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人生の名言・迷言・妄言1:  前から思っていたのだが、何かを実現する人というのは、椅子に座って傍観するのではなく、みずから出かけていって、やってみるのだ。 レオナルド・ダ・ヴィンチ

SNS全盛の時代、スマホ片手に世界中のあらゆる出来事に上から目線でコメントして、なにか自分が偉くなったような、何事かをなしとげたような気分になれるという、なんとも手軽で安上がりなストレス解消法が生まれました。

自分自身を含めて、このダ・ヴィンチの言葉はちょっと耳が痛いかな。

身のまわりに動画や画像を含めた情報があふれ、部屋から一歩も出なくても、手のひらの小さなツールひとつで世の中の出来事が手にとるようにわかる――ような気がするこの世界では、半可通(はんかつう)の、つまり、知ったかぶりの中途半端な評論家がいたるところに量産されていきますね。

ネットでちょっとググって得たレベルの知識を、あたかもそのことについての専門家であるように披瀝するコメンテーターしかり、世界情勢や有名人の私生活のあれこれを、あたかも自分が見てきたように語ったり論じたりするる知人や家族しかり。

ま、一面識もない有名・無名の人々を一刀両断にできれば気持ちいいですしね。

そうして、自分自身も、程度の差こそあれ、そうなっていることに、ふと気づくわけです――自分はいつから、こんな知ったかぶりの浅知恵をひけらかすようになったんだろう、と。

居酒屋で酒の入ったサラリーマンが、自分ではキャッチボールもリフティングもろくにできない太鼓腹のおっさんが、ビール片手にテレビで野球やサッカーの試合を見ながら、監督の采配や選手のプレーを上から目線でダメ出しする様子は、新型コロナウイルス流行の前にはよく見かける光景でした。

まあ、そういうものは、適当に相づちをうちながら右から左に聞き流していればよかったし、以前であれば、誰も気にもとめなかったものですが、今はそれがソーシャルメディアで発信され、あっという間に拡散していきます。

オリジナルをいくら削除しても、インターネットからそのデータを完全に消去するなんてことはできませんしね。

で、そういう、自分とは直接の利害関係がないものに対して関心がわくというのは、自分自身の経験でいうと、「ヒマ」だからなんですね。何かやりたいことがあるとか、目標とするものがあって集中しているときには、そういうことはまったくないんです。

納期の迫った仕事を抱えているとか、趣味でやりたいことがあるとか、そういう何かに集中したり夢中になっていないと実現できないものがあるときには、それだけを考えていて、ほかのことには関心が向かないんですね。

だから、だからそういうときには、誰もが知っている大事件を知らなかったり、ヒット曲やファッションの流行や自分がどうやって暮らしていたかすら記憶になかったりする――ということが実際にあります。老化による単なる物忘れではない――と、信じたいところだけど……

啄木は

高きより 飛び降りるごとき 心もて
この一生を 終わるすべなきか

と詠みましたが、なかなかそうはいかず、しょうもないことに気を揉んだり気を取られたりしながら生きていくのが人間なんでしょう。

とはいえ、ヒマをもてあまして他人のあれこれに首を突っこんで自己満足していても、それで現実に自分が偉くなるわけでも変わるわけでもないので、ダ・ヴィンチの言葉がグサリと突き刺さる――のでしょうか。

閑話休題(それはさておき)、

このダ・ヴィンチの言葉は出典がよくわかりません。
英語圏では有名なフレーズで、カードやポスターになったり、Tシャツにプリントされたりしているんですが、本当に彼がこう言ったのか、確かなことはわかりません。
残された膨大な手稿にそういう意味のことが書いてあるとか、ダ・ヴィンチの生涯を描いたドラマでそう言っていたとか、説はいくつかありますが、決定的なものではないですね。

とはいえ、これがダ・ヴィンチの言葉かどうかなんて、どうでもいいことではあります。

その言葉がそこに存在して、それを目にした人が、何かを感じたり、それがきっかけで行動を変化させたりしたのであれば、誰の言葉であっても十分に意味があったということになりますね。


レオナルド・ダ・ヴィンチについて

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年~1519年)は、絵画『モナ・リザ』やミラノの修道院の壁画『最後の晩餐』などで知られるイタリア・ルネサンス期の天才ですが、軍事技術や人力飛行機などの機械工学にも造詣が深く、言葉の本来の意味での「万能の天才」でした。

一つの道を深く追求し極めるのも、広く多方面に才能を発揮するのも、それぞれの個性でしょうが、いずれにしても何かを新しく生み出すには、他人の思惑にとらわれすぎず(忖度しすぎず)、まずは自分でやってみるという姿勢が大切なのでしょう。

ちなみに、レオナルド・ダ・ヴィンチは、ヴィンチ村の(セル・ピエロの息子の)レオナルドという意味です。


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