Et in Arcadia ego

霧雨50号
テーマ「SNS」
作者:ちょす
分類:テーマ作品


【有賀(ゆうが)side】
俺は今、二十数年の人生の中で一番と言ってもいいほどの窮地に立たされている。
事の発端はツイッターアカウントだった。日頃、俺はとある趣味のために作ったアカウント“@ARUKA”を使って趣味関連情報の発信や収集をしたり、仲間同士での交流を楽しんだりしていた。いわゆる趣味用アカウントというものだ。これといって大きなトラブルもなくSNSライフを満喫していたのだが、先日そのアカウントで呟いた内容が軽く炎上してしまった。その内容は趣味と全く関係ない時事問題について。ツイッター上で仲の良い人と話していた会話の一部が注目を集めてしまい、かなり拡散されてしまった。拡散されるだけなら別に構わなかったのだが、問題はその拡散された投稿に貼り付けていた写真だった。思いっきり自室が映った写真、しかも妻の奈々からプレゼントでもらったオーダーメイドのネクタイが映り込んでいる写真を広めてしまった。
つまり、どうなったかというと。
拡散された投稿を奈々が見てしまい、リアルで付き合いのある人には隠していた趣味用ツイッターアカウントの存在がバレ、話を聞きたくないと家を追い出され、帰る場所がなくなってしまったのである。趣味というのは日曜朝8時に放送されている女児向けテレビアニメ、「プイプイ☆キュアリズム」略してプイキュリのことである。主人公―甘咲いちごとその友達の3人で、人々のやる気の源であるプイプイパワーを吸い取る敵「ブラックアワーズ」を倒すため、魔法の力を借りて変身し戦い世界の平和を守る王道魔法少女ものだ。対象年齢は5歳前後。俺は30歳である。そして俺の本性は、主人公の幼馴染で魔法少女の一人である登場人物、花野あおいちゃんにベタ惚れし、以後周りに隠しながらプイキュリオタクとしての活動を行い、アニメ視聴はもちろんグッズまで手を出しかけているしがないおじさんなのだった。
ふらふらとマンションの階段を降り、歩いてきた道を少し戻ったところで我に帰って立ち止まった。道路を流れていく光が端に映った。革靴はすり減っていて、少し走っただけで破れそうだった。気付いていなかった。気付いていなかった事ばかりだった。
********
 深夜1時。俺は近場のネットカフェでビールを飲みながらスーパーの売れ残り惣菜をつまんでいた。
俺はアルコールで侵食された脳を必死に動かして、玄関にこだまして少しエコーがかかった奈々の言葉を反芻していた。あれは確か、仕事から帰ってきてすぐだった。
「ねえ、ちょっと話があるんだけどいいかな?」
「これ何?@ARUKA『あおいちゃんさいっっこう!!日曜朝が生きがい』」
「この写真に映り込んでるネクタイ、私があげたものよね?オーダーメイドだから、あなたしか持ってないと・・・思うんだけど。」
「あ、それは・・・うん。」
「でさ、このアカウントなんだけど、・・・えっと、・・・。ごめん。無理だ・・。」
「は、…ちょっと待って。プイキュリが好きなのは認めるけど、」
「そうやって言い訳するのはやめて。もういい!出てって、こんな人と一緒に暮らしたくない」
「はあ?ちゃんと話聞いてくれって!なんでそんな話聞かずにヒステリーになるんだよ!」
「うっ・・・・・うううっ・・・・」
奈々は泣いていた。俺も恥ずかしいやら悲しいやらで泣けるものなら泣きたかったが、奈々は靴を脱ぎかけていた俺の体を玄関のドアに押し当て、そのままドアノブを回し俺の体を外に押し出してきたものだから、拒むその勢いにショックを受けて言い返すことすらままならなかった。一瞬だった。
夫の知らない一面を知っただけで、そんなに勘当するほどショックを受けるものなのか?…いや、それは重々分かっていた。だからずっと隠していた。でも同時に、奈々は俺の趣味を認めてくれるんじゃないかとどこかで期待してもいた。プイキュリのストーリーを熱く語り合った人や、プイキュリの変身シーンについて持論を聞いてくれた人、・・・思い返すとキリがないほど、@ARUKAとして会話をした記憶が蘇る。奈々のことを否定する気はないが、@ARUKAとして出会ったネットの人たちはある意味では俺のことを「分かってくれる」人だった。けれどそれはぬるま湯に浸かるような行為だったのだ。事実、期待はあっさりと裏切られ、しかもぬるま湯に浸っていた報復かのような仕打ちまでくらっている。だが、新入社員時代、仕事に追われ死にそうになっていた時に偶然テレビで見て生きる勇気をくれたプイキュリと、面倒見が良く長年精神的に支えてくれた奈々。俺にとってはどっちも同じくらい大切なのだ。どちらかになってはいけない。ああ…、くそっ。
 それと、奈々の言い方が気になる。@ARUKAのアカウントは、奈々にとって「無理」なんだそうだ。一体何に対しての無理なのだろうか?対象年齢が低いものに熱中しているからだろうか?言葉の真意が掴めない。プイキュリとおっさんという年齢のミスマッチが原因だとしたら「自分、何歳だと思ってるの?全くありえないわ!」などと言われる気がするのだが…。とりあえず分かってもらうための話し合いをしないことには進まないので度々電話を掛けるが、着信拒否にしているのか繋がらない。
********
ネカフェでの生活はもうすぐ一週間になる。仕事が繁忙期に突入したため、話し合いに使える時間が生活の中に残されておらず事は依然として進まない。深夜に帰宅ならぬ帰ネカフェ、シャワーを浴び@ARUKAアカウントで夜な夜なツイッターを徘徊。忙しさと追い出されたストレスでほぼ寝ることができず、睡眠時間は毎日2時間程度となっていた。そして、徘徊していて気付いた。
線引きをするための線が見えていない人がいる。あんなに自由で楽しいと思っていた場所が一気に魔境に見えるようになった。
そもそも、俺は元からネットコミュニティに入り浸るタイプの人間ではなかった。@ARUKAのアカウントを使うのだって週に2、3回で、二次創作・・・既存の作品を元に、絵を描いたり漫画やゲームなどを作ったりする活動のことだ・・という概念を知ったのも、ネットやツイッター上でちょっと調べれば色んな二次創作が出てくるということを知ったのも、プイキュリに熱中し始めてからだった。ファンが妄想で作った原作にないストーリーや可愛い画像ならいくらでも見れる。ストーリーが上手い話はついつい読んでしまうし、上手で綺麗な絵は見入ってしまう。そうやって、普通、そうあくまでも普通に「好きな子の新しい一面を知りたい」「他のファンの解釈が知りたい」という純粋な気持ちで二次創作物を楽しんでいた。
その二次創作が性的欲求解消の目的で作られていたり、プイキュリに対して欲情する人がいたりすることなんか知らずに!
ツイッターを徘徊していると、大量のプイキュリ成人向けコンテンツと遭遇した。プイキュリたちは創作物や会話の中で、縛られていたり、全裸だったり、おじさんと行為に及んだりしていた。信じられなかった。正直言って気持ち悪いという感想だった。女子中学生相手に性行為をしたいと思ったことはない。若い方が良いなどと言っても犯罪になるような年齢は対象外だ。いくら二次創作とは言え、その見境はついていると思っていたのに。いつも真っ直ぐ未来だけを見ていて芯が通っているあおいちゃんが、犯されながら罵られて将来を全否定されていた時は思わず画面を閉じてしまった。プイキュリの登場人物の中で誰が一番相性が良さそうか議論しているところに出くわした時は、どうかこの人たちは中学生か高校生であってくれと願った。(その後、プロフィール欄を見る限りではおじさんっぽくて絶望したのだが)むしろ今までどうやってこれらの会話や創作物を見ずに済んでいたのか不思議なくらいの情報量だった。当たり前のようにそういった情報は垂れ流しにされていて、性別も年齢も不明のアカウントが呟きまくっている。奈々が@ARUKAのアカウントを見た際に、ツイッターの関連情報を表示する機能など、何かしらのきっかけで成人向けプイキュリ趣味の世界を覗いてしまい、俺もそっち側の人間であると勘違いしたのかもしれない。ありうる話だ。となると、早急に誤解を解かなければならない。
********
 問題の原因は、推測通り奈々の勘違いによるものだったようだ。一週間と二日をネカフェで過ごしたあと、仕事を無理矢理早く切り上げてアパートに押しかけた。話を聞いてくれるよう頼み込み、リビングに上がらせてもらうことができた。できる限りの懇切丁寧な説明をした。決してプイキュリを性的な目で見ていないから安心してくれ、ほら今までの投稿に性的コンテンツは含まれていないだろう・・・、だから分かってくれ、こんなことでお前と離れたくない。そうやってとにかく必死に説明し、何とか趣味を受け入れてもらうことができた。まあ実のところ本心は分からなかったけれど、その後大きなトラブルはなく時は過ぎたので、全ては落ち着いたのだろうと思うことにした。俺はもうすぐ40も半ばになる。俺たちの子供は先日13歳になった。日曜の朝は娘と一緒にプイキュリを見ている。奈々は「あんたたちどっちももうプイキュリ見る歳じゃないでしょ」と言いつつも黙認してくれている。娘はそれほどプイキュリに興味を持っていないので、恐らく映像が流れているからという理由で適当に見ているだけだとは思うが。
@ARUKAアカウントは健在だ。・・・@Arcadiaとして。
最近の話題はもっぱらあおいちゃんの強姦シチュエーションについてである。
あおいちゃんの胸のサイズは娘ととてもよく似ている。
発達途中の決して平らではないその膨らみを見るたびに、俺はあおいちゃんと娘を重ねずにはいられない。今度は現実世界のアカウント、言うならば@有賀として振る舞っている自分がいつか暴かれてしまうんじゃないかとヒヤヒヤしながら、今日もまたツイッターを開き、自由で恐ろしい言葉の楽園へと身を投げる。
怯えながら過ごす日々は快適とは程遠いのに、抜け出せない。

【奈々side】
私の旦那は、女児向けアニメオタクだと思う。
それとなく勘づいたのは結婚する前だった。有賀のスマホのロック画面にツイッターの通知が表示されていて、そこに「明日のプイキュリはリアルタイム視聴ですか?」というメッセージが表示されていたのだ。疑わしくはあったが、結婚を目前に控えており事を大きくするような火種は無くしたかったので無視することに決めた。プイキュリを見ていることに驚きはしたものの、見るくらいならまあそういう趣味もありだろう・・・浮気とかではないだろうし・・と、浮かれていたからか仕事で疲れていたからか深掘りする気にはならず、詮索することはなかった。
********
拡散された@ARUKAのツイートを見てアカウントが旦那のものだと分かった途端に、魔がさした。プイキュリを見る成人男性は、ネットの世界では多数派なのだろうか?他にもそういう人は居て、ファン同士仲睦まじく交流しているのだろうか?ある日、仕事から帰ってきたあと、リビングのソファに腰を下ろして@ARUKAのアカウントにあった#プイキュリ好きと繋がりたいなどのタグで検索して色々と調べてみた。すると、仲睦まじいなどではないコミュニティの在り方が見え始めた。@ARUKAは、自分の考え方と合わない人を猛烈に批判していた。あおいちゃんが@ARKAの推し(一番好きなキャラ)らしいのだが、主人公のいちごちゃんが推しと言い張る人に対してあおいちゃんの魅力を一方的に語り、意見を押し付けていた。かと思えば、自分と感覚や意見が合う人に対しては過剰なほどに友好的になって、リプライ(オープンチャット)を大量に送ったり、DM(個人チャット)でのやりとりも頻繁にしているようだった。私は有賀の柔和で誰にでも平等に接するところが好きなのに、これだとまるで別人じゃないか。現実で演技しているのか?と疑いを持った瞬間に、張り詰めていた糸がプツッと切れたみたいに、一気に虚しくなった。私だって、そりゃあ女友達と接する時と有賀と接する時とでは態度が違う。でも、別人に見えるほども違わない。視界が滲んだ。止めようと上を向くと照明が眩しすぎたので結局下を見ることになった。ソファも滲んで、やがて染みができた。くっきり見えた。染みが鮮明に見える照明なんかいらない。やけに張り切った明るさの中で、時間だけがただ流れていった。
玄関の向こうから足音がした。私はスマホを握りしめ、画面に@ARUKAのアカウントが表示されていることを確認してから玄関に向かう。
「ただいまー」
********
「本当にごめん!何度も言うけど、俺はプイキュリに興奮してるわけじゃないんだ。分かって欲しい。」
…分かってます。@ARUKAのアカウントで性的な発言したことないの、知ってるから。
「辞めることはできないけど、でも絶対迷惑かけないから。」
…分かってます。でもね、私が悲しいのは、あなたの@ARUKAの人格が現実と一致してないって事なの。
全然迷惑なんかじゃない。迷惑なんかじゃないけど、あなたにとっての自由ってネット上にしかないの?普段の姿は偽りなの? 言えなかった。言ってしまうと、有賀はきっと私から離れていってしまう。多分本当の有賀は@ARUKAだ。私が突き放すともうここには戻ってこない。人格が違うのはとても嫌だが、有賀を追い出してから気がついた。本当は離れてしまう方が嫌だった。明かしてはならない真実が明るみに出た時、悪いのは真実を明かした側なのだ。私は「…うん、分かった。気にしないで、ちょっとびっくりしてただけだから。」のような場を治める言葉を、心のどこか柔らかいところを削るようにして言った。苦しかった。性的かどうかであなたを追い出してしまった訳じゃないのよ、とは言えなかった。
********
有賀―旦那は、まだプイキュリを好きでいる。
私は、@ARUKAが@Arcadiaに名前を変え、成人向けコンテンツに手を出し始めたことを知っている。
私は、娘を見る目線のそれが、たまに、性的対象としてのものだということを知っている。
でも、優しくて頼れる夫という表向きの顔に対してできることは、何もない。SNSコミュニティが彼にとって自由だと言うのなら、それでもいいじゃないか。娘に危害が及んでいるわけでもないし、私に対し冷たく当たることもない。見過ごすという行為は酷く心を消耗するが、仕方ない。

アルカディアというのは古くローマに伝わる楽園の地である。
Et in Arcadia ego ―楽園だからといって、人は死から逃れることはできない。

無力な私はただ、@Arcadiaが死ぬ瞬間を今か今かと待ち侘びている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?