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「粋」と「通」

 男の人生には様々な出会いと別れがあり、その繰り返しを経て精神的に成長するものである。

 だがここに、出会いと別れを繰り返したところで微塵も成長せず、別れの挨拶代わりに平手打ちを食らう男がいた。

「くっそぉ……およしの奴、ちょっと他の女に声かけたぐらいで引っぱたくこたぁねぇだろうよ」

 もまだ昇りかけという明け方に、細い女の手形を左頬に残した伸子しんし売りの三吉さんきちは、ぶつくさと恋人への恨み言を絶えず口にしながら、寝床である裏長屋へと続く通り道を闊歩していた。

 三吉がお芳に平手打ちを食らったのは、お芳と二人で連れ歩いている最中だというのに平然と往来で擦すれ違っただけの女を口説こうとし、さらにそれが原因で痴話喧嘩を始めた挙句に、

「この程度の男の粋を受け入れられないようでは、江戸の女じゃない」

などと上方生まれのお芳を相手に口走ってしまったが故である。

 それまでに何度も自分の生まれと育ちを三吉に語っていたお芳は、そのひと言で激昂した。よく火事場の馬鹿力と世間で言われているが、悋気で馬鹿力が出せる女もいるらしい。お芳はなんと、女ひとりの膂力りょりょくで居酒屋の床几しょうぎを持ち上げ、三吉の脳天めがけて振り下ろしてきた。

 お芳は三吉の裏長屋を知っていたので、先回りされ待ち伏せに在っては堪ったものではないと考えた三吉は、ほとぼりが醒めるであろう明け方まで、江戸中を駆け逃げ回っていたのである。

 頬を叩かれたのが夜半前だというのに、未だに手形がくっきりと残っているあたり、お芳の怪力は底知れぬものがあるのかもしれない。

 三吉は、江戸の裏長屋で伸子を作っては売り捌いて生活している。

 伸子とは伸針しんはりとも呼ばれている竹串であり、洗い張りした洗濯物の両端に引っ掛け、或いは手挟み、布をぴんと引き張らせるために使う道具である。一反いったんの布に幾重も掛けて伸ばすこともあれば、布地の両端のみに使われることもある。

 作るのが比較的容易だから、当然値が張るようなものではなく、数束から数十束をひとまとめで数文という程度の稼ぎにしかならないが、三吉は自ら望んで伸子売りを続けている。何故かといえば、伸子が必要とされる洗濯をするのは亭主持ちの女房か身分のある人間に仕える小女、そうでなければ洗濯や染物の手口を教わっている若い女が大半であり、女好きの三吉にとっては分相応の転職と言えたからである。

 故に実入りが少なかろうと、伸子売りを辞めたいと思ったことは一度も無い。

「さすがに、もう手前ン処とこに戻っているだろうが」

 隠れて待ち伏せていたとしても、気配でわかる。

 逃げて引き離すのは簡単だが、追い回され詰め寄られるのが面倒なのだ。

 三吉は生粋の江戸っ子ではない。

 元々は、江戸から遠く離れた田舎の里で忍びの修行を続けていたのだが、飢饉による口減らしのために村を追い出され、江戸に流れ込んできた若者たちの一人である。

 幼い頃から培ってきた忍びの技術を悪用し、江戸の治安を悪化させかねない輩など、本来ならば江戸に入ることを認めぬというのが公儀の立場である。しかし、折からの飢饉と公儀の対策不備、さらには相互監視などの条件を申し出た地方各所からの嘆願たんがんにより、限定的な試みとして秘密裏に居住を認められた、数少ない人間である。

 もっとも、里側も人選についてはそれなりに配慮しており、江戸に入るのは忍びとしての能力に劣った者か、そうでなければ何かしらの問題を抱え忍びとしての任務を果たせそうにない連中ばかりを選んでいた。

 三吉もその一人で、江戸に入るまでの間に里の人妻に手を出したことが暴かれ、村八分の目に遭っていたところを救われ、江戸に向かう道中でも女絡みの騒動を起こして粛清されかけるという、凄まじい経歴を持つ女好きである。

 そのうえで江戸に流れ込み、暮らし続けるうちに江戸の気風が骨の髄まで染み込んだ三吉にとって、「粋」で「いなせ」であるということは女にもてる……ことと同一の意義を持ち、法や家訓を守ることより大切な人生訓となっていた。

 如何に己を粋に見せるか、如何にすれば女からの視線を独り占めできるか、そればかりを考えながら生きているに等しい。

 生まれこそ江戸から遠く離れているが、心は江戸っ子そのものであるという気概は誰よりも強いと自負している。

 しかし、その気概を示すべく刺青を彫ろうとしたものの、こんな肌には彫れぬと彫り物師に断られたことがあった。言われてみればその通りで、三吉は項から腰のあたりに掛けて、修行時代に負った無数の傷が残っているのである。

 斯くして刺青こそ彫れぬものの、江戸の女は「粋」で「いなせ」な男に惚れるものだ、と三吉は常々考えている。そして裏長屋に住む他の連中に比べれば、自分は男前であると自惚れてもいる。

 長屋の端に住むピンゾロの丁助は始終眼を血走らせ、商売以外では人を寄せ付けないし、目鬘めかつら売りの猪松は丸顔で愛嬌があると言えなくもないが男前と呼べる顔ではない。暦売りの平太は反そっ歯でへらへらしているし、足按摩の丑は鼻っ柱に大きないぼがある。

 どう贔屓目に見ても、まともな女なら目鼻立ちが整った自分を選ぶに違いないと日頃から嘯いているが、斯く言う三吉も女の前では顔が緩んでだらしない様を晒すことがしばしばで、それを丁助たちから「鼻の下が伸びている」と揶揄されていることは知らない。

 粋であろうという心掛けは身だしなみにも表れており、今日は藍鉄らんてつあわせ黒紅梅くろこうばいの羽織、柳茶の帯に本田髷と、己の身の程と世間の流行との折衝を繰り返して編み出した、いで立ちである。

 三吉の稼ぎの大半は、これらの衣装や身だしなみに使われ、残りの半分は女との遊興に費やされているのだから、家賃に支払う分の金など残っていよう筈がない。

「三吉っつぁん」

 時折打ち付ける玉風たまかぜに身を震わせながら、どうかお芳が居ませんようにと神田稲荷に願を掛けつつ歩いていた三吉は、背後から掛けられた男の声に足を止め振り返った。

「なんだよ、またやらかしたのかい?」

「おめぇか」

 九十九久兵衛つくもきゅうべぇ

 今は町人の格好をしているが、侍として奉行所の門をくぐっているところを見たこともある、いわゆる隠密の一人である。

「その手形、お芳ちゃんが拵えたもんだろう?」

厭味いやみを言いやがる。見ていたくせによ」

 九十九久兵衛の任務は、三吉らの裏長屋に住む、忍びとしての修行を積んだ者共の監視である。

 しかし裏長屋の住人たちもまた自分らを監視する視線に気づいており、秘かに情報交換を行ったうえで監視者を炙り出す罠を用意した。

 その罠に引っ掛かった唯一の隠密であり、どういうわけか正体を知られてからは悪びれもせず堂々と三吉らに接触してきたのが、この九十九久兵衛なのである。

 本人の弁では、これでこそこそと隠れる必要が無くなったので、かえって清々したらしい。

「なあ三吉っつぁん。お芳ちゃんから逃げてほとぼりが醒めるまでの間、暇だろう?」

「金なら無ぇぞ。あったとしても、おめぇに貸すつもりは無ぇ」

「あんたに借りるようなら俺も終いだよ。実は、ちょっとした儲け話があるんだよ」

「付け馬の手伝いか。それとも陰間の痴話喧嘩の仲裁か。行き倒れ担いで無縁仏にってぇんなら、ちょっと待ってくれ。臭いが移っても平気な服に着替えて来るからさ」

「着替えなくていいよ、三吉っつぁん。手伝ってもらいてぇのは失せ物探しだからさ」

「失せ物探し?」

 お芳がまだ頑張っているかもしれない裏長屋に帰るのは、遅ければ遅い程良い。

 そのうえで儲け話というのであれば悪くない。

「おめぇ、何か落としたのか」

「俺じゃねぇよ、土佐守とさのかみ様の落とし物さ」

 へぇっ、と三吉は驚きの声を上げた。

 小田切土佐守こと北町奉行、小田切鉄之丞直年てつのじょうなおとし

 大阪奉行と遠国奉行にも就いた経歴を持つ大物であり、就任前から悪化していた江戸の治安を正常と呼べる程度にまで回復するよう厳しい取り締まりを断行した半面、度の過ぎた刑罰は斟酌しんしゃくし、ややこしい背景を持つ事件も投げ出さず根気よく正面から取り組む生真面目さも持ち合わせていたので、江戸っ子からの評判もすごぶる上々な町奉行として知られている。

「いいかい、三吉っつぁん。北町奉行様直々の御頼みなんだぜ。しかも貰える報酬は安くても一両二朱が確約されているんだ。こいつに乗らなきゃ男じゃないぜ」

「その前に、何を探せばいいのか教えろ」

「そいつは、引き受けると言ってくれねぇ限りは教えられねぇな」

「それじゃあ無理だな。本当に失せ物かどうかもわからねぇなら、そう易々と引き受けられるもんかい」

「いや、いやいやいや」

 再び歩き出さんとする三吉の前に回り込んだ久兵衛が両手を振る。

「そんなに怪しい話じゃねぇから。もし誰かが拾っていたら、そいつを取り返す手伝いをしてくれるだけで良いんだ。迷惑を掛けるつもりはねぇよ」

「それが迷惑だって言ってんだよ。こいつは土佐守の頼みじゃねぇな、おめぇの独断だろう。おめぇだって、俺たちン処とこの長が公儀に何を約束したのか、知らねぇはずが無ぇだろう。そのことについてはおめぇ以上に詳しい北町奉行が、まさか盗みを手伝えなんて言うわけがねぇからな」

「そうじゃねぇ。奪い返すのは俺の仕事だよ。三吉っつぁんは失せ物探しを手伝ってくれるだけで良いんだ」

「北町奉行の失せ物探しなら、奉行所の役人なりその手下なりを使えば済む話じゃねぇか。なんで俺なんかに頼むんだよ」

「公儀の仕事じゃないからだよ」

「じゃあ、なんで公儀隠密のおめぇが関わってんだ」

「市井の混乱を未然に防ぐためだよ」

 どうにも要領を得ない。

 三吉は、未だ手形の残る頬に己の手を当てた。

 矛盾しているような、そうでもないような、狐に抓まれたような頼み事である。

「わかった。引き受けよう」

 土俵際での鬩ぎ合いの末、最後の最後で江戸っ子としての気概きがいが、執拗に保身を命ずる三吉の心にうっちゃりを決めた。

「それで、失せ物というのはなんだ」

「但馬の柳行李だ。底に編み込まれた藤弦で蓋を抱え込んでから結び目を作り、しっかり固定する造りになっている」

「中身は」

「書類だ。何が書かれているかについては俺も知らねぇ。ただ巷間に晒すわけにはいかねぇ内容なんだそうだ」

 おい久兵衛と言いながら、三吉は渋い顔で己の頬から手を離す。

「おめぇ、俺がそいつを奪い取って土佐守を強請るとか、そういうことをやらかすとは考えなかったのかい」

「そんなことをすれば、あんたのお仲間が黙っていないでしょうが」

 確かに久兵衛の言う通りである。

「土佐守が私用で受け取る予定だった知人からの荷物を、代理として使いに出されていた奉公人が失くしてしまったらしいのさ。それで俺たち隠密が、失せ物探しを押し付けられたというわけだ」

「その奉公人は、どこで行李を失くしたのか覚えてないのか?」

「覚えているようなら探しに行ってるよ」

「何故そうしない?」

「その奉公人が嘘を吐ついているかもしれないからさ。行李ごと何処かに隠し、後で土佐守を強請ろうとしているかもしれねぇ」

 書類には、町奉行が強請りに応じるほどの価値があるということか。

「盗まれたのかもしれねぇな」

「だから俺たちが動いているんだよ、三吉っつぁん。たとえば火盗改にでも拾われてみろ、どう足掻いても土佐守の元には届かなくなっちまう」

「確かに」

 言われて三吉は苦笑した。

 火盗改こと火付盗賊改方は、放火や押し込み強盗などといった凶悪犯罪を専門的に取り締まるため設置された役職であり、江戸の治安を守る町奉行の権限が及ばない。町方と火盗改とは格別仲が悪いわけではないが、火盗改が入手した私物が、本来の受け取り主である土佐守の元に何事もなく返されるとは到底思えない。

「火盗改ならまだましかもしれねぇ。世の中には土佐守を逆恨みする悪党だってごまんといやがらぁ。だから事態がややこしくならねぇうちに、助っ人を頼みに来たってわけさ」

「助っ人だけなら、俺以外にも頼める奴はいるだろうよ。丁助や猪松はどうだ?」

 ピンゾロの丁助、目鬘売りの猪松も、三吉と同様に郷里で忍びとしての修行に明け暮れていた男たちである。もっとも猪松だけは、他の面々と比べると能力面で劣ってはいたが。

「丁助の奴は、ここんとこずっと留守だよ。大方、博打で大儲けした金を使い込みながら賭場に入り浸っているんじゃないかな」

 その渾名が示す通り、丁助は病的なまでの博打好きである。たとえ賭博で良い目を出したとしても、それで得た金を残らず博打に注ぎ込んで摺ってしまうまでは、賭場から離れようとはしない。

 それならそれで賭場まで乗り込んで頼む、という手もあるのだろうが、丁助が賭場に赴く際には、決して己の足跡を残さない。仲間だろうと隠密だろうと完全に撒まいてしまうので、その足取りを掴つかむのは不可能である。

「猪松は?」

「葛屋の御隠居に頼まれて、九十九里浜で人捜しだとさ。鰯の刺身がたらふく喰えると大喜びだったそうだぜ」

 三吉らと同じ郷里の出身であり、忍びを引退してから江戸に移り住んでいる御隠居こと葛屋惣兵衛は、裏長屋の住人たちの面倒を見てくれる数少ない協力者の一人だが、それ故に隠密からの監視を受けている。

「なあ、三吉っつぁん。あんたの腕と気風きっぷの良さを買って頼んでいるんだよ。男伊達で知られたあんたなら、公人が正道を務めるに難儀しているところを見捨てるような真似はしないだろう?」

「まあ……なあ」

 三吉と九十九久兵衛は、ある意味では因縁浅からぬ仲である。

 裏長屋の住人たちが仕掛けた罠に引っ掛かり、炙り出されて逃げ出そうとした久兵衛に追い縋がって捕まえたのが、他ならぬ三吉なのだ。

 その経緯から、三吉も久兵衛も、お互いが敵に回れば厄介な存在になることは重々に承知しているつもりである。

「しかし、いざという時には俺より大家の方が役に立つと思うんだがなあ」

 大家とは、勿論裏長屋の大家である献残屋伝次郎けんざんやでんじろうのことである。

 家賃を滞納してばかりの三吉は、伝次郎を煙たがってはいるものの、その腕っぷしと忍びとしての腕前が彼に遠く及ばないことぐらいは自覚している。

 三吉のぼやきに、しかし久兵衛はへっへっと急に下卑た笑みを浮かべる。

「その伝次郎さんが、三吉っつぁんに任せろと言ったんだよ。報酬の一両二朱から、滞っている家賃を天引きさせてもらうってさ」




 三吉らの住んでいる裏長屋には、左源堂魔巻さげんどうまかんという仰々しい名前の易者がいる。

「それから、どうなったのだ」

 長屋の板間に敷かれた煎餅布団に半身を沈め、愛妾ならぬ酒徳利を抱いた左源堂魔巻は、陽も高いうちからの寝酒で真っ赤になった顔を隠そうともせず、三吉に話の続きを促した。

 長身に総髪、関公や鍾馗も斯くやと思えるほどの見事な長髭ちが顔の下半分を覆い、その先端は布団に届いている。

 齢は三吉よりも上の筈だが、江戸に入ったのは同時期。

 本業は易者であり、表に出る際は宗匠の如き優雅且つ清潔感のある一張羅を身に纏まとっているのだが、裏長屋の自室では粗末な襤褸を重ね着するだけである。

「いや、俺はあんたに話をしに来たんじゃなくて、占ってもらいに来たんだよ、先生。これ以上何か話す必要があるのかい?」

「占うかどうかは儂が決める。そもそも、今日は占術を行わぬ日と前々から決めておったのだ。占う者が占わぬと決めていたことを、頼み込んででも占わせようとするお前が悪い」

 左源堂魔巻は、働く日よりも働かない日の方が多い。

 その占いは的中すると評判ではあるのだが、魔巻本人に言わせると「必中」と呼べるほどのものではなく、また連日のように同じ場所に座っていては、ありがた味が薄れてしまうので、わざと働かない日を設け、また居場所を変えているらしい。

 もっとも、場所を変えるのは別の理由がある。

 客の中には占いの卦ばかりを気にして努力や奮起を放棄する人間もいれば、外れた時には易者を逆恨みするような人間もいるという。

 そういう類の怠惰や逆恨みを防ぐ意味でも、魔巻は不規則且かつ不安定に働いている。悩みごとの相談を受け解決に導く魔巻は、当たる易者という伝手から香具師にも顔が効き、また一度商売に出掛ければたっぷり稼いでくるため、大家の献残屋伝次郎も彼の出不精を已む無し、と認めている。

「この先を話し続けて、占いの結果が変わるとでも言うのかよ」

「変わるかもしれぬし、変わらぬかもしれぬ。いずれにせよ、儂が雑念に囚われている間は、どう占ったところでまともな結果を期待しない方が良いぞ。さ、わかったら続きを早よ言え」

「その程度の雑念で結果に支障が出るんなら、易者としての才能が無いってことになるんじゃねぇか?」

「何を言うか」

 一喝してから徳利の中の酒を呷あおるる魔巻だが、しかし徳利から離れた口から出た言葉は、己が才の自負とは遠くかけ離れていた。

「易に才能が求められるのであれば、儂などとっくに廃業しておるわい」

 左源堂魔巻の部屋には商売道具と行燈、数冊の本と煎餅布団という名の寝具しかない。土間には、両手の指を合わせた数より多い酒徳利が転がっているが、中身が入っているのは今現在魔巻が抱えている一提のみである。

 働かぬ日の魔巻は、大抵自室で安酒をかっくらっている。

「よいか。そも、人間相手の占術というものは相手の話を聞き、その顔や手のひらから気脈を読み取るところから始まる。これを相という。そのうえで筮竹などの道具を使って進むべき道や下すべき決断を占う。これを卜という。卜のために相を行うことは必定ではないが、易を求めるのであれば無駄にはならぬ。それ故に聞いておるのだ」

「女の口説き方みてぇだな。欲しいものや好みを知るために聞き出そうとする」

「似たようなものと思うのであれば、増々語らぬわけにはいくまい?」

 どちらも成功の秘訣ということか。

 わかった、わかったよと降参した三吉は、赤ら顔の髭を相手に、したくもない説明を続ける。

「小田切土佐守に仕えている奉公人、名前を利助というそうだが、こいつが通油町とおりあぶらちょうで先方から行李を受け取ったのは、確かなんだそうだ」

「通油町から北町奉行所など、目と鼻の先ではないか。利助という男は、その様な距離でも失せ物をするような間抜けなのか?」

「間抜けなのは違えねぇが、こいつには理由があるんだ。利助の奴、このままあっさり主人に渡せば次の仕事を押し付けられると踏んで……」

「わかった。行李を抱えたまま遠回りして道草を食ったというわけだな?」

「そういうことさね。見世物を見て矢場で遊び、一杯引っ掛けてからさあ出発というところで、行李が軽くなっていることに気付いたらしい」

「馬鹿だなあ、実に馬鹿だ」

 呆れてから、魔巻はまたぐいと徳利を呷り、布団の中に埋まっている左足を摩った。

 左源堂魔巻は、左足に酷い火傷を負っている。

 郷里で忍びとしての修行を続けていた頃は火術を得意としていたのだが、新しい火術の実験に失敗した際に逃げ遅れて負った傷だと言われている。

 それまでは性格も闊達で運動能力も優れていたのだが、火傷を負ったことで忍びとしての能力は期待できるものではなくなった――と里長に判断されたらしい。魔巻が易者という仕事を選び酒に溺れるようになったのは、江戸に流れてからのことである。

 普段の生活に支障は無いが、走ったり飛び移ったりといった足に負担が掛かる行動は、流石に常人にも劣る。

「何処で中身を落としたのか……いや、わかるようであれば既に探しているのであろうな。それでも見つからないからこそ、占いなどというあてにならないものに縋っておるのであろうし」

 占いに縋っているのは、北町奉行でも配下の隠密でもなく、金で手伝いを引き受けた三吉である。

「まったくもってその通りなんだが、手前ぇの商売をなどと呼ばわりってぇのはどうかと思うぜ、先生」

「卜占を行う者は、須くこの程度と心に留めておかねばならぬものよ。さもなくば己の卜占に囚われ身を滅ぼしかねぬ」

「そういうものかい」

「清国が遥か昔、晋しんと呼ばれていた時代に、郭璞という男がいた。卜筮や天文、それと五行に通暁し、筮竹で内乱や異民族の侵攻を予見して南方に疎開したそうだが、そこで向こうの老中に卜占の腕を見込まれ、出世したらしい」

「出世話じゃねぇか。あんたも羨ましいだろう」

「とんでもないわい」

 魔巻はまた一杯呷ってから話を続ける。

「当時、権勢を恣ほしいままにしていた将軍がいてな。そいつが郭璞に、儂が仮に謀反を起こしたら成功するか否かを占わせたのだ」

「卦は、どう出たんだ?」

「成る無し、即ち失敗だ。郭璞は怒り狂った将軍に処刑されたのだが、卦の通り謀反は失敗に終わった」

「成功すると嘘を吐けば、命だけは助かったんじゃないか?」

「そうもいかん。卦とは逆のことを伝えたとしても、謀反が失敗に終われば、嘘を吐いて将軍を唆した罪で処刑されるか、占いの結果とは違うと逆上した将軍に殺されていたであろう。卜占というものは非常に難しい。絶対確実に未来を予見できたとしても、その身に降りかかる災厄からは逃れようがない場合もあるのだ。だからこそ卦をはぐらかしたり、結果をぼやけさせて伝えたりすることもあるのだ。全てを見通し予見するということは、結果を伝えた相手が絶望し、その人生を無駄に終わらせることに繋がりかねないのだからな」

「そういうもんかね」

 話を聞いていた三吉も一杯呑みたくなったが、魔巻が己の酒を呑ませてくれるとは、とても思えない。

 そもそも彼が抱えている酒徳利は、相談料として三吉が買い与えたものである。

「受け取った行李が軽くなったと気付くまでの間、見世物見物や矢場で、利助の身に何か変わったことは起こらなかったのか?」

 急に話を戻され、三吉は慌てて九十九久兵衛から聞き出した証言を思い返す。

「見世物は手妻(手品)だな。それから火喰いと金輪切りを見た時に、もっと前で見ようとして何人かと肩をぶつけ合ったらしいが、揉め事らしい揉め事は起こらなかったそうだ」

「調べたのか?」

「行李の中身を失くしたという利助の報告を受けてから、久兵衛の仲間が調べ上げている。手妻をやっていた連中は覚えが無ぇ、知らねぇ、芸に集中して気付かなかった、と繰り返しているだけだ。まあ巾着切りの仕業と考えられなくもねぇが」

「いや、巾着切りに行李の中身丸ごとは重かろうよ。それで、次は?」

「さっきも言った通り、利助は矢場に寄った。六文で十本射たそうだが、もちろんどれも外れだったそうだ」

「本当に馬鹿だな。運よく当たって景品を得たとしても、そいつを奉行所に持ち帰るわけにはいかんだろう。寄り道していたことがばれて大目玉を食らうだけだろうに。当たろうと外れようと、そいつの損にしかならん」

「いや、その店の当たりは品じゃねぇ。客取りしている女とな、しっぽりできるって寸法よ」

「増々馬鹿だな。そんなものが当たるわけがなかろう。実際に当たったところを目撃したとしても、まずは客引きのための芝居と疑うべきだ」

 這うようにして土間の空徳利を拾い上げた魔巻は、その中にべっと酒気を帯びた唾を吐いた。

「それで、矢が外れてからどうした」

「居酒屋で一杯引っ掛けたそうだ」

「遊ぶ金に事欠かぬ男だな」

「久兵衛の話じゃ、奉行の小者なんてもんは日がな一日雑用を押し付けられてばかりで、息抜きは仕事の合間ぐらいにしか出来ねぇもんなんだとさ。だから偶に小遣いを貰っても使う暇が無ぇもんだから、自然と貯まっていくらしい」

「居酒屋で呑んでいる間に、何か起こらなかったのか?」

「強かに酔って立ち上がったところで商い中の銭緡ぜにさし売りとぶつかって、しばらく揉めたぐれぇだな。それから酔い覚ましに歩こうと立ち上がったところで、行李の中身が空になっていることに気付いたんだとよ」

「銭緡売り?」

 魔巻が、上半分だけ嫌な顔をした。

 三吉が久兵衛からその話を聞き出した時と、同じ感想を抱いているのは間違いない。

 麻や藁わらを綯なってから、一端を固く結んで丸くした紐を、銭緡と呼ぶ。

 文銭の中央に空いた穴に通し、一文二文と数え易くするもので、長さにより百文差しや二百文差し、四百文差しや一貫文差し等々に分類され、其々が一応きっかり百文二百文になるよう長さを調節してあるので、いちいち一枚ずつ数えて払うよりは遥かに手間が掛からず支払いを済ませることが出来る、という利点がある。

 尤も、こんなものは一人につき一つか二つ常備していれば十分に事足りるものであり、あまり売れない。売れないのだが他の内職よりは簡単に、しかも大量に作れるし、元手もたいしてかからない。だから金に困窮する連中が、正業の合間を縫うようにして大量に拵え売りに出すのだが、欲しがる者が少ない物を売るのだから、当然押し売りになる。

 そうなると、売る側も次第にその類の手口に長けた輩が生き残ることになり、縄張りを広げて押し売りする量が増えるから、荷運びを手伝っておこぼれにありつこうとする子分が出て来るし、押し売り問答も一人から二人、三人掛かりになる。

 不要なものを押し売りするだけでも評判が悪いのに、こうして徒党を組んで値を釣り上げるのだから、銭緡売りが嫌われるのは当然の流れと言えよう。

「揉めた内容は」

「銭緡売りは二人組なんだが、天秤棒を担いでいた奴にぶつかって、中身を路上にぶちまけちまったんだとさ」

「待った」

 魔巻が、大柄な身体をゆすって三吉の語りを制止した。弾みで徳利が倒れ、板間の窪みに注がれた中身が、小さな酒池しゅちを作り上げる。

「その二人組、どちらでも構わないが人相を覚えていないか?」

「天秤棒を担いでいた方は藪睨やぶにらみで頬がこけていた。相方は痘痕あばた面で厚ぼったい唇だったとさ」

「やっぱり彦六と勘助か」

 徳利を立たせてから、呻くように呟く魔巻。

「知り合いか?」

「年季勤めの中間ちゅうげん共だ。期間を決めて武家に雇われている連中で、仕事の口が無い時には内職で日銭を稼いでいるんだが、偶に勤め先のお偉方と知り合いになっては権威を笠に着て強請り集りを働いているので、ちょくちょくしょっ引かれているのだが……そうか、銭緡売りまで始めたか」

「詳しいな」

「連中が前に仕えていた旗本が顧客でな。最初は面白がって連中を占わせたのだよ。それで、利助と彦六がぶつかってからはどうなったのだ」

「おう。その天秤棒の方、彦六な」

 銭緡売りは、大量に拵えた銭緡を束にして、一束幾らで売り歩く。その束をさらに束ねて重ね、縄で固定してから天秤棒の両端に引っ掛けて担ぎ売りするのである。

「彦六が、売り物が台無しになったから詫び料を払えと脅してきたんだが、勘助が間に入って止めたんだそうだ。喧嘩する暇があったら銭緡を拾い集めろ、埃を落とせばまだ使えるからってな。それで利助も手伝って、三人掛かりで飛び散った銭緡を残らず拾い集めてから、侘び料代わりに出来の悪い銭緡を二束買ってから別れて、さあ出発だと行李を持ち上げたところで異変に気付いたんだそうだ」

 それだ、と魔巻は己の右腿をぽんと叩いた。

「どれだ?」

「わからんのか。利助が銭緡を拾い集めている間に、彦六か勘助が行李の中身を抜き取ったのだ。大方、行李から離れた場所に落ちた銭緡を拾いに行かせている間の出来事であろう」

「まさか」

 仮に中身だけ抜き取ったとして、それを何処に隠すというのだ。

 それを尋ねようとするより先に、魔巻が髭だらけの口を開いた。

「三吉、行李の大きさは?」

「お、おう。久兵衛の話では、縦が一尺に横が一尺五寸、厚さは三寸か四寸程度だそうだ」

「小さいな。ならば中身はさらに小さい」

「けどよ、流石に着物の下というわけにはいかねぇだろう?」

「集めて積み重ねた銭緡の中に突っ込めばよい」

「あっ」

 声を上げてから、三吉はいやいやと手を振った。

「いくらなんでも気付かれるだろうよ」

「それは、たった今儂から手口を聞いたからだ。言われて気付くということは、言われるまでは気付かなかったということでもある。その時の利助からすれば、気付くどころか考えもしない隠し場所なのだぞ。そもそも利助は、件の書類は行李の中と信じ疑ってはおらぬのであるからな」

「そいつぁそうだが」

「それに、連中とぶつかる迄までには寄り道しても何事も起こらず、行李の重さも変わらなかったのであれば、彦六と勘助を疑うのは自明の理であろう。それで、隠密共は奴らを調べ上げたのか?」

「話は聞いたが、知らねぇの一点張りだったそうだ」

 とはいえ、それまでの利助の道程からも怪しいところはあったので、敢えて時間を割かず早々に切り上げた――とも言ってはいたが。

「下手人が彦六と勘助なら、奴らを締め上げれば見つかるって久兵衛に伝えれば、この一件は終わりになるよな」

「どうだろうな。むしろ余計面倒になるかもしれん」

「そうかい? 彼奴らをしょっ引いて吐かせちまえば」

「罪状はどうする? 世間に知られたくない奉行の荷物を盗み取った罪だと触れ回るわけにもいくまい」

「おっと」

 言われてみればその通りで、このままでは北町奉行の威光も権限も、まるで役たたない。

「何か罪状をでっちあげるのはどうだ?」

「それが真っ当な江戸っ子の考えることなのか?」

 三吉は言葉に詰まった。

「まあ、儂は頼まれた通りに下手人を占いもせず、単に導き出しただけだ。真実がどうであるか、この先どうすべきか。それ儂が決めることではないし、その責も儂には無い。お前はとりあえず久兵衛に報告するのだな。占いの卦は、彦六と勘助が下手人と出ました、とな」

「けどよ、彼奴らが書類の中身まで読んじまってたらどうすんだ? 口封じか?」

「其れこそ儂の知ったことではないな。まあ内容を知るまでに、少なくとも今夜いっぱいぐらいは時間がある」

「どういうこった?」

 逆さにした徳利から最後の一滴を受け止め、左源堂魔巻は顔の上半分だけ笑み崩れた。

「彦六と勘助はな、字が読めんのだ」




 三吉のように田舎から江戸に流れ込んできた忍びは、江戸に入る間に、三つの掟を遵守する、という誓いを立てさせられる。

 殺さず。

 盗まず。

 右袒うたんせず。

 稀に例外も存在するが、基本的には何いずれかを破ったと見做された時点で、粛清の対象となる。裁量は里長に一任されており、情状酌量の余地ありと見做された場合であっても江戸追放、それ以外は破戒者の死が待ち受けている。

 一見苛烈に見えるが、このしきたりが存在しなければ、非公認の忍びが江戸に入ることすら許されない。修行により培った技術を悪用されては、江戸の治安維持に支障をきたすからである。

「やらねぇからな」

「そこをなんとか」

「無理だっての。こちとら、ただでさえ三つ目に引っ掛かっているんじゃねぇかとびくびくしてるのに、このうえ盗みまでやらかしたら、それこそ俺の首が飛んじまう」

 九十九久兵衛は、三吉の部屋の土間に額づいた。監視役の隠密が監視対象の部屋に居座っているというのも妙な話であるが、まさか往来や奉行所で後ろ暗い作戦を立てるわけにもいかない。

 左袒さたんする、という言葉がある。古代中国は漢帝国の黎明期に、功臣たちが皇后であった呂氏の一族による皇位簒奪を阻止した際に生まれた言葉であるという。

「帝の一族に加担する者は衣の左肩を、皇后の一族に加担する者は右肩を脱げ」

 目的も知らされず集められた兵全員が左袒、即ち衣の左側を脱いだので、皇后一族の誅滅は決行されたと伝えられている。

 つまりは天意に背かず公儀に味方するのが左袒であり、逆に公儀に仇なす者や仇なさんとする逆賊の肩を持つことを、里では「右袒」と呼んでいる。

 今回は北町奉行の頼みである以上、盗まれた文書が公儀に反するものではないであろうというのが久兵衛の主張であるが、斯く言う本人が文書の内容については知らぬ存ぜぬを繰り返しているのでは、三吉でなかろうと慎重にならざるを得ない。

張孔堂ちょうこうどう天一坊てんいちぼうの仲間入りは御免だぜ。どっちも公儀のお偉いさんに取り入ってから事件を起こしたっていうじゃねぇか」

「三吉っつぁん。土佐守は、そんなお人じゃないって」

「人を騙して騒動に巻き込む奴は、いつもそうやって自分も含めて善良ってことにしちまうじゃねぇか。それに、表立って動けねぇってことは、それなりに後ろめたいもんが書かれていたってことなんだろう?」

 行李を受け取った利助からして、相手の名前と素性に関する一切を土佐守からは教えてもらっていないという。

 これで土佐守の暗部を推察しない方が、おかしい。

「俺が内容を知っていたら教えてやるところなんだが、知らないものは教えようがないんだよ、三吉っつぁん」

「今から土佐守に聞いてみるってわけにゃいかねぇのかい?」

「ただでさえ状況がややこしくなっているし、あの方は御多忙で聞き出す暇なんてとても有りゃしないよ。なんたって、ご自分で受け取らねばならねぇもんですら小者に任せなきゃいけないくらいだからね。それより、俺の代わりに盗みに入ってもらうって話はどうなったんだい?」

「それこそ無理だ。掟の二番目に触れちまう」

 誰も傷つけず盗み出すのみ、しかも北町奉行に頼み込まれての行為であれば、情状酌量と小田切土佐守の口添えで江戸追放に止まるかもしれないが、そもそも三吉には江戸を出たいという意思が無い。

 仰向けに死ぬのであれば江戸の土、あるいは女の膝枕。仰ぎ見るのは江戸の空――と既に心に決めている。

「やっぱり、ここは俺が忍び込まねぇと収まらねぇのかなぁ」

 顔を上げてから額に付いた泥を払い落し、久兵衛がぼそりと呟く。

 彦六と勘助が住む裏長屋は、三吉たちの裏長屋とは大分離れた場所に立っている。

 そこに三吉が忍び込むのは問題外だが、久兵衛が忍び込んだとしても、それはそれで厄介ごとの種になるらしい。

「それでも首尾よく見つけ出せるものかねぇ」

「どういうこった?」

「彦六はともかく、勘助は中々の悪狸だぜ。これまでの強請り集りの悪事も、その手口は勘助が思いついたもんだろうな」

「行李の中身を抜き取ったのも、勘助かね?」

「彦六には相談なしの独断じゃねぇかな。彦六の拙い演技なんぞじゃ、逆に利助が警戒しちまうだろうからな」

「ああ、そうか」

 両の手のひらについた土埃をふっと吹き飛ばしてから、久兵衛が得たりという顔をする。

「魔巻先生に、そう言われた」

「そういうこった」

 バツが悪くなる話は、早々に鉾先を変えた方が良い。

「その魔巻先生が言うことにゃ、盗まれた文書は巧妙に隠されていて見つけ出せないのではないか、だとさ」

「まさか、たかが裏長屋のひと部屋だぜ?」

「文書の入った油紙を、銭緡の束に突っ込んで隠した。それを見抜けなかった俺たちが何を言い返したところで、負け犬の遠吠えだろうよ」

「いや、まあ、そいつは」

 仕返しが出来たとばかりに意気高な笑みを浮かべた三吉は、そのまま話を続ける。

「確かに下手人探しに手を貸すと約束はしたが、そいつから文書を奪い返す手伝いまでするという約束はしなかった……と言いてぇところだが、魔巻先生に教えられるまで勘助の手口に気付かなかったのはお互い様だ。江戸っ子として、おめぇの気持ちもわからないではねぇ」

「けどよ、忍び込んじゃくれねぇんだろう?」

「だから、連中が動いたところで引っ掛けるのさ」


 油紙に包まれた書類を抱え、借り物の龕灯がんとうで足元を照らす彦六を急き立てるように押しながら、勘助が江戸の夜を闊歩する。

「兄貴ぃ。やっぱり頼むなら薩摩の谷口様にした方が良いんじゃねぇかな。あの方なら俺たちと親しいし、それに良い人だからさ」

 先導する彦六が、ちらりちらりと顧みながら打診しているのは、文書の読解を頼む相手なのであろう。

「駄目だ。薩摩は雲行きが怪しい。俺たちが薩摩の江戸屋敷に勤めていた頃から、そういうきな臭さがあるって話はしたじゃねぇか」

 厚ぼったい唇の間から、弟分の戸惑いをきつく戒める勘助。

「おめぇの言う通り、確かに谷口様は信用できる。しかし谷口様の上役は信用できねぇ。それよりは尾張に持って行って買い取らせるか、こちらが金を払って中身を読んでもらった方が、俺たちの損にはならねぇ筈だ」

「その辺の儒者を脅して読ませりゃ、一文もかからねぇぜ?」

「おめぇは度胸ばかりで頭が足りねぇ。いいか、盗品を読まされているなんて気付かれてみろ。その時は脅されてるから黙っていたとしても、いずれは御上にご注進。今度は百叩きじゃ済まされねぇぞ。そうならねぇように、俺たち下々の者がやることに興味を持ちそうにねぇ方々に、頭を下げて金を払って読んでもらおうって寸法なんじゃねぇか」

 ぼそぼそと小声で呟く兄貴分の声を、どうにか耳朶じだに収めてはいた彦六ではあるが、その内容までは頭に入りきらなかったらしい。ふぅん、とわかったような、わからないような返事をしながら、再び龕灯で夜道を照らす。

 闇の向こうから、たたたっという足音が聞こえたのは、その直後である。

「誰でぇ?」

 彦六の龕灯で照らし出されたのは、濃紺の羽織を着込んだ若い男。

 その顔は頬被りにした手拭いに隠されて見えない。

「あっ」

 野猪やちょの如く一直線にこちらへと駆けてきた男に驚きながらも、彦六は辛うじて左に跳び退いて突進を避ける。

 しかし。

 わあっという勘助の悲鳴と共に、油紙の包みがぽぅんと宙に舞い上がった。

「兄貴!」

 落下する包みを空中で掴み取った頬被りの男は、地面に尻もちをついた勘助と、それを助け起こそうとする彦六に一瞥くれてから、二人に背を向け来た道を駆け戻る。

「兄貴、金蔓が」

「馬鹿! 早く追え、取り戻せ!」

 龕灯片手に男を追う、彦六と勘助。

 その場に残されたものに二人が気付かなかったことが、勝負の分かれ目であった。


 彦六と勘助が、逃げる泥棒を見失わなかったのは、二人の足の速さもあるだろうが、頬被りの男が着込んでいた羽織の背面、額裏によるところが大きい。

 金糸銀糸に螺鈿らでんをふんだんに盛り込んだ芒ヶ原すすきがはらの満月は、本物の月光を受けて美しく輝き、それが逃げる男を追うための目印になった。

 その芒ヶ原の満月が不意に姿を消したのは、男が何かに身を隠したからであろう。

 彦六が、それまで足元を照らしていた龕灯を正面に向ける。

 字は読めないものの、目の前に立つものが墓石か碑であろうことぐらいはわかる。

 気がつけば、二人の周囲には似たような石が立ち並んでいた。どうやら二人は男を追ううちに、墓地に迷い込んでしまったらしい。

「いた!」

 龕灯を持たぬ方の手で彦六が指さすその先で、月光を纏って美しく輝く羽織が、墓石から墓石へと飛鳥の如く飛び移る。

「あっちだ!」

「そこだ!」 

 同時に泥棒の移動先を指さす、彦六と勘助。

 しかし、その指先は左と右とに分かれた。

「馬鹿、そっちじゃねぇ!」

「兄貴こそ見てなかったのかよ」

 お互いに顔を見合わせ怒鳴る二人の両眼が、さらに大きく見開かれる。

 二人共、相手の背後で走り去る泥棒の姿を見出したからである。

「あ、兄貴! こいつぁ幽霊の仕業かよ?」

「んなわけねぇだろ! 二手に分かれて追うぞ!」

 弟分よりかは冷静な反応を見せた勘助は、慌てふためく彦六をその場に残し、辛うじて視界にその姿を留まらせている芒ヶ原の羽織を追い始める。

 再び墓石の陰に身を潜めた泥棒は、またしても数を増やして跳び上がる。

 その数、三つ。

 それぞれが地面に、大樹の枝に、或いは墓石の上に降り立つと、その全身が金色に輝きながらぼやけ、二つに分かれる。

「あ、ああ……」

 一声も発せぬままぐるりと勘助を取り囲み、揶揄からかうように飛び跳ねながら、彼を中軸にしてぐるぐると駆け巡る六体の金色魔人。手拭いに隠れて見えなかった顔も今は金一色に塗りたくられ、人相どころか人であるかどうかの判別すらつかない。

 悪夢に等しき光景によろめいた勘助の背中が、何かにぶつかった。

「残念だったな」

 男の、いや人の声。

「墓場で化けて出るのは幽霊に限らねぇんだよ、三下」

 その言葉の意味を推し量ろうとした勘助の視界が、闇に覆われた。


 へっ、と啖呵を切ってから大樹に歩み寄った三吉は、その幹に突き刺さった七寸程の細い棒を引き抜き、続いて地面に突き刺さった同じものを引き抜いた。

 いずれも、伸子作りの際に端切れとなってしまった細い竹串。

 同じものが墓石の上にも転がっている。

 その数、合わせて六本。

 竹串の尻にはススキの穂にも似た細長い白毛が幾筋か付着しており、時折吹きつける東風を浴びては、ぱあっと綿毛のようなものを撒き散らし、それらが月光を反射してきらきらと照り輝く。

「分け身の術かい」

 闇の中から姿を現した、黒装束の九十九久兵衛が言う通り、三吉が得意とする分身の術である。

 里で修行していた頃は「猿の三吉」と呼ばれていた三吉が、身軽に宙を飛び交いながら細工付きの手裏剣を投げて辺りに突き刺す。

 その光景を見ていた者は、手裏剣を三吉の姿と錯覚し、分身の術に囚われる。

 こうなると、もう逃れようがない。三吉が手裏剣を投げるたびに分身は増殖し、逆に三吉自身の姿は幻覚から抜け出したかの如く視界に捉えられなくなる。

 三吉自身はこの術を〈光芒一閃こうぼういっせん〉と名付けたものの、派手すぎるせいか、術を知っている者でもこの名を口にしたことは無い。

 江戸に出てからは、もっぱら伸子作りの余り竹串が手裏剣代わりである。

「こんなもんが、どうして三吉っつぁんに見えてしまうのかねぇ」

 最後の一本を拾おうとした三吉よりも先にその竹串を摘み取った久兵衛が、不思議そうにせせら笑う。

「何を偉そうに言ってやがる。俺の姿に見えたからこそ、正体がばれたあの時のおめぇは立ち止まって、本物の俺と取っ組み合いになったんじゃねぇか」

「分身じゃねぇ本物のあんたを誘き出してから始末しようと思ってたんだと、何度言わせりゃ気が済むんだよ」

 口を尖らせる久兵衛に、三吉は竹串をじゃらじゃらと手の中で鳴らしながら尋ねる。

「彦六は?」

「眠らせた。怪我させて傷痕が残るのも、面倒の種になりかねないからな」

 芒ヶ原の羽織は二枚あった。

 江戸で無頼を働き罰された、双子の旗本やっこから押収した品で、久兵衛が隠密の権限で借り出してきたのである。

 彦六と勘助の眼前で墓石の陰に身を隠した久兵衛は、予め羽織を着込んだままその場に隠れていた三吉と示し合わせ、左右に飛び分かれた。彦六と勘助を一人ずつに分断したのは、負傷させず秘密裏に無力化しなければならないという状況下で、二人をいっぺんに相手したのでは隙を突かれるかもしれぬという懸念からであった。

「さて」

 久兵衛は、墓石の陰から拾い上げた油紙の包みを、うつ伏せに倒れたままの勘助の下に押し込んだ。

「一応聞いておこう。中身は?」

「空だ」

「本物は?」

「知ってるくせに」

 往来を疾駆した久兵衛が勘助と衝突した時点で、油紙は久兵衛が用意した偽物と摺り変えられていた。

 龕灯に照らされながら宙を舞う、偽物の包みを掴み取った久兵衛は、如何にもそれが本物であるかのように見せかけながら彦六と勘助を誘い出したのである。

 暗い夜道に置き去りにされた本物は、その場に隠れていた利助が回収する手筈になっていた。

 三吉は、忍び込みも盗みの手伝いも行ってはいない。

 ただ騒がしい町人を己の術で惑わせ黙らせただけであるし、彦六と勘助も盗難に遭ったと訴え出るわけにもいかない。

「やれやれ。三吉っつぁんが掟に縛られていなけりゃ、もっと事は簡単に進んだだろうに」

 久兵衛のぼやきを聞き逃すような三吉ではない。

 芒ヶ原の羽織を脱ごうとした手を止め、貸し主に食ってかかる。

「掟を誓わせているのは誰だと思っていやがる。すべてはお江戸のため、お前らの上役の手を煩わせねぇためだろうが」

「それじゃあ、もし掟が無かったとしたら、盗みを働いていたのかい?」

 衝動的に「応よ」と答えそうになり、一瞬言葉を詰まらせた三吉は、言葉の代わりに脱いだ芒ヶ原を久兵衛の顔面に叩きつけた。

「そうはいかねぇ。そこでおいらが、はいそうですと答えるとでも思っていたのかい。借りも恩もあるだろうに、任務と手柄のためなら平気でこちらを陥れようとしやがる。これだから隠密は信用ならねぇんだ」




 江戸隠密として絶えず市井を監視しなければならない九十九久兵衛にとって、気配を感知できぬ相手に先手を取られてしまうのは、屈辱以外の何ものでもない。

「上機嫌じゃねぇか」

 昼下がりの日本橋を歩いていた久兵衛の肩を背後からぽんと叩き、その屈辱を味合わせつつ驚かせたのは、伸子売りの三吉。

 今は町人の身なりをしているが、久兵衛が本職として腰に大小を差している時であれば、その無礼を詰問されてもおかしくない暴挙である。

「三吉っつぁん」

「その様子だと、例の物はちゃんと土佐守の元に届けられたみてぇだな」

「まぁな……どうだ、一杯?」

「御機嫌取りかい。まぁ、悪かねぇ」

 並び歩いて馴染みの居酒屋へ向かう道中、通り過ぎた通油町周辺は、老若男女でごった返しになっていた。

 江戸では知らぬものが無いとまで言われている、続きものの滑稽本。

 その最新版の初刷りが行われたということで、我先にと買い求める人々が、さながら母犬の乳を求め兄弟姉妹と押し争う子犬の如く、本問屋に押しかけていたのである。

「このご時世に、よくもまあ繁盛しているもんだ」

「ありゃあ繁盛し過ぎて、問屋が客に圧し潰されるな」

 三吉の諧謔かいぎゃくに、ちげぇねぇと笑う久兵衛。

「しかしまあ、滑稽本が売れるってこたぁ、それだけ世の中が平和だっていう証拠でもあるわな。そんなもんを読むだけの金と暇がある連中が、江戸に大勢いるってことなんだからよ。仕事、仕事で暇のないこっちとしては、羨うらやましい限りだぜ」

「よく言えたもんだぜ」

 粋な江戸っ子らしく見える羽織に玉風を纏わせていた三吉が、不意に立ち止まって久兵衛に顔を向けた。

「ああして字が読める暇人が江戸に多いからこそ、例の文書の中身を読まれちまうんじゃねぇかって恐々としていたくせによ。おめぇだけじゃねぇ、土佐守や利助だって、例の文書を盗んだのが字の読めねぇ奴だと知って、随分ほっとしたんじゃねぇのかい?」

「だから、礼金も一両二朱から一両二分に増えただろう?」

「溜まった家賃と呑み屋の付けで消えちまったよ。いや、ちょっとだけ残ったが、そいつも魔巻先生にたかられて終わりだ」

 その辺りは、久兵衛も隠密としてしっかり情報を得ている。

 これから向かうのも、三吉が付けを払い終えた居酒屋である。

 再び歩き始めたものの、暫くは沈黙の空気が続く。往来を流れるのは町人同士の挨拶や機嫌取りの声、そうでなければ本問屋へ向かう連中の嬌声ばかり。

「勘繰りでしかねぇんだが」

 沈黙を破ったのは、三吉であった。

「京か大阪、長崎辺りの町奉行についての報告書だったんだろう?」

「なんで、そう思った?」

 否定も肯定もせず、しかしそれまでの陽気な笑顔から、たちま怜悧れいりさを伺わせる真顔に変貌した九十九久兵衛が、逆に問い質す。

「小田切土佐守が部下の役人を使わず、てめぇんとこの小者を使いに出したからだ。そいつはつまり、公儀の仕事に関連付けたくはねぇもんであり、そいつを利助に手渡した奴も、本物の町人であるとは限らねぇ。しかも土佐守がその権力を表立って使わねぇということは、土佐守の身内というわけでもねぇし、それでいておめぇに奪い返すよう命じたんなら、他人の眼に触れねぇうちに処理したかった。いや処理しなければならなかったからだ。違うか?」

「どうかな」

「小田切土佐守は大阪で町奉行をやっていた頃から、奉行同士お互い秘かに同行を監視して、疚しいところが見つかり次第、老中に告げ口していたんだろう。けどよ、そいつぁ本来なら目付だか大目付だかって役人の仕事だ。それをこっそりやってましたじゃあ、そいつらの面子が立たねぇ。だから人に知られることなく監視していたんだろうが、思わぬ穴から水が漏れたな」

「魔巻先生が、そう言っていたのか」

「そうよ」

 悪びれもせず頷く三吉。

「残念ながら、外れだ。あれはそこまで御大層なもんじゃねぇよ」

「引っ掛かりやがったな」

 左源堂魔巻の推理も外れることがある、と内心で勝ち誇っていた久兵衛は、三吉の言葉に愕然とした。

「やっぱり中身を知っていたんじゃねぇか、この嘘吐きが」

「誤解だ、土佐守に渡した時に」

「渡したのは、実際に本物の文書を取り戻した利助だろうが。あれが土佐守の元に届けられちまえば一件落着。後の詮議は不要だから、おめぇに説明する必要も無ぇ。つまりおめぇが中身について教えられたのは、俺に相談する前ということになる」

「そいつも……魔巻先生の読みかい? それとも三吉っつぁん、あんたの考えなのかい?」

「さぁて、どっちだろうな」

 護身用に、或いは口封じのために、九十九久兵衛は懐中に七寸合口ななすんあいくちを隠し持っている。 

 しかし、正面から睨み合った状態では必殺の突きも三吉には通用しないであろうことは容易に想像できたし、そもそも往来で命のやり取りをする程の秘密でもない。

 何より、既に隠し通すようなものではなくなっているのだ。

 しばしの睨み合いの末、観念した久兵衛は両肩を竦めた。

「わかった、話すよ……と言っても、そこまで大仰な内容ってわけでもねぇんだ。ただ、あれが世間から消えちまうと、江戸中の暇人が泣いたり怒ったりするってだけの話さ」

「おいおい」

 勝ち誇り、近づくなり正面から久兵衛の肩を叩いた三吉は、もう一方の手で通り過ぎたばかりの通油町を指さす。

「まさか、あそこで暇人が買い漁っていた滑稽本の類いだった、とか言うつもりじゃねぇだろうな」

「よくわかったな、その通りだ」

「はあ?」

 真顔で答える久兵衛に、三吉は怪訝な顔をした。

「小田切土佐守様が、かつて大阪で町奉行を務めていたことは、あんたがさっき言った通りだ。その時分の部下であり、元江戸定町廻もとじょうまちまわり同心だった重田しげたという男の、勘当された息子が書き上げた滑稽本の原稿が、彼かの文書の正体よ」

 語りながら、久兵衛の足は往来から昼間は人通りの少ない八丁堀へと向かう。やや呆気に取られながらも、三吉はその後に続いた。

「それじゃあ、たかが滑稽本如きを取り戻すために、俺たちゃ苦労してたってのかよ?」

「同心重田の息子、重田貞一しげたさだかつの筆名は、十返舎一九じっぺんしゃいっくだ」

「えっ!」

 三吉が思わず大声を上げたのも無理はない。

 江戸は神田八丁堀に住む栃面屋弥次郎兵衛とちめんややじろべえと居候の喜多八きたはちが、厄落としにと出立した伊勢参りの旅路で起こす騒動を書き綴つづった話題作『東海道中膝栗毛』は、忽ち大当たりして江戸中の評判になった。世間に読まれているのは前後編のうち前編のみということもあり、後編の初刷りはまだか、まだかと期待されていたほどである。

 それまでの手引書の如き堅苦しさのある紀行本とは異なり、おっちょこちょいで悪戯好きながらも憎めない弥次郎兵衛と喜多八が、暗さも重苦しさも見せず開き直ったように旅を続ける様は、江戸の庶民に親近感と笑いの種を与えたことで、絶大な支持を得ていた。

「じゃあ、盗まれたのは『東海道中膝栗毛』の後編だったのかい」

「そうだよ、三吉っつぁん。土佐守様は十返舎一九から頼まれて、版元の村田弥次郎兵衛むらたやじろうべぇに渡す前の原稿に目を通すおつもりだったのさ」

「なんでまた、北町奉行がそんなことを」

「一つは、文面に行き過ぎた表現が入っていないかどうかを確認するため、もう一つは御公儀の政に対するあからさまな皮肉や批判が含まれていないかどうかを、初刷り前に確認するためさ。こんなことを表立ってやってたんじゃ、御上にへつらっているとか妥協しているとか陰口を叩かれるかもしれねぇだろう? だから秘密裏にやっているのさ」

「風聞避けってわけかい」

「そういうこった。勿論、版元である村田屋からの了解は得ているが、北町奉行所での確認が終わったら、次は南町奉行所だ。しかも仕事の合間を縫ってこっそりやらなきゃいけねぇから、どうしても時間が掛かるんで、村田屋はやきもきしている。これで原稿を紛失しました、なんて世間に知られてみろ。奉行所の面目は丸潰れだ」

 久兵衛の背中を追うようにして歩いていた三吉は、はあっと間の抜けた声を上げてから立ち止まり、いやいやと手を振った。

「なんで公儀がそこまでやるんだよ。たかが滑稽本じゃねぇか」

「三吉っつぁん。恋川春町こいかわはるまちって名前に、聞き覚えは?」

「あらぁな。あるに決まってらぁ」

 恋川春町。

 三十年ほど前――当然、三吉が江戸に来る前だ――に江戸で大評判となった『高慢斎行脚日記こうまんさいあんぎゃにっき』や『当世風俗通とうせいふうぞくつう』、『金々先生栄花夢きんきんせんせいえいがのゆめ』といった名作を執筆した戯作者である。

 それまでの草双紙では完全に切り離されていた絵と文を、吹き出しに近い形で融合し、またその内容も子供向けのものから大人、大衆向けのものに変貌させた、ある意味では現在の漫画の嚆矢とも呼ぶことが出来よう「黄表紙」の、開祖とも呼ぶべき作家でもある。

 しかし三吉が春町を知っていたのは、彼が売れっ子の黄表紙作家だったからではない。

 春町の著作の一つ『当世風俗通』は、その題が示す通り江戸人の風俗と「通人」について書き記したものであり、江戸に入ったばかりの三吉の精神に甚大な影響を与えた。

「門人等深く察し尽く味へて以、大通に御なり候へ」

「すべて上下着用のときは上品なるをむねとすれば、古風をもっぱらとすべし」

 所謂いわゆる「通」というものを、文面によって叩き込まれて以来、三吉は『当世風俗通』を、我が心の一冊と決め込んでいる。

「恋川春町が、どうしたってぇんだい」

「彼の本名は倉橋格しらはしいたる。駿河小島藩一万石の松平昌信まつだいらまさのぶ様と信義のぶよし様に仕えた年寄本役としよりほんやく、即ち家老だ」

「なんだって!」

 三吉は、足元の地面が一瞬にして瓦解したかのような錯覚に襲われた。

「江戸の人間じゃなかったのかよ!」

「江戸の人間でもある、といったところだな。駿河小島藩の江戸屋敷は、小石川の春日町にある。筆名はそこから付けたのだろう」

「えぇ……」

 己が育んできた江戸っ子としての気風に、罅ひび割れが生じて戸惑う三吉に、さらなる無慈悲な一撃が襲い掛かる。

「三吉っつぁん。春町がいつ死んだか、知っているかい?」

「知らねぇ。『鸚鵡返文武二道おうむがえしぶんぶのふたみち』ってぇのを書き上げた途端に中風でおっ死んだって噂は、耳にしたことがあるけどよ」

「そいつを読んだことは?」

「ねぇな」

 只の物語では、三吉の食指は動かなかったのである。

「その『鸚鵡返文武二道』が、不味かったんだ。その頃の御政道を批判し、虚仮にした内容だったもんで、恋川春町こと倉橋は御公儀から呼び出しを受けたのさ。病気を理由に応じず引き籠っているうちに、心労でお陀仏だ」

「嘘だろ」

 三吉には、俄かには信じられなかった。

 悪口を言っただけで公儀に睨まれたのでは、おちおち深酒も出来ない。

「それどころか、倉橋の死は自殺ではないか、という意見さえある。土佐守様は御公儀の人間ではあるが、倉橋の死には心を痛めておられておいででな。嘗ての部下の息子である十返舎一九に同じ轍は踏ませぬと、秘かに協力しておるのだよ」

 同時代を生き処分を受けた戯作者に山東京伝がいるが、こちらは手鎖のみで未だ健在であるだけに、この裏話は三吉に思いがけぬ衝撃を与えた。

「ついでだから教えてやろうか。三吉っつぁんは、朋誠堂喜三二ほうせいどうきさじを知っているかい?」

「春町の相棒だろう?」

 こちらも戯作者で、特に『かちかち山』の後日譚とも言える『親敵討腹鞁おやのかたきうてよはらつづみ』という作品で知られている。喜三二が文を、春町が画を担当している作品も少なくはない。

「最近じゃ何も書いてねぇようだが、まさか喜三二も大名の大物ってわけじゃなかろうな」

「ご推察の通り、その正体は出羽久保田藩の江戸留守居役、平沢常富ひらさわつねとみという。春町同様に、御政道を虚仮にした最新作を久保田の殿様、まあ佐竹さたけ某なのだが、その殿様に上梓したところ、その内容について厳しいお叱りを受け、以降は戯作から手を引いている」

 ああ、と三吉は天を仰いだ。

 尊敬していた戯作者とその相棒が罰されていたことを知ったからではない。

 江戸「通」を諳んじ手本としていた本の作者が、自作を通して政を批判していたことを知り、失望したからである。

「それでなくとも、他藩の者と手を組み戯作を書き続けておったのだ。いずれ御公儀の目に留まるのは必然であったと言えよう」

「なんてぇ世の中だ。悪いことは何もしてねぇのに、それでも疑われちまうのかい……」

「仮に何もしていなくとも、疑われる時点で問題なのだ。疑われる方が悪い」

 珍しく侍らしい口調で強く断じた九十九久兵衛は、思い直したかのように咳払いを一つした。

「そういうことがあったからこそ、土佐守様は同じような事件を二度と起こすまい、嘗ての部下とそのの息子を同じ目に遭わせてはならぬと、お考えになられているのさ、わかってくれたかい?」

「まあ、お奉行様が事前に目を通しているってぇのなら、世間に出回ってからあれやこれやといちゃもん付けられることはあるめぇがなぁ」

 仰ぎ。

 うつむき。

 立ったまま何度も繰り返しながら、三吉は納得したような、それでも釈然としないような返事をする。

「双方、持ちつ持たれつなんだろうな」

 これならば、北町奉行たる小田切土佐守直年が知人の死に心痛することもなければ、十返舎一九こと重田貞一が処罰を受けることもないであろうし、江戸っ子たちは安心して彼の作品を読み続けていられる。

「一九が、いや貞一が勘当くらって宮仕えを辞めちまったのも、土佐守が知恵をお授けになられたからかもしれねぇな」

 三吉につられるように天を仰いだ久兵衛が、ぼそりと呟いた。

「そりゃあ、どういうこった?」

「考えてもみなよ、三吉っつぁん。貞一が宮仕えのまま滑稽本を書いてたら、下手すりゃ春町や喜三二の二の舞になっちまう。大阪奉行時代に、物語を書きたいという貞一の熱意を汲み取った土佐守が、役人を辞めて家族との縁を切らねば自由に書けぬぞと諭されたんじゃねぇかなって思うんだ」

「だがよ、それで飯が喰えなくなっちまったんじゃ生きていけねぇだろ。くびになっちまった元役人なんざ、恨んでいる奴はいても世話してぇなんて思う奴はいねぇよ」

「まあ、方々に頭を下げて内職の口を貰えりゃ御の字だろうな。そこまでして戯作者としていきたいかどうか、それは個人の肚の両天秤だろうさ」

「それでも重田貞一は戯作者の道を選んで、十返舎一九になったのか……」

 貞一にとって、これが恐らくは最善の手段なのだろう。

 三吉は、ふぅっと大きな息を吐いた。

「ともあれ、これで無事に十返舎一九の新作は世間に出回ったわけだ。三吉っつぁん、今日は祝い酒としゃれこもうぜ」

「俺たちが祝ってどうすんだ」

「じゃあ、詫びの一杯だ。俺は中身を知っていたのに、それでもあんたには知らぬ存ぜぬを押し通していたんだからな」

 ようやく元気を取り戻しつつある三吉の背中を軽く叩き、町人姿の九十九久兵衛は彼を居酒屋へと誘った。

 天保の改革により柳亭種彦りゅうていたねひこら流行の戯作者が公儀の処罰を受けるのは、もう少しだけ先の話である。


                                  (了)


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