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よくわからない未来へ向かう

先週、誕生日を迎えた、ちょっとした病気なのも判明した。別に死なないから全然大丈夫だけれど。
ただ自分自身にとっていろいろ不自由になる日がいつか来るかも?と思ったら大切な時間をどう過ごすかを真面目に考えようと思った。

考えてみると私の毎日には大きく2つの時間の過ごし方があるようだ。一つは何かを創るための時間の過ごし方と、もう一つは誰かに説明するための時間の過ごし方である。
特に思うのが、何かを創るのでなく、誰かが誰かに説明してヨシヨシと言われる目的のQ&Aを作成するために自分の時間を使うことに対して、何かもったいないなあと感じることである。
私は誰かに説明するための時間って、どちらかというとStayな時間だと思っているのだが、それこそまさにGoな時間だと思っている人がいて、その価値観のズレに苦しむことがあるのです。

そんな人達が、よく口にしたり、人を批判するときに使うことばだけれど
・一つ一つ”わかった”が繋がらないと気に入らない
・成果物を明確にしないと行動できない
・回り道をすることを能力がないと評価する
・マニュアルを作り、その通りに進むことが正しいと思う
・そしてわからない仮説を提案する人のことを、ムダでバカな人と評価する
確かに正論なんだよな。何もかもわかっている過去の積み重ねの分野では。
いわゆるちょっと前の実用書に出てくる”できる人たち”の考え方か?
でも現在の時代に合っていない感じもする。どこかの離れ小島で環境変化なく、時間が停まっている中、ガラパゴス的に隔離されて生きていくにはいいのかもしれない。

と考えたら、いわゆる合理的、論理的、効率的な追求することはクリエイティブに繋がらないかも。(←こんなこというと非難GoGo轟々か)
何故か?その3つは全て結果が見えることでのみ実現できるものだから。
それを事前段階で評価軸にしようとするということは、正論ばかりを並べて、過去にやったことばかり見てることになり、新しいことを採用できないことになるかもな。

未来に向かって進むということは、わからないことと共存することを楽しみながら、手に取れない価値を見出し大切にしながら、一歩ずつゆっくりと噛み締めながら歩くことではないかなと思う。
カオスを楽しむ、ふわふわを生かしてく。これからの時代、従来からの意思決定方法を思いきって手放すことが大切かもしれない。
(←こんなこと言ってると「また変なことをいう、だからダメなやつなんだ…」という声が聞こえそう。)

もし進む道に強引なブレーキがやってきたら…。どうしようか?
そう、何てことはない別の道を歩むだけ、残り少ない自分の大切な時間を自分自身で守りたい。
新しくもらえた一年でチャレンジをいろいろ積み重ねたいものです。(^-^)/

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