゃないだろう」
「うわ喋った」
 赤い瞳が不機嫌そうに細められる。銀の体に知らず震えが走った。恐怖からではない。むしろ、とめどない興奮によって。
「名前……」
「は?」
「あんたの名前、教えてくれよ」
 ずぶ濡れになりながらも真っ赤に頬を上気させる銀を前に、男はとうとう目蓋を閉ざした。一つ大きく息を吐き、呟く。
「こいつ、話が通じねぇ……」
 滝のような雨が、出会った二人に降り注いでいた。

 白色の男は廿楽(つづら)と名乗った。
「とにかくここで溺れ死ぬのはやめろ。掃除しないならせめて汚すな」
 心底嫌そうに告げると、廿楽はおもむろに銀の体を担ぎ上げる。
「うおっ」
「じっとしてろ」
 暴れかける銀を一声で黙らせて、そのまま真っ直ぐに岸を目指した。銀まで担ぎ上げているというのに、廿楽はまるで体重を感じさせない動きで蓮の葉の上を危なげなく渡っていく。ほどなく岸に辿りつくと、自分は蓮の上に留まったまま、銀を土の上に投げ出した。ちょうど、打ち捨てられた社が建っているあたりだった。
 雑に投げられて地面に転がったままの体勢で、銀はぽかんとして廿楽を見つめていた。
「じゃあな。風邪ひく前にとっとと帰れ」
「ちょ、ちょちょ、ちょい待てって」
 あっさりと踵を返す廿楽を、銀は慌てて追いすがる。
「あんた、やっぱり池にいる神サマってやつか?」
「……もしそうなら何なんだ?」
 廿楽は水上でぴたりと足を止めた。どんなに物理法則では説明しがたい光景を目にしても、銀は怯まなかった。かえってその美しい顔を確信で満たすばかりだ。銀は叫んだ。
「頼む! 俺の命はあんたにやるからさ! 代わりにすげー洪水を起こして、この町を全部流しちまってくれ」
 小ばかにするよう薄く笑って、廿楽は銀を振り返った。
「お前、莫迦だろ」
「バカだろうと関係ねぇ」
 叩きつけるように銀は吠える。
「俺はあんたに賭けるってもう決めてるんだ」
「言っている意味がわからん」
「わかれよ!」
 銀の気迫は衰えるところを知らない。均整の取れた形の眼を裂けんばかりに見開いて、ぎらぎらさせていた。廿楽の赤い瞳には、その輝きはあまりに眩しい。
「昨日わかっちまったんだ。俺はこの汚い町を全部流して、ここに新しい秩序をつくらなきゃならねえって」
 廿楽は呆れて言った。
「ノアにでもなりたいのか」
「ノ……なんだ?」
「学のないやつだな」
「おう!」
 逆に胸を張る勢いの銀に気おされて、廿楽は押し黙った。
「けど新しい世界を創るのは俺じゃなかった」
 一転、銀は噛みしめるような口調で言うと、廿楽を狂おしく見つめる。
「あんただよ。さっき出会って、その燃える目を見たときに確信した」
「……正気ですらないのかよ」
 苦々しい廿楽の呟きも聞こえてすらいないようで、銀はゆらりと水辺に近寄る。
「なあ。あんたがこの池の伝説の神サマなら、イケニエの命と引き換えに叶えてくれるはずだ」
 いっそ甘く銀が囁くと、ふいに廿楽の気配が怒気を孕んだ。当の銀はその理由に少しも思い至らない。けれど池と岸とに離れていながら、その怒気は手に取るように感じた。銀はあてられたようにふらふらと、廿楽に向かってさらに歩を進める。境界に辿りつくより前に、廿楽は再び岸に背を向けた。そして地の底から這うような声で告げる。
「俺は生贄とかいう前時代のクソゴミカスな風習は大嫌いだ」
 蛙が一匹、廿楽の足元に顔を覗かせ、せせら笑うように鳴いた。
「帰れ。そしてその莫迦げた考えと俺のことなど綺麗さっぱり忘れてしまえ」
 言い捨てて、廿楽が音もなく次の蓮の葉に飛び移ると、
「それは嫌だ」
 ふいに銀がはっきりとした声で応えた。 
「忘れられるかよ。俺はもうあんたに惚れこんでんだ。だから」
「……気色の悪いことを言うな」
 廿楽はその場で足を止めた。
「まじだって。俺とあんたは似てる」
「どこがだ」
「美しいところ」
 銀は確かにそう言った。
「あんたは綺麗だ。俺も相当のもんだが、それよりだ。綺麗だ。悔しくもなんねぇくらい」 
 一転の曇りもなく言い放つ。廿楽は次の蓮に飛ぼうと片足を軽く浮かせた。真っ直ぐな視線が、背を焦がすほどに熱く感じる。廿楽はためらって、そっと足を戻した。これほど真っ直ぐに見つめられる経験が廿楽には初めてで、落ち着かない。けれど無視することもできそうになかった。
「俺は人が嫌いだ。お前みたいなふざけたやつはもちろんな」
 廿楽はその場でさらに少し迷って、結局蓮の上に再び腰を下ろした。性懲りもなく足元にすり寄ってくる蛙の頭を指で小突いて、続ける。
「だが時間だけはあり余っている。話くらいは聞いてやってもいい」
 途端、銀は破顔した。飛び込まんばかりの勢いで池のぎりぎりまで駆け寄って、得意そうに言う。
「なんだ、あんたも誉められると嬉しいんだな」
 廿楽は思い切り渋い顔をした。
「やっぱり帰れ」



 激しかった雨も一応は落ち着き、小康状態が続いていた。廿楽は銀を向き直りこそしなかったが、その場にじっとしていた。話を聞くつもりはあるらしい。雨に濡れそぼり、白い髪が白い肌にぺとりと貼り付いている。とても人間では説明のつかない振舞いをするくせに、その姿はやけに生々しく見えた。
 たどたどしくもありながら、銀は必死にこれまでの人生のこと、そして自分が何を思ったかについて説明した。あちらこちらに話題が飛び、いまひとつ要領を得ない話を廿楽は最後にこう要約した。
「要するにヤラれっぱなしじゃ腹が収まらないってことか」
「ま、そうなるな」
 いささか乱暴すぎる結論にも、銀はあっけらかんと笑って頷いた。
「俺のこと、気に入ってくれたか?」
「別に」
「えっ、からかってんのか?」
「お前のその自信はどこから湧いてくるんだ」
 本気で不審そうな銀の様子に、苛立ちと感心を半分づつ覚えながら廿楽は振り向いた。毒々しいほど鮮やかな赤の目玉を、銀は真っ直ぐに見返してくる。値踏みするような視線のままで、だが、と廿楽は呟いた。
「復讐か。悪くはない」
「復讐? そんなみみっちい真似、誰がするかよ」
 耳ざとく聞きつけた銀が、大声で否定する。派手に否定され、廿楽はむすりとして訊き返した。
「じゃあなんなんだ」
「革命だ」
 自信満々に紡がれる言葉に、廿楽はハっと息を吐きだすようにして笑った。
「いかにも頭の足らんガキの考えそうなことだ」
「俺だってもう十三だぜ。ガキだとバカにされる筋合いはねえ」
「十三だからじゃなくて、そういう阿呆なことを考えるやつをガキだっつってんだ」
 莫迦にする様子を隠しもしない廿楽に、銀は威嚇するよう唇を吊り上げた。
「けど実際、俺はいま神サマに直談判してるぜ? なのに革命だけ不可能だって道理もねぇ」
 並々ならず美しい顔がつくりだす笑みには得も言われぬ凄味がある。そうやって笑われると、大それた野心すら説得力がありそうに見えてくる。これで脳みそがもう少しばかり足りていればと、廿楽はつい口惜しく思った。
「じゃあ訊くが、どうやって革命なんか起こすつもりだったんだ」
「それはあんたに頼んで、とりあえず今のこの世界をぶっ壊してもらって、それから……」
 言い淀む銀に、廿楽はそれみろと言わんばかりに問いを重ねる。
「生贄として死ぬつもりだったお前になにができる?」
「後のことは生まれ変わってから考えりゃいい」
「悠長な話だな」
 しょげるどころか、銀はにやりと笑みを浮かべた。
「けどもう、その心配はいらないぜ」
 にやつく銀に妙な予感を覚えながら、廿楽は訊き返した。
「……なぜだ?」
「あんたに会って確信した。俺は、自分で英雄になる必要なんか無かった」
 銀はゆっくりと天を仰いだ。大きく息を吸い込んで、びしりと廿楽を指さす。そして吠える。
「新しい世界の主になるのは、あんただからな」

 迷いのないその声に、水面が震えた気がした。
 銀の全身から、ぎらりぎらりと立ち昇るエネルギーが目視できるような気すらした。その輝きは喉元に突きつけられた凶器にも似ている。廿楽は一瞬だけ目を閉じた。眩暈とはこういう感覚だったかもしれないと、ふいに思い出す。
 銀は真っ直ぐに廿楽を見ている。廿楽もそんな銀を見返した。なのに不思議と目が合わない。不愉快だ、と廿楽は思った。
「相手にしていられないな」
 それだけ言って、廿楽は唇の端を歪めた。
「俺は本気だ!」
 勢いよく食い下がる銀を廿楽はどこか冷めた目で眺めた。
「お前の意気込みは別にどうだっていい。無理なものは無理だ。その望みは叶わない」
「なんでだよ? やってくれたっていいじゃねえか。まさか対価が俺一人じゃ足りないなんて贅沢言わないよな?」
 廿楽は溜息をついた。
「その救いようのない頭のことはひとまず捨て置くにしても、お前は二つ、大きな誤解をしている」
「あ?」
「いいから聞け」
 赤い目で睨みつけると、銀はようやく唇を閉じた。
「まず、お前はそもそもこの池の伝説の解釈を間違えている」
 どう受け取った、と促されて銀は答える。
「イケニエを捧げれば願いが叶うって話だろ?」
「違う」
 廿楽は断じた。
「ここに祀られているものは願いを叶える力でなければ、天候を操る力でもない。強いて言うなら調和を導く力だ」
「調和?」
「要するに、全てのバランスが取れた状態ってことだ」
 銀の理解が追い付くのを待って廿楽は続けた。
「日照りが続けば雲が生まれる。続く長雨もやがて降りやむ。ここでの場合、そういう自然の摂理みたいなものを指す。この池の神とされているものは、その摂理の擬人化のようなものにすぎない」
 銀はしばらく考え込んでいたものの、諦めたように両手を挙げた。
「つーことは、どういうことだ?」
「お前が期待するような都合のいい奇跡を起こせる神様なんていないってことだ。生贄云々はただの脚色だから忘れろ」
 わかっているのかいないのか、きょとんとして黙っている銀を、廿楽は一瞥した。
「それから俺は別に神様じゃない」
 一拍遅れて、銀の目が驚愕に見開かれる。
「……騙してたのか?」
「人聞きが悪いな。俺は自分が神様だなんて一言も言ってない」
「違うならそうと早く言ってくれればよかっただろ」
「お前が聞く耳を持っていそうになかったから」
「まじかよ? 俺のせい?」
 先程とは比べ物にならないほど泡を食ってわめきたてる銀を、廿楽は不可解に思いながら見た。願いが叶わないことに衝撃をうけるのはまあ理解できなくもない。しかし俺が何者かなんて、こいつにはどうでもいいはずだ。廿楽は訝しむ。

「じゃあ、あんたはいったい誰なんだ?」
 岸辺から届く銀の声は、やけに切実な響きをしていた。
 廿楽はしばし考えこんだ。こうして質問してもらえる日をずっと待っていたような気がした。けれどいざ、固唾をのんで答えを待つ者を前にしてみると、言葉にするのがひどく恐ろしいようにも思われる。廿楽には言いたいことが多すぎた。なのに目の前の少年がその全てをきちんと聞いて、わかってくれるなどとは到底期待できそうにない。
 よく考えて、廿楽はようやく口を開いた。
「俺は昔、ここで殺された」
 一つ、息を吸う。
「もともとは人間だったが、いまは何なのか自分でもわからない」
 銀が身じろぎする気配を感じて、廿楽は素早く付け加えた。
「この見た目は生まれつきだ」
「……どーして」
 何に対してか、銀は呟いた。
「どうしてだろうな」
 廿楽は薄く笑った。
「いつだったか、昔、日照りの年があってな。畑はカラカラ。川も綺麗に干上がって、田がもう駄目になりかけていた。昔と言っても、まだ百年も経たないはずだが」
 そうして遠い目をする。
「みんな困っていた。金どころか、その年の食い扶持すら危うい有様で。このままだと死人が出ると大人たちは深刻そうに相談していたな」
 廿楽は皮肉気に喉の奥でくつくつと笑った。大人のものというには少し頼りない喉仏が白い喉で上下するのを、銀は夢のような心地で見つめていた。
「それで、雨乞いのためだとか言って、俺はここに……生贄として沈められた。表向きには水死事故に偽装されてな」
 廿楽はここで言葉を切った。銀に目をやり、眉根を寄せる。やたら真剣な面持ちでこちらを見つめる銀が、話についてきているのか不安になった。聞いているのか、と声を掛けようとした途端、銀は突然、納得したように一人頷いた。
「ま、廿楽はそんだけ綺麗なんだから、イケニエたてるってときに選ばれるのも無理ないわな」
 しみじみと、そんなことを言い出す。
「綺麗だからじゃねえ。気味悪いからに決まってるだろ」
「いやぜってー綺麗だったからだ。俺にはわかるぜ」
 自信たっぷりに言い切る銀に、廿楽は舌打ちをする。忌子と呼ばれ蔑まれた日々は忘れたくても忘れられるものではない。先の銀の話を聞いて、この土地はこうも変わらないものかと薄く感心すらしたものだった。
 だが銀が考えを改める気配はなかった。思い出したように廿楽に尋ねる。
「で、そのあと天気はどうなったんだ?」
「しばらくして台風が来て、全部吹っ飛ばした」
「やっぱ効果あるじゃねーか」
 廿楽は思い切り銀を睨んだ。
「生贄なんてばかばかしい。俺はここで殺された。そして死んだ。そのままどこにも行けなくなっただけだ」



「くだらないことを話したな」
「よし、決めたぜ!」
 しばしの沈黙の後、声をあげたのは二人同時だった。
「俺があんたを神サマにしてやる」
 先手を取ったのは銀だ。
「なに……?」
「だから、俺があんたを神サマにしてやるつってんだ」
 廿楽は絶句したが、銀はかまわない。
「俺知ってるぜ。元々人間でも、祀られれば神サマになるんだってこと」
 銀は小さい頃、手を曳かれて天神様にお参りしたことを思い出して言った。
 岸辺から雨越しに見る廿楽は白く霞んで、銀には天上の存在そのもののように見えた。時折、宝石のような赤い光がまたたくのも、神々しいと言わずしてなんと言えるか。これが神でないとするなら、銀に信じられるものはない。
 銀の視線を避けるように、廿楽は目を伏せ、そろそろと息を吐いた。
「なにを、ふざけたことを」
「ふざけてなんかない」
 銀はぴしゃりとはねつける。
「やれるに決まってる。だってあんたは神サマであるのが相応しいんだから」
「俺はただの人間だ。ただ白く生まれついて、ここで殺されただけの」
「違う!」
 ほんの小一時間前に初めて出会ったばかりだというのに、銀は廿楽自身の言葉を力強く否定した。
「あんたはあの伝説の主人公に間違いねえ。だからこの池の伝説は、あんたの伝説だ。あんたは祀られるべきだ。祀られたらもうただの人間なんかじゃない。神サマだ」
「またわけのわからない理屈を」
 廿楽はあっけにとられてしまって、仕方がないから少し笑った。人とは違う姿を指して、普通でない、人間でないと言われることは何より嫌いなはずだった。だが、銀の主張はむちゃくちゃすぎて、腹が立ちすらしてこない。廿楽はいっそ開き直って面白がることにした。
「じゃあ俺は何の神様ってことになるんだ」
「何の、とか別に何でもいいだろ。それは人間が勝手に決めることで、あんたはただ神サマであればいい」
 事もなげに銀はうそぶく。けれど少し考えて、付け足した。
「あー、調和って言ってたか? それはどうだ? あんたにぴったりだと俺は思う」
 廿楽は鼻で笑った。
「俺に調和なんて似合うかよ。この死に方じゃどちらかというと祟り神じゃないか?」
「いや、似合うぜ」
 銀はまた断じた。己の正しさを微塵も疑わないその態度はいっそ清々しい。美しい顔を美しく歪ませて、銀は廿楽ばかりを見ていた。そこにある、彼が信じるべきものの姿を。
「調和の神サマってことは、全部があんたに従うってことだろ」
 銀は跪いた。
「一目見てわかった。俺が従うべきはあんただと。俺だけじゃねえ。あんたこそが支配者だ。この世界のなにもかも、あんたにひれ伏すはずなんだと。あんたの望む通りに世界が動けばいい。そんであんたが全部を飲み込んだら、そこは調和に満ちているってことだ」
 淡々とそれだけ述べて、銀は静かに廿楽を見上げる。
「まずはここに、俺がいる」
 ひたりと視線を受け止めながら、狂っている、と廿楽は思った。
「なんのために、お前はそんな」
「これが俺の宿命だから」
 確かめるよう銀は口にした。廿楽は応えない。干上がってしまったように、言葉が見つからない。
「俺を傍に置けよ、廿楽」
 凄むようにして銀が笑う。
「少なくとも俺はツラがいい。置いとくだけでも損させないぜ」
 廿楽の肌がちりちり痛んだ。銀から溢れ出す、目には見えない炎に焼き尽くされてしまうのではないかと思った。この美しい少年は狂ってしまっている。それは廿楽にも見て取れる。けれどこんなふうに、他人の熱を感じることが廿楽には初めてだった。
 廿楽はその熱を惜しいと思った。

「どうやって俺を神にするつもりだ」
 廿楽の低い呟きを、銀は聞き逃さなかった。顔いっぱいに喜色を浮かべて、勢いよく立ち上がる。
「そのへんは……一緒に考えようぜ! あんたのほうが頭良さそうだし」
「考えなしは変わらずか」
「うるせー! 俺とあんたなら絶対できるんだから、先に考えようと後から考えようと一緒だろ」
「やっぱ莫迦だな」
 廿楽は溜息をつく。
「教祖にでもなると良いと思ったが、その頭じゃ無理だな。見た目につられて寄ってくる阿呆も何人かいるだろうが」
「教祖?」
「俺を崇めればいいことがある、とお前がそこらの人間に教えてやればいい。信者がいれば俺も一応は神様ってことになるんだろ」
 銀は目を輝かせた。
「やっぱあんた最高だ! じゃあさっそくあんたの素晴らしさを広めに行ってくる!」
 駆けださんばかりの銀を、待て、と廿楽は慌てて止める。
「そのままじゃ頭のおかしいやつとしか思われない」
 うずうずと身を揺らす銀を呆れて見つめながら、廿楽は己を省みた。とんでもないものと関りを持ってしまったと、今更ながらに噛みしめる。
「なー、じゃあ俺はどうしたらいーんだ?」
 何を言うにも銀の声には遠慮がない。ずっと足元を気ままに泳ぎ回っていた蛙も、廿楽の膝によじ登って、愉快そうにゲロリと笑った。気が付けば雨も上がっている。もしかすれば、どこかに虹でもかかっているかもしれない。
 廿楽は蛙をつまみ落として立ち上がった。ひょいひょいと蓮を渡って、岸を踏む。並んで立てば、銀のほうがまだずいぶん背が低かった。
「とりあえず」
 廿楽は銀の手首を掴んで歩き出す。
「社の中の文献に全て目を通せ。まずは新宗教の設定を詰める」
 長く雨に打たれたというのに、銀の体は温かかった。勉強かあ? と銀は嫌そうな声を出す。けれど手首をぐっと握ると、銀は素直についてきた。手のひらから銀の熱が伝わる。廿楽の凍りついた部分が、そっとほどけていく気がした。
 この日をずっと待っていたのだ、と廿楽は思った。
 何かが始まる予感がした。



 ある小さな町の、とある中学校で集団自殺事件が起きた。
 自殺者はみな、同じ中学校の生徒である。町はずれの山の中腹の池の中で、水死体として発見された。この池は過去にもあった水死事故のため立ち入り禁止となっていたが、永らく放置されていたせいでフェンスは破れ、侵入することは容易であった。
 犠牲者のほとんどは女子生徒で、濡れて崩れてしまっていたが、顔には丁寧に化粧を施された痕跡があった。当初は思春期の女子生徒に時折起こる、集団心理の暴走の果ての痛ましい事件かと考えられていたものの、彼女たちの交友関係を洗い出していくと、一人の男子生徒の存在が浮かび上がった。犠牲者たちと同じ中学校の三年生。恐ろしく整った容姿を持つ少年で、名を深泥池銀といった。
 調査の結果、深泥池銀は学内において奇妙な活動(おそらくは宗教活動のようなもの)を行っていることが判明する。持ち前の容姿とカリスマ性で、面白半分の層を含めると学内にかなりの数の信者を抱えているようだった。そして、彼の「宗教」の聖地こそ、集団自殺の現場となったあの池だ。
 ある全国紙の取材班が、深泥池銀との接触に成功した。深泥池銀の顔色は蒼白に近かったものの、それさえもなお色香に変えて、聞きしに勝る美しい少年だった。記者の質問に言葉少なに答えた彼は、最後に犠牲者への追悼を求められると唇を強く噛みしめた。
「こんなはずじゃ……なんでだ。俺はあいつのために……だって……だから……」
「深泥池くん?」
 深泥池銀は俯いたまま立ち上がって、ぼそぼそと、同じ学校でこんな事件が起きて悲しい、と告げた。それから、大切な友人を失ったショックが大きいのでそっとしておいてくれ、と言い残すと、よろよろと立ち去った。
 事件に大変なショックを受けたにしろ、深泥池銀の錯乱と、直後のどこか機械的な話し方のギャップが記者の印象に妙に残った。取材班は少年の背中をじっと見送る。何かがある、と取材班の誰もが思った。何かが彼に。それもとびきりセンセーショナルな何かが、そこに。

 事件は現在もなお調査中である。

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