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長女の呪いとそのゆくえ

真面目だねー、と呆れるように褒められる。
仕方ないんだよなと内心で苦笑しながら
「ありがとうございます」と返す。

それに続く声にならないセリフ「だって長女だもん。」は、
子どもの頃毎日母に言われていた「お姉ちゃんでしょ」の名残だ。
4歳になるまではうんと甘やかされていたはずなのに、
妹が我が家になってきた途端、「お姉ちゃん」と呼ばれ始める。

お姉ちゃんでしょ、おもちゃ独占しちゃだめ(わたしのなのに?)。
お姉ちゃんでしょ、泣くのはやめなさい(まだ4歳だよ)。
お姉ちゃんなのに、抱っこしてほしいなんて変よ(へんなのか……)。

母も父もなぜかわたしを「お姉ちゃん」と呼んだ。
「お姉ちゃん」ことわたしは本心を隠すのが当たり前になった。
立場的にこうすべきだよ、我慢は当たり前だよ、
ほしいものをほしいと言ったら、周りの人がとても困るんだよ。
だからいつも変わらないで、困らせないで居てね。
そう言われ、もしくは暗黙のうちに囲いを組まれて育った。

自分の経験を基に考えると、そういう背景があるから
長女は圧倒的に
「自分の要望を自覚するのが下手」。
口に出したりアピールする以前に、自覚もできていないことが多い。
幼少時代から、纏足のような足枷のような行動規制があることと、
自分より無条件に愛されている(ように子どもには見える)存在がいること。
せめて二番目には愛されるために(子どもの感覚としては”そこにいることを許してもらえるように”)、長女はほしいものから目を逸らしている。

ほしいものをまともに見ることもできない人間が、
「ほしい」と口に出したり、
それを手に入れるためのアクションを取れるはずもなく、
年頃になった「お姉ちゃん」が恋に落ちる相手はなぜかやくざ者ばかりだった。

だって甘やかしてくれるんだもの。
わたしのことも、わたしの中の小さな「お姉ちゃん」のことも。
ほしいものを見抜き
(そう、本当はこんなキラキラした無駄なものがほしかった!)、
うっとりできる言葉を囁き
(わたしだけを見据えた「かわいいね」がずっとほしかった!)、
わたしをこの世界の中心にしてくれる。

彼はパパみたいにわたしを後回しにしないもの。
ママみたいに「あなたがいい子でいてくれて助かる〜!」なんて、
我慢を強要しないもの。

パパは言った。
「お前はそうやって、やくざ者と一緒になって俺たちを捨てるんだ!」
ううん、わたしはなりたくてお姉ちゃんになったんじゃない。
あなたたちがわたしに役割を押し付けたのよ……とは言えるはずもなく、
わたしは高圧的なパパとも、それまで恋してきた何人ものやくざ者とも違う
素朴な男といっしょになった。

日々は穏やかに過ぎ、わたしはしっかり者のお嫁さんとして家庭を築いた。
それでもときどき、長女の呪いへの疑いが頭をもたげてくる。
自分がほしいもの、したいことを相変わらずちゃんと言えない、
でも、ひょんなことからわたしはつぼみを見つけてしまった。
小さかった女の子として、そしてその子を抱えたまま大人になった女として、
いま置き去りにしたら、もう取り戻せなくなりそうなもの。
静かに枯れていくのを眺める方がいいかもしれないつぼみ。
それを見つけたわたしは悩んだ。
見ないふりして枯らしちゃおう、初めはそう思った。
このまましおらしくオバサンになって、おばあさんになってしまえば問題ない。
あと四十年ちょっとの辛抱。そう思った。
でもつぼみは萎れず、ぐんぐん膨らんで咲かせろよと主張し始めた。
わたしは自分の身体の声を聞くことにした。

長女にはやっぱり、やくざ者が必要だった、という話。次回へつづく。


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