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聖アンデレ(2-H) 三位一体の謎 ~イエスの神格化

 キリスト教徒でない者にとって、キリスト教の(特に、西方教会の)「三位一体」(父なる神、子なるイエス、聖霊)という考え方は、なかなか理解しがたいものがあります。史上初めて「三位一体」という言葉を使ったのはカルタゴのテルトゥリアヌス(160頃~220頃)と言われています。当時は、キリスト教の教義がつくられていく時期に当たっており、イエスの聖なる性質をめぐって、人間であるキリスト教徒同士が激しく対立するようになります。当然、イエスの没後に始まる対立を、生前のイエスが把握していた訳がありません。 

この章では、聖アンデレがイエスをどのような存在として捉えていたかを把握するため、こういった後世に造られた神学論争の影響を受けずに、(1)イエスは自己をどのように位置づけていたのか、その上で(2)キリスト教と他宗教におけるイエス像の違い、そして(3)イエスはどのようにして人間としての性質を一切持たない神として位置付けられるに至ったのかを検証したいと思います。

イエスの自己認識

まず確認すべきは、前述の「シェマーの祈り」申命記(6:4~5)です。イエスが最重要視した律法と伝えられています(マルコ福音書12:28~30)。
 

イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ。
(申命記6:4~5)

主なる神と直接交信できる存在というのは、神が自由に選択する以上、異邦人や宦官を含めたすべての人類です。イエスもその一員ですが、だからと言って、この点において特別な存在であると自認していたわけではありません。先述の通り、終末に対しての考え方において、イエスは、神の意向に従うしかないことを深く認識しています。イエスは、自分が終末において他の人間と異なる特別扱いをされるとは考えていないのです。当然、神と同格である(二神が存在する)といった主張には異議を唱えたでしょうし、自分がその「第2の神」であると言われたら、激しく否定したことでしょう。
 

ユダヤ教・イスラム教におけるイエス

先ずユダヤ教におけるイエスについては、先述の通りで、イエスは、人間の一人にすぎません。先に見た通り、古くから伝わるタルムードの中では、神の教えに反した存在、地獄に落ちた愚者として扱われています。根拠はいろいろと挙げられますが、2番目の神になろうとしていると思われ、反発を呼んだことも原因の一つでしょう。
 
イスラム教においては、イエスは「イーサー」と呼ばれ、イスラエルの子らを新しい啓示に導くために送られた特別な預言者と位置付けられています。ただし、イエスが神であるという点は否定されています。 

啓典の民よ、おまえたちの宗教のことで度を越してはならない。また、神について真理でないことを一言も言ってはならない。
メシヤこと、マリヤの子イエスは神の使徒であり、マリヤに授けたもうた神のみことばであり、神より出た霊である。それゆえ、神とその使徒たちを信ぜよ。けっして三者などと言ってはならない。やめよ。それがお前たちにとって最も良いことである。
神は唯一なる神。神を讃えよ。神に子供があってよいものか。
天にあるものと地にあるものは、すべて神に属する。保護者は神だけで充分である。たとえメシヤであっても、神の僕(しもべ)であることに不服はないはず。おそば近くの天使たちにしても同様である。
(コーラン「女人の章」171~172)
(同様の内容につき、コーラン「食卓の章」72~75等も参照のこと。) 

ユダヤ教の唯一神の思想は、ネストリウス派キリスト教を経由しつつ、イスラム教に引き継がれています。つまり、神はただ一つしかなく、キリスト教的な、神と同格のキリストを認めないという点において、これらの宗教は同じ立場に立っていることが分かります。このムハンマドの理解は、イエス自身の信条(シェマーの祈り)や終末観から考えるに、イエス自身の理解とも共通していることが分かります。イエス自身も、自己を神として位置付けることは否定したことでしょう。
 
つまり、イエスが信仰していた(つまり、キリスト教の発祥の礎となった)ユダヤ教と、キリスト教をさらに発展させたと自らを位置付けるイスラム教の双方が、イエスが神であることを否定していることになります。しかし、それでも、これらの思想の結節点にあるはずの「正統派」キリスト教においては、イエスを神と位置づけています。

経済学において「カール・マルクスはマルクス主義者でなく、ジョン・メイナード・ケインズはケインジアン(ケインズ学派)ではない」と言われることがあります。後続の人間によって先達の姿が神格化され、その人物像だけでなく思想や主張までもが変形して伝えられてしまうことは、人間の世界ではしばしばみられる事象です。同様の神格化・偶像化がイエスについて生じた可能性はあるでしょう。
 
キリスト教徒は、ユダヤ戦争を契機にユダヤ教から独立を図る中で、教義にユダヤ教の要素を受け入れつつも、両者の違いを打ち出すことに腐心しました。また、ローマの国教として相応しい教義を整備していかなければならないという人間的な要請の下で、キリスト教徒は、ローマの習俗や神々を受け入れながら、勢力拡大のための布石を打たなくてはなりませんでした。
 
イエスの神格化が進んだとしたら、1世紀後半から4世紀にかけてキリスト教が社会的認知を高め、政治的権力と結びついて発展したこの時期に、当時の人々が積み重ねた議論によってなされたものと考えて良いでしょう。
 
なお、人々の議論で決まっていったということからは、(1)その議論が行われた時代背景、(2)議論をした信者たちの立場、(3)信者たちの地位・権威をめぐるポジション争い、そして(4)聖なるもの(特に「神」)に関する認識の違いなどに留意することも必要となるでしょう。
 

天使としてのイエス

イエスは、イエス教団の弟子たちや初期のキリスト教徒からは、神ではなく天使と同等のものとみられていたようです。

イエスが彼の弟子たちに言った。
「私を(誰かに)比べてみなさい。(そして)私が誰と同じであるかを言ってみなさい。」
 シモン・ペテロが彼に言った。
「あなたは義なる御使(天使)と同じです。」
(トマス福音書13節)

ステファノは、イエスを「人の子」と呼び、神の右に立っていると幻視しています。

ステファノは言った。
「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える。」
(使徒行伝7:56)

イエスは自らを「人の子」と呼んでいましたが、それはあくまで「神とのつながりを自覚した人間一般」という意味で、一般的な名詞としての用法でした。しかし、弟子たちや後世の信徒たちは、この用語を「神とつながっている天使のような存在」として利用することで、イエス像を変化させていきました。(歴史的な存在としての)イエスという柱を失った上で、なお、(教義上は)イエスを中心とした布教を行うために、権威主義化とイエスの神格化が同時並行で進んだことが分かります。
 
イエスをキリストとして神格化していく動きについては、幸いにいくつか記録が残っています。例えば、聖パウロの手紙を見てみましょう。
 
54年頃に書かれた「フィリピ人への手紙」には次のように書かれています。イエスはキリストであり、神のNo.2だと主張しています。

キリストは、神と同じであられたが、神と等しくあろうとはせず、
自らを虚しくして僕(しもべ)のかたちをとり、人間の姿になられました。
そのありさまは人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、十字架の死に至るまで従順であられました。
それゆえに、神はイエスを高く引き上げ、すべての名にまさる名(キリスト)を彼に賜わったのです。
それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためです。
(聖パウロ「フィリピ人への手紙」2:6~11)

元々は敬虔なユダヤ教徒であった聖パウロにとって、この主張は2神を認めないギリギリの主張であり、イエス自身の主張(シェマーの祈りの重要性の強調)とも異なっていると批判されかねないことは重々理解できていたはずです。そのため、このような記載は確信的に書かれたものであることが分かります。そして、逮捕直前に書かれた「ローマ人への手紙」(56年頃)では、天使たちですらキリストを止めることは出来ないばかりか、キリストは天使を裁くと、イエスの権限がさらに強いものとされ、強調されるようになりました。

わたしは確信しています。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
(聖パウロ「ローマ人への手紙」8:38~39)

あなたがたには分からないのですか。わたしたちは、御使(天使)をさえ裁く者なのです。
(聖パウロ「ローマ人への手紙」6:3)

草創期のキリスト教会においては、イエスの地位の更なる引き上げが画策され、イエスが神の地位に到達していきます。

 

神は御子(キリスト)を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られました。・・・御子は、御使い(天使)たちよりも優れた名を相続なされ、彼らよりもすぐれた者となられたのです。
(「ヘブライ人への手紙」1:2~4)

 

この「ヘブライ人への手紙」では、この後、キリストが天使たちよりも優れている理由を列挙し、イエスが天使に勝ること、天使よりも優れた存在であることが、ことさらに繰り返し強調されています。

 これらの書簡から分かることは、このような注意を文書で行い周知していかなければならないほどに、信徒たちが、イエスを天使と同様の存在と認識していたということでしょう。2神が存在しない以上、当然の解釈と言えます。

 また、イエス・キリストは、キリスト教の広まりとともに、それまでの図像で大天使ミカエルが担っていた機能を肩代わりするようになります。すなわち、死後の魂を天国や地獄に振り分ける係、龍や蛇を退治する係、そして、ローマ皇帝の守護者といった立場などが、大天使ミカエルからイエス・キリストに置き換えられていきました。このため、当時の人々が、こういった置き換えられ方(または、大天使ミカエルとイエス・キリストの習合)を見て、イエスを大天使と理解したのも無理はないのです。

 理論化に向けた人々の論争

 さて、アンティオキアのルキアノス(240年ころ~312年)と、その弟子であるアレクサンドリアの司祭アリウス(アレイオスとも。250年ころ~336年)は、厳格な一神教信仰に立ち、「神だけが神であり、子は神ではない。子は存在しなかった時があり、子と神は異質である。また、父は創造者であるが、子は、他の被造物と同じく、先在において神の意志によって無から造られた。従い、神とキリストは同質ではない」と主張しました。非常に論理的ですし、キリストを大天使して捉える見方の集大成と言ってもよいでしょう。

 しかし、この主張は、イエス(子)は、神(父)と同質であるとするアレクサンドリアの主教アレクサンドロス1世や、その輔祭(後の大主教)アタナシオスたちとの間で、激しい論争を惹き起こします。

 「325年第1回ニカイア公会議が開催され、アリウス派が異端とされた」と歴史の授業で習った方も多いでしょう。この公会議は、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世によって開催されました。コンスタンティヌス1世は、312年にキリスト教徒となり、313年に信教の自由を認めるミラノ勅令を発布してキリスト教を公認した人物です。

 なぜ、この会議、ローマ皇帝が主催者となったのでしょうか。

 それは、コンスタンティヌス帝が、キリスト教を統治のために利用しようとしたからです。アタナシオス派の主張は、優れた人間(神に選ばれた人間)が、なんらかの形で神と一体化する可能性を認めています。アリウス派は、これを認めていません。つまり、皇帝の権威を高めるという目的にとって、アタナシオス派の三位一体説は都合よく、アリウス派の主張は不都合だったのです。

しかし、この325年第1回ニカイア公会議の後でも、アリウス派を異端とする決定は、長い間すべての教会が受け入れるものとはなりませんでした。アリウスの論理的な説明を政治権力によって覆すことへのためらいがあったのでしょう。

そこで、ローマ皇帝テオドシウス帝は、380年にキリスト教の国教化を認めるとともに、翌381年に第1コンスタンティノープル公会議を開催し、アタナシオス派の主張を改めて正式採用し、「父と子と聖霊は本質において同一である」と三位一体説を完成させ、キリスト教の正統として確定させました。その後、さらに392年にキリスト教以外の宗教、つまり、それまでの伝統的なローマの神々や、ミトラ教の太陽神信仰などを禁止し、国家権力をもって宗教の一元化を図りました。

なお、副次的な結果として、多くの伝統的な神々がキリスト教信仰に取り込まれて生き残り、習合することになりました。例えば、(イエスの誕生を記念する)クリスマスが、冬至の次の日とされ定着したのもこの時期です。こういった習合をニーチェが批判したことは先述の通りです。

 このような過程を経て、イエスは使徒から天使に、天使から神へと、キリスト教内では位置づけを向上させていきました。そして、キリスト教も、その教義における唯一神信仰も、他の宗教とは異なる形で発展することになったのです。

 

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