からすの国

 ある日。バイトから帰る途中、23時半も過ぎ、明日までもう少しという頃、からすを見た。からすは、電信柱とガードレールの下で、電灯の光を浴びていた。最近交換された白色LEDの光を浴びて、黒い翼が油っぽく光っていた。濡烏色、とか言うんだったかな。
 変だと思った。カラスは本来、こんな遅くなる前に山に戻っている。夕方のチャイムを聴いてか、赤くなる陽の光を見てかは知らないが、大体5時かそのぐらいになると、家の裏の山に向け集団で飛び去っていく。それに、狸や猪さえ出るようなこんな田舎で、地面にただ立っているのは不自然だと思った。
 できれば近づきたくないと思ったが、帰路の方向に居たものだから、仕方なく無視して通り過ぎることにした。警戒しながら近づいていくと、からすはこちらを見て、そっと翼を広げた。ジュディ・オングめいて広げられた羽は、おそらく威嚇や敵意を示しているのだと思った。これは近づかない方がいいなと思って立ち止まる。からすは翼を畳む気配がない。
 おそらく1分程度の睨み合いの末に、私が先に出ることにした。こんな夜中に地面で威嚇ポーズをとっているからすは、きっと弱っているだろう、仮に襲われることがあっても、それはそれで笑い話になるな、そう思って歩き始めると、それがからすではなかったことに気がついた。それは、すでに死んでいた。
 どのタイミングで死体だと気づいたのかはわからない。しかし、近づくとそれはもう倒れていて、死体らしく脱力していた。翼が力なく広げられ、体はアスファルトへ突っ伏して、首が窮屈に曲がっている。だが、それはさっきまで確実に動いていた。数分は目が合っていたし、威嚇ポーズの始終を見ていたはずだった。このカラスは何なんだ?
 そう思うとて、死体に対して何か出来ることは多くない。ゴミを漁るカラスが多数の病原体や寄生虫を持っていると知っているから、できれば触りたくないという感情もあった。それに、きっと誰かが処理してくれるだろうと思った。変なものを見た、と思い、そうツイートして、さっさと家に帰ることにした。



 
次の日、カラスの死体を確かめに行った。“幽霊の正体見たり枯れ尾花”なんて言葉があるように、変なものを見たりそういう状況に遭遇したと思う時、たいてい変になっているのは自分の方だ。朝の散歩のついでだった。

 カラスはまだそこにあった。確かに死体だった。往来する車がそこだけ避けていて、少し可哀想だと思った。カラスの死体ってどうすればいいんだろうか。どこかに通報したほうがいいんだろうか。
 本当になぜだか今も分からないが、この手で埋葬してやろう、という思いが出来た。
 山で生まれたのだろうから、裏の山に埋めてやろう。夏場だし、暑さに腐ってしまっては可哀想だ。害虫の類に集まられても困る。ビニール手袋も軍手も家にあるし、数年前の蓄えでマスクも余っている。あとはトングでもあればいいが、最悪スコップに載せて山まで運べばいいや。そう決めて、家から防護装備一式(ビニ手・軍手・マスク・防水靴)とスコップと何枚かのポリ袋を持って戻った。トングは焼肉用のものしかなかったのでやめた。
 まず死体を持ち上げる。生物には水が多く含まれるが、生きている間はそれを漏らさないように頑張っている。逆に言えば、死ねば全て出てくる。死体発見から9時間前後経っているのだから、その手の液体や死出虫などが居てもおかしくないと思って、少し覚悟したが、まあまあな大きさのからすはひょいと持ち上がった。
 次に、ポリ袋に入れる。大きめの袋を持ってきたから難なく済んだ。持ち上げてみて、確かだ、と思った。死ぬと21グラムぐらい軽くなるらしいが、死体の重さは相当だ。何かそう感じさせるものがあるのだろう。
 最後に山に埋める。黒い何かが入った袋を持ち、軍手とスコップを抱えた成人男性が居たら通報されそうなものだが、幸い特に何もなかった。というか、人が居なかった。暑いし。
 最後に、埋める。埋めるためには同量以上の土を掘る必要があるので、それなりに頑張る必要がある。ひたすら掘る。ここ、裏山の麓は、昔農地だったらしい。だから、土は結構柔らかい。5分もかからずに、30cmぐらいの深さの穴が出来た。後はからすの死体を入れるだけだ。
 ポリ袋からカラスの死体を出す。ポリ袋を投げて置く。積んである土を掬ったところで、ポリ袋が飛んでいくのに気づいた。スコップを捨てて袋を取りに行くと、足が縺れて見事に倒れてしまった。バカみたいだと思ったが、袋は掴んだ。立ち上がろうとしたその時、からすが動いていた。
 風だと思った。でも、あの重さは風じゃ動かない。穴の中からこちらを見て、翼を広げていた。埋めないと。咄嗟にそう思った。立ち上がってスコップを持つ。からすが鳴いている。どこのからすが?
 山からからすが何羽も飛び出してきて着地し、アフリカ先住民族めいて横陣を展開する。スコップの裏を叩いて音を出すが、怯む様子はない。横陣は後ろにも展開されていた。からすが協調行動を取るとは知らなかったが、人を襲うことがあるのは知っている。スコップを持って逃げることにした。
 裏山から家までの道を駆け戻る。FPSで走る時みたいに、スコップを胸の前で抱き、息が切れても走る。背後からは、ゲオゲオとからすが鳴いていて、それらは近づいてくる。狩り行動の鳴き声なんだろうか。少し広い道に出て、山を下る坂に差し掛かるはずが、そこには何もなかった。
 本当ならここに、農業道路から居住区道路への接続となる坂があるはずで、それは舗装されているからすぐ分かる。でも、走っても走っても坂があるはずの側には木と斜面だけがあって、何も見つからなかった。焦って走りすぎたのだと思ったが、仕方ないので農業道路をそのまま駆け下りていく。少し遠回りになるが、このまま行けば隣町から家に帰れる。あと100mぐらいの道を駆け下りる。確か住宅地に出るはずだ。もうここまで走ったら、からすも着いてこないような気がする。
 住宅地に出た。と思った。あるのは、切り通しらしい山道だった。背後からからすが迫ってくるのを、けたたましい鳴き声で感じる。かなり妙だし、怪異の類だろ、これは。そう思う。切り通しの方からも鳴き声が聞こえる。しかし小さく、おそらくは少数だ。だからまだ走る。少し丘になった切り通しの向こうに、少し大きめのからすがいた。それは、何か喋ったようだった。



 あるいは、そうでなかったのかもしれない。喋ったり鳴いたりしたのかもわからないが、何か察して欲しいことがあるのだと見えた。だから立ち止まって、からすを見つめた。
 からすは向こうを見て、切り通しの右側に消えていった。それを追うと、右側が獣道になっていた。腰から胸ぐらいの高さの草を、スコップでかき分け進む。枝を叩き落して進む。ハーフパンツで露出した脛に切り傷がたくさんできるのを感じる。からすはもう見えない。進むしかなかった。
 しばらくすると、緩い斜面と、そこに空いた洞穴のある場所に出た。状況としては横穴墓が近いと思う。洞穴の方へ近づくと、その上、少し張り出した穴の上部に、あのからすが止まっていた。それは、こちらをただ見ていた。
 野良猫に話しかける人は、本当にコミュニケーションを試みているわけではない。だから、意味ありげに佇むからすに話しかけるとき、何か滑稽だと思った。
「お前は何なんだ」
 当然、返答が返ってくるわけはない。そう思った。餌を欲しがる犬が顔で訴えてくるように、からすはこちらを見ているだけだった。だから、何を思っているかは知らない。ただこちらを見つめているだけだ。
 私は、オカルトを信じる質ではない。でも、昔からそういうのは好きだった。今はなき2ちゃんねるのまとめを読み漁って、リゾートバイトとか蓋スレとかを見て、電気を消して寝るのが怖くなったりした。その度に、これは誰かの作り話だって、そう思って安心していた。でも、今はその作り話の、当事者になっている。そしてこれはたぶんリアルだ。だから信じるほかないと思った。
 からすが地面に飛び降りると、首を振りつつ洞穴に入って、何かを咥えて出てきた。それはからすの羽根だった。目の前まで歩いて近づいてきて止まった。それを受け取ると、少し後ろに下がった。持っていろ、ということだと思った。からすは振り向いて飛び、枝に止まった。今度は着いてこいということか。
 スコップを拾って着いていく。今度は藪ではなく、木々の中を。足元には根っこがうねっていて歩きにくい。でも置いていかれないように早足で進む。坂でも何でもない平坦な道をひたすら歩く。
 しばらくすると、また横穴墓群のような場所に出た。視界の右側は洞穴、左側は丘の稜線がずっと続いている。目の前には倒木があって、その上だけ視界が開いて、空が見えるようになっている。からすは倒木の上に止まっていた。からすはこちらを向いて、次いで下を見た。倒木の下だけ土が浮いていた。おそらく、何かが埋められた形跡だった。これを掘れということだろうか。
 ちょうどスコップを持っているわけだし、穴を掘った。しばらくすると羽根が一枚、二枚と見つかった。掘り進めると、からすの死体がまるごと出てきた。それは土に埋もれていたとは思えないほど綺麗で、掘り出した死体から砂を払えばほとんど剥製のようだった。剥がれた羽根とからすの死体を並べてやると、倒木の上から降りてきたからすが、掘り出した羽根を啄んで死体になすりつけていた。すると、死んでいたからすが動き出した。バタバタと土を落とすと、元から生きているからすと見つめ合って、どこかへ飛んでいった。
 この世界のからすは鳴かない。この世界の、と言ったのは、明らかに知っている世界では無いからだ。蝉の声は聞こえなくなっているし、陽は暮れず、9月の午後5時ぐらいの暗いとも明るいとも言えない感じを保っている。暑さもほとんどなく、ただ風が吹いている。
 飛んでいくからすを眺めていると、木々の中から続々とからすが飛び出し、空で大編隊を作っていた。この世界の時間の流れは緩く、昼夜が存在するのかも良くわからない。しかし続々集まってくるからすは、確実に空を隠していった。体感で15分程度で空は完全に隠れ、辺りは夜とまで行かずとも日没後ぐらいの暗さになった。
 大編隊は時折縺れ、波間が如く陽光を地面に垂らしてくる。水中に光が指すように、キラキラと色んな場所が照らされていた。落ちていたもう一枚の羽根をなんとなく拾うと、ちょうど光が差してきた。何の変哲もないただの羽根だと思った。後ろのポケットにしまうと、光は消えた。スコップを拾って歩こうとしたら羽が落ち、もう一度光が差してきた。なるほど。とりあえず持っておくことにした。
 案内してくれたからすも居なくなってしまったから、ついにやることがなくなってしまった。放浪するにもここは変な場所が過ぎる。しばらく休むことにした。



 倒木に腰掛けて空を見た。水族館のイワシや飢饉の記録映像に見るイナゴのように、いやそれよりも多くのからすが空を覆っている。被覆は完璧ではなく、至るところで穴が空いて青空か陽光が見え、すぐに埋まって別の場所に穴が移る。
 二枚の羽根を弄ぶ。普通の黒い羽根だ。特筆することがあるとすれば、ほとんど汚れていないということだろうか。手で持ったままなのは邪魔なので、せっかくだからヘアゴムに引っ掛けておくことにした。たぶんインディアンみたいな見た目になっているだろう。この状態でも光は差す。
 スコップの先を磨いたり、木の洞を検めたりして時間を潰していると、雨が止むのと同じような雰囲気で少しずつからすが消え、そこらに陽が差してきた。空に居たからすは皆バサバサと羽音を立てて戻ってきているようだった。おそらくさっきと同じからすが遠くの方からアプローチしてきて、私が座っている倒木に止まる。そして、こちらを見た。
 正確には、こちら側を見ているだけで、私を見ているわけではなかった。からすと同じ方向を見ると、何十羽というからすがこちらに飛んできていた。そう呼んでいいのか知らないが、追手だろうと思った。立ち上がってスコップを握り、振り返って走ろうとすると、反対側からも同じぐらい多くのからすが飛んできていた。危害を加えたり捕らえたりする目的で飛んでいるのかは知らないが、目的が何であれ、追ってくるものからは逃げた方がいいだろうと思った。
 横穴墓の丘を越堤して逃げるほか無い。その通りに動く。飛来するからすは、走る方向と垂直に交差するよう、私の前と後ろに二本の線を引くように陣を展開している。あのからすの誘導も無いので、木々と藪の中をひた走る。今頼れるのは己の体力とスコップのみ。体力は心もとないが。走っていると森の切れ目があった。始めの切り通しのところへ出られればいいが。
 出たところは広場だった。草原という程ではないが低い草が生えていて、円形に整えられている。整えられていると思った。中央には海岸で見るようなテトラポット並みの大きさの岩が2つ3つ転がっていた。
 その上にはひときわ大きなからすが居た。
 それはハシビロコウぐらいの大きさだったと思う。からすというより黒い鷲とかそういう表現をしたほうが正しいかもしれない。横を向いて見上げ、顔の左側面だけをこちらに見せている。サッカーのエンブレムみたいだと思った。神々しさがあった。話が通じそうだと思った。
「ここはどこだ」
 動かない。
「帰りたいんだが」 
 そういうとこちらを正面に見て、岩から降りてきた。胸ぐらいまでの大きさがあった。140cm位あるんだろうか。反応からして話が通じているわけではないと見える。それでも整備された円形の広場と岩に儀式的なものを感じる。これはたぶん王とかなんだろう。
「俺はここにいるべきじゃないだろう、帰らせてくれよ」
 からす王は私を見上げている。動かない。
「これも返しておく」
 ヘアゴムから羽根を二枚引き抜いて示す。からす王はそれを咥えると、自分の尾羽根に突き刺して、翼を広げた。三対ある。上体が下がって、その反動で飛び上がる。こちらに飛び込んできた。視界が真っ暗になって、焦って引き剥がそうとする。油っぽい匂いがした。木に叩きつけてやろうとして走る。スコップを持ったまま走るのは何度目だろうか。
 バサバサ!ガー!凄い音がして視界が開けると、藪の中から農業道路に飛び出していた。脛は血だらけだし肘も擦りむいている。スコップはボロボロ。白かったAmazonのTシャツは土で汚れている。

 戻ってきた!


 帰宅すると2日経っていた。日曜の9時半ぐらいに家を出たはずが、戻ってきたのは8日の12時ごろだった。祖母が妙なものを見る目で私を見ている。そんな中麦茶を飲んだ。
 どう考えても正気ではないので、その日のうちに精神科へ電話した。
「おそらく統合失調症だと思うんですが…」
「初診だと検査が必要なので時間かかりますよ。明日から12日まで休みなので、次は14日に──」
「陽性症状が出ていると思います」
「わかりました、すぐ来てください」
 まあまあ歳のいった先生に何があったかを全て話すと、患者保護とか何とか言って若い看護師(男)を3人呼び出していた。
「採血しましょう」
 ヤク中だと思われるのも当然だと思う。だが、検査の結果に異常はなかった。脳波検査もした。異常なし。家族や親戚に病歴は?…なし。全員健康。薬を飲用していますか?…していません。ビタミン剤のみ。最近不安なことはありますか?悲しいことはありましたか?…ありません。夏休み入ったし、むしろうれしいです。虚無みたいな問答を続けていると、ふうん、と言ってキーボードを叩いた。
「夢じゃないかな(笑)」
 結局何の収穫も得られずに帰った。そして今、この記事を書いている。神隠しの類か何かなのか?
 だとしたら、私はどこへ行ったのか?
 



 埋めた場所を見に行った。ちゃんとその形跡があった。

刈られた草の奥辺り、乾いた色の場所が該当地点
写真は場所を秘匿するためにぼかしをかけている

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