20230331

久しぶりの日記。

今日は仕事がイレギュラーで、朝5時半から稼働していた。夕方に帰宅できて横になったら、こんな時間。寝るに寝られないので「やっほー、日記クン、元気~? 2カ月くらい無視されてどんな気持ち?」って感じ。

ここ2カ月くらい調子が悪かった。ナンカ、考えるくらいはしていた覚えがあるのだけど、いちいちメモを取っているわけでもなく、何があったのかあんまりよく覚えていない。

以下、覚えている範囲でメモ。

―――

哲学の世界には「実存」という、日常的・感覚的に使われる言葉がある。ちゃんとした哲学用語なのに感覚的に使われている得体の知れない語だ。こないだ何の拍子だったか、分かりやすく説明するならこんな感じなんだろうな、と思いついた。素人考えなので、合っているかは知らん。

仮説なのだが、この世の全ては「良かれと思って」と「合理的だと思って」でできているものとして理解できる、と思っている。何から何まで一切合切の存在理由は、善と合理性で説明できるようになっているんじゃないか、と。

例えば、死。不幸の中でも究極的なもので、避けられもしない。生前の幸福を全て無意味化できるほどのバランスブレイカーで、「いくら金を儲けたって、人間はどうせ死ぬ」と言われたりする。その一方で「有終の美」「死があるからこそ生が輝く」というような言説もあったりして、死を善いもの、合理的なものとして解することもできる。

そういう意味で、世の中は善と合理性で説明できるようにできている。この方針で考えを推し進めるなら「全ての物事の本質は、善や合理性に基づいている」みたいな言い方もできるだろう。

ただその善や合理性に対して「なんかピンと来ないなあ」「もっと別のところに、答えがあるんじゃないか」と思ってしまう・感じてしまうケースがある。それが人が実存の立場に立たされる場面、全ての物事の本質に逆らって自分の感覚や考えを優先しなくちゃいけない気がする瞬間なんじゃないか、と。

死はあまりにも極端な例なのでもっと卑近なところで言い直すと、中学高校には一般的に「髪を染めてはいけない」という校則がある。この存在理由は「真面目そうな見た目を保つことには“合理性”がある。世間知らずの子どもたちに良からぬ輩がたかるのを防ぎ、将来を守るという“善”い行為だ」と説明できる。

派生して「地毛が茶髪の生徒は、黒染めしなさい」というあべこべなトラブルが発生することもあるけど、それはしょうがない。前述の通り、黒髪を強制することは合理的で善なんだから、決して理不尽ではない、と言えなくもない。

こういう考え方に対して違和感を抱いたり、その違和感を言葉で説明したりすることは全く難しくない。「学業が学生の本分なんですよね。髪を染めたら偏差値が下がる。なんかそういうデータでもあるんですか? 個人の感想ですよね?」って話だ。

当の学生時代に誰もが一度は大人たちの常識はなんだかおかしいと感じたことがあるだろう。自分の立場では所与の、くつがえしがたい物事の道理に対して、ホントは当たり前ではなくてひっくり返してもいいんじゃないかと思ってしまう。こういうのが実存的な感覚だ。

特に哲学の世界では、考えることを優先するために常識(=考えるまでもなく正当な考え、と考えることもなく認められている発想)を軽視する傾向があるから、実存という言葉を重用するんだろう。経験上だけど、哲学を勉強した人は社会的な通念を見下すような笑い方をすることが珍しくなく、適当に雑談しているだけでも何となく分かる。

悪く言うなら「勢いが良いわりに、口先ばかりで第三者を巻き込む行動力がない」、良く言うなら「第三者を巻き込まなければ自分が多少変人と思われる程度で済むと、ボーダーラインをわきまえている」みたいな感じ。

偏見だけどみんな「いくらミートソースパスタを雑に食べても、ごちそうさまのタイミングで口をふけばいい」と思っていそう。個人的には付き合いやすい人たちだ。

……なんつってる間に5時っすよ(笑)。昼夜逆転の辛いとこね。書いているあいだに、いい感じにお酒が回ってきたので、明るくなる前に寝よう。

寝られるといいな。おやすみなさい。

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