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文章読本 三島由紀夫 中公文庫

 比喩と形容詞は、文章の王座から転落してしまいました。文章をちょうど凡才の植物のように、巧みに折り曲げたりたわめたりする技術は、ほとんど地に堕ちてしまいました。それはそれなりにいいことですが、ここにも日本の文学の奇妙な、偏狭な特質があらわれているので、西洋の現代文学では、一例がブルーストのような小説でも、クローデルのような詩人でも、ジロドゥーのような劇作家でも、またスペインのガルシーア・ロルカのような詩人兼劇作家でも、比喩の乱用の上に文学が特質をもっています。それはまた中世の文学伝統が、現代文学のなかに生き生きと生き長らえていることの証拠でもあります。
文章読本 三島由紀夫 中公文庫, p.47
 かくて小説では如何に心理的な小説でも人物の外貌がわれわれの第一の関心になります。よく心理小説では人物の外貌がちっとも描写されていないものが多い。しかしそれは人物の外貌が不必要なのではなくて、読者が別の道からその人物に親しみ、読者の想像にしたがって、その想像次第で読者の好みで外貌が目前に描き出されることをねらったものに他なりません。
文章読本 三島由紀夫 中公文庫, p.131
 ことに女性の服飾美や女性の持ち物に関して、小説家は読者と共謀してフェティッシュ(節片淫乱症)な興味をよせます。外国にはシュー・フェティシズムというものがありますが、ハイヒールなどは単に靴の描写だけでなく、そのハイヒールを通じて間接的なエロティシズムをただよわせるのであります。女性の描写が女性の実態や性格や気質や、人物としての現実性を離れて、衣裳や持ち物のようなものに及ぶとき、それはちょうど、収容所や僻地の兵営生活における女性の観念と同じように、一種の象徴的なエロティックな女性を表現し、これは小説の描写の重要な情報になります。
文章読本 三島由紀夫 中公文庫, p.p.145-146
 小説はあくまでも人間関係の物語であり、小説の発生過程がそもそも反自然的なものでありますから、日本の小説が小説よりも詩に近い要素をたくさんもっていると私が前に言ったことは、こうした自然描写の特殊性にもかかってくるのであります。第一章で人物描写についていくつか引用しましたが、ある引用から読者は、あたかも人物が自然の如く描かれていると感じられたことでありましょう。人間の生活の時間的な継続、変化、破綻などのようなダイナミックな要素よりも、自然の静的な象徴的な要素の方が、日本の作家に今もなお強い吸収力をもっているのであります。私はこれが小説に対してマイナスになるとは思わず、独特な日本の小説の特殊性を作っているものだと思います。
文章読本 三島由紀夫 中公文庫, p.154
 私は短篇小説ばかり書いていたときには、文章のなかに凡庸な一行が入りこむことがひどく不愉快でした。しかしそれは小説家にとって、つまらない潔癖にすぎないことに気がつきました。凡庸さを美しく見せ、全体の中に溶け込ませることが、小説というこのかなり大味な作業の一つの大事な要素なのであります。「月が上った。屋根のひさしが明るくなった。二人は散歩に出た」というような文章を書くときに、以前の私なら、そこへさまざまな自分の感覚的発見をちりばめることなしには書くことができなかったでありましょう。月には形容がつき、ひさしの明るさには、ひさしの明るさ独特の色調の加減が加味されたでありましょう。しかし私はいまやそういうところに労力を惜しんで、むしろ自然な平坦なところどころに結び目をこしらえることに熱中します。あまり結び目が多すぎては、その文章をのみこむのに喉につかえると思うからであります。そうして私は、文章があまりに個性的な外観をもつことを警戒します。そうすれば、読者は作者の個性にばかり気をとられて物語を読まないからであります。
文章読本 三島由紀夫 中公文庫, p.190

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