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『ハリウッド脚本術―プロになるためのワークショップ101』

★誘引:最初に脚本家は、観客の注意を引き付ける。我々は主人公を確立して、その登場人物に一つの問題があることを提示する。この問題は、明確にそれと分かる目的に到達することで解決されなければならない。観客が、その登場人物に一人の登場人物として興味を持つのが理想である。しかしながら、そういった興味だけで、観客の注意を間違いなく引き付けるのは、まれである。彼らの実際の注意は、登場人物ではなく、その登場人物が落ち込む困難な事態の方に向けられる。その登場人物は、華麗で、公正で、尊厳に値し、あるいは少しばかり攻撃的であるかもしれないが、観客の興味を引き付けるのは、その登場人物が直面する問題である。第一幕の最も早い段階で、観客の面々が自らに「その登場人物が、この困難からどのように脱出するのか見てみたい」と思う必要がある。もし、あなたが脚本家として観客にこういった誓いをさせることに成功したら、魅力的なストーリーを語ることに、かなり近付いたことになる。★期待:中盤である第二幕では、脚本家はストーリーのテンションを上げて、もっともっと面白いことが起こるだろうという観客の期待を高めていく。しかしながら、これらの面白いことは、単なるバラバラのエピソードやギャグではない。それらは、ドラマが描こうとしている重要な変化の成功あるいは失敗に欠くことのできないつながりを持っている。それらはストーリーの文脈の中で我々にとって面白いのである。なぜならば、我々は登場人物に成功してもらいたいのだが、そうするためには、登場人物は何か困難な障害を克服しなければならないだろうということが、分かるからである。言いかえれば、主人公はドラマの葛藤が原因で、外的な敵対者と主人公自身の内的な恐怖の両方に直面しなければならないのだ。★満足:主人公が内的な障害を克服し、第一幕で確立された外的問題を解決し、価値ある目標に達すると、観客は第三幕に満足する。こうして登場人物は、第二幕を通じて作り出された緊張をゆるめ、観客を劇場から、自分たちは完全なストーリー、全体の統一を見たと満足させて送り出す。彼らは劇場を出るときに、幸福かもしれないし悲しいかもしれない、意気揚々としているかもしれないし憤慨しているかもしれない、笑っているかもしれないし泣いているかもしれない――しかし彼らは、ストーリーが完全に終わっていて、終末が不完全ではなく、そして、ほんの二時間という中で世界が本当に意味をなしていたから、満足しているのだ。

『ハリウッド脚本術―プロになるためのワークショップ101』, p.p.20-21

あなたの主人公がする最初の劇的選択は何ですか?なぜ、あなたの主人公は、もっと容易な手立てを取る代わりに、その選択をする必要があるのですか?主人公が劇的選択をすることで、まず何が起こりますか?主人公の劇的選択により、他の登場人物たちはどんな影響を受けますか?

p.45

★葛藤の焦点:登場人物の内的な欲求を明らかにする――自己概念に直面する――ための鍵は、もちろん、ドラマの外的な葛藤である。自己概念は十分に守られ拠りどころとなるものなので、登場人物は決して変えようとしないだろう。認識的不協和の理論の言い方をすれば、人は不協和を増加させそうな状況や情報を積極的に避けるものである。言いかえれば、登場人物に自分の自己概念を脅かすような困難な選択をするように強いるためには、キッカケとなる事件によって起こる重大な対立が必要だろう。ざっと五種類の、登場人物と周囲の社会の劇的な変化の刺激となる劇的葛藤がある。それは、個人内、個人間、状況的、社会的、そして関係的の五つである。1:個人内の葛藤の焦点となるのは、自己不振にはまりこんだ登場人物である。これら”絶望への長い旅路”映画は、最も劇的葛藤の焦点のないものとなる。なぜならば、登場人物の苦悩は本当に苦しいものであるかもしれないが、その葛藤が登場人物の内部に閉ざされているという事実そのものが、映画的ではない不活発さを助長しているからである。すなわち、その登場人物が単に座って悩む一方で、観客の我々は見るものがほとんどないのだ。『サウス・キャロライナ』(83)のようなこれらの映画は、しばしば、心の内部を重とする小説から脚色されたもので、劇的葛藤を生かしておくために、ナレーションとか事情を伝える長いフラッシュバックのような、実にやっかいな文学的テクニックが必要となる。2:個人間の葛藤の焦点は、より劇的である。なぜならば、一人の登場人物の内的な不安が、もう一人の、しばしば密接な関係のある登場人物に対して行動として示されるからである。こういった種類のドラマは、感情的な混乱で魅力的となり得るが、普通は、映画というよりも撮影された舞台劇になる。『マイ・ルーム』(96)、『普通の人々』、『愛と追憶の日々』(83)、そして『ドライビング・ミス・デイジー』(89)ですら、こういった種類の一部屋ドラマの例で、共通して、差し迫った葬儀、不治の病、結婚式、あるいはほかの強制的な家族の再会でドラマが進展していく。そういった家族再会の場で、登場人物たちは感情をぶつけあって争い、遂には彼らの間の長年の葛藤を解決するのだ。3:状況的葛藤の焦点には、『大地震』(74)、『タワーリング・インフェルノ』(74)、『ボルケーノ』(97)、『ツイスター』(96)のような自然の力との対立が含まれる。表面的には、登場人物が自身の中をトルネードに襲われる前に燃える建物から逃げ出せるかどうかが、ドラマとなっている。しかし実際は、燃える建物、地震、トルネードには何の意志もない。それらは自然の力がすることをやるだけで、敵対的な意図はまったくなく、影響を与える登場人物のことも完全に意識していない。そこで葛藤の結果は、単純な二者択一の問題になる――登場人物が生きるか否かである。登場人物が生き残るためには、肉体的な強さと利発さが要求されるのかもしれない。しかし、彼らの自己概念には何ら深刻な疑いは向けられない。なぜなら教義的な結果は少しも問題となっていないからである。登場人物も周囲の社会も大災害のストーリーには、あまり影響を受けないだろう。代わりに個人間の葛藤は、状況的な危機の文脈の中で本当のドラマを作り出す。4:社会的葛藤の焦点は、人と集団との間で起こる。文化的あるいは社会的な葛藤が描かれる。社会的葛藤のドラマの扱いづらさは、社会政治的および文化的な姿勢は実に曖昧なので、主人公が自分をハッキリと示すことを強いるほどに、何か特別なものと闘うのが困難だということである。そこでこの社会的な葛藤は、普通は集団の価値を代表する擬人化された敵対者が必要となる。5:関係的葛藤の焦点は、互いに相容れない目的を持つ敵対者との直接の対決である。外的な目的を達成するために、主人公は積極的な自分をハッキリと示すことを強いられる。あなたのストーリーが、どの種類の葛藤の焦点を作り出すにせよ、主人公に重要な人生の変化を強いるのは外的な対立で、それによって観客である我々は自分自身についての何かを学ぶ。その経験を満足すべきものとするのは、ドラマを通してもたらされる、このヴィジョンの明確さである。ただしこれは、脚本家が観客の説教に乗り出すことは意味しない。我々に教訓を教えるように計画された映画ほど、悩まされるものはない。我々はプロパガンダされるためではなくて楽しむために劇場へ行く。しかし意図していようとそうでなかろうと、我々はまた啓蒙されることも期待している。それこそがドラマの経験の何たるかである――世界を、ほんの少し理解できるようにしてくれる共通の体験である。

p.p.52-57

基本的な必要性の等級
①心理的必要性(食物、水、空気、住居、セックス)
②安全の必要性(治安、安定、秩序、防御、恐怖や危険からの自由)
③社会的必要性(愛、受容、一員であるということ)
④利己的必要性(尊厳、評判、自尊心、地位)
⑤自己の実体認識の必要性(創造性、自己表現、個人的な成就)

p.p.60-62

最も効果的な耳を傾けるテクニックは、人物研究を書くということである。「書く」という言葉は、作文をするということを意味していない。むしろ、書かれるのに任せるのだ。すなわち、キーボードに指を置いて、待つのである。そして、耳を傾ける。耳を傾けて待つ。遅かれ早かれ、あなたの登場人物は話し出すだろう、ストーリーを語り始めるだろう、個人的な履歴を述べ始めるだろう。それが起こり始めたら、タイプを始めて、登場人物が何も言うことがなくなるまでやめてはいけない。たぶん、三十から六十ページの間の材料を得られるであろう。①現在形で書くこと ②能動態で書くこと たぶんまた、この材料から脚本で使われるものは何もないだろう。人物研究の最良の扱いは、引き出しに入れて忘れてしまうことである。

p.69

現在形と能動態で、あなたの主人公の居住空間にある物を述べる2ページから4ページの物語を書いてみましょう。その物を通して登場人物があなたに話しかけるようにしましょう。
どのようなアクションをして、彼あるいは彼女はそれらを手に入れたのでしょうか? それらは、どんな価値を表しているのでしょうか?
現在形と能動態で、あなたの主人公の過去のある時点からストーリーが始まる時点まで続く、2ページから4ページの物語を書いてみましょう。彼あるいは彼女は、スクリーンに登場する直前に何をしたのでしょうか?

p.71

カウチ・ライティング:今は、ソファーに横になるか公園の木の下でぶらぶらするなどして、想像力を自由に解き放ってストーリーのための不思議な相関関係を作らせるときなのだ。しかしながら、カウチ・ライティングは宇宙を自由に漂うものかもしれないが、完全に方向性のないものではない。それは何もしないことの言い訳ではない。代わりに、あなたのストーリーの文脈に関係のある特別な連想をするために、現在はファジー理論と呼ばれているものを使っているのである。もしあなたが、フレッド叔父さんに彼の誕生日に何を買おうか考えているのに気付いたら、それでオーケイだが、あなたが語りたい特定のストーリーについて考えることに戻るように自分を持っていくこと。自由な形式の部分は、あなたが特定の線的な方法でストーリーについて考える必要はないということである。代わりに、あなたのストーリーの時間と場所、さらに行き当たりばったりの出来事に、あなたの創造的な自己を浸らせなければならない。音楽を聞き、写真を見て、そして何よりも、あなたの印象の思いつきのメモを書き留めるように。もちろん、その全部が脚本に生かされることはないだろう。しかし、あなたの活発な白昼夢のどれほど多くが、信頼性のコスモスに貢献する出来事、登場人物、会話の断片を作り出すかということに、驚かれるであろう。再び、登場人物を造り上げるよりも彼らが現れるようにしたいのと同じように、文脈も、形にするために細部から組み立てるのではなく、おのずから語り始めてくれるのを、あなたは望んでいるのである。

p.p.92-93

書くときに、子供たちのグループを引率して夜の森の旅をしていると想像してごらんなさい。彼らがどんなに冒険の興奮を望んでいても、彼らは自宅にいるという安全と安心を捨ててきているのだから、あなたが面倒を見てくれるだろう、森の中で迷わせたりはしないだろうと絶対に信じる必要があるのだ。

p.95

あなたの脚本の、劇的強調、場所、時間、登場人物の行動様式という主要な要素を探求し、明確にする文脈研究を書いてみましょう。文脈練習のやり方にいいも悪いもありませんが、登場人物研究と同様に、現在形と能動態で書くという規律を身につけるべきです。
あなたのストーリーの主要な感情面のつながりは何ですか?
あなたのストーリーに対する、観客の場所と道具への期待は何ですか?
観客の自発的な不信の棚上げをないがしろにせずに、劇的に圧縮された時間の中で、どのようにあなたのストーリーは信頼性を創造しますか?
あなたの登場人物が暮らす時期と場所で確立される、彼らの一般的な姿勢、価値、振る舞いは何ですか?

p.97

1・個人内の苦悩のジャンル
2・個人間の葛藤のジャンル
3・コメディーのジャンル
4・おとぎ話
5・個人の探求
6・探偵のジャンル
7・ホラーのジャンル
8・スリラーのジャンル
9・アクション・アドヴェンチャーのジャンル
10・形而上的苦悩のジャンル

p.p.100-110

あなたの脚本は、ジャンル表のどこに適合しますか?
もしあなたの脚本が、これらジャンルのどれにも適合しないと思うなら、あなたが書きたい映画をもっとうまく記述すると信じられるのは、どんなジャンルですか?
述べられている文脈の要素を使うと、そのジャンルのあなたの定義はどうなりますか?
あなたの新しいジャンルは、増大する個人および社会の危機の連続体の、どこに適合しますか?

p.111

徹底的に何もこのシーンでは起きない。登場人物たちについて何も学べず、プロットは前進しない。さらに、まったく不必要な家具の記述があり、髭剃りに関連して完全に見当違いな音の合図がある。脚本家以外の人間には本当に意味のないシーンである。ページの上でスクリーン上に文字通りに起こることを創造しようとするのは、脚本家の共通の間違いである。あなたの技巧は、絵を叙述することではなくイメージを喚起することだというのを忘れないように。スクリーン上で起こることの正確な描写ではなく、本質、アクションの感覚を創造したいはずだ。

p.p.141-142

そこで一連の出来事を逐一書こうとするのは無意味である。代わりに脚本家は因果関係のアクションを書く。始まりと中盤と終末があって、読者にスクリーン上ではどうなるかとリズミカルな感覚を与えるシーンである。脚本家はページの上で興奮を創造しようとするが、それはスクリーン上で改めて創造される興奮を暗示できても、それの複製ではない。確かに、すべてのシーンが興奮を呼ぶものではない。少なくとも視覚的には、である。欠くことのできないプロットや登場人物の情報を含んでいるものの、それ自体では視覚的に劇的でないような、食事のシーン、電話の会話シーン、車を運転しているシーンは必ず存在するものだ。これらは、監督や俳優がそのイメージについての責任を取るべきシーンである。脚本家としてあなたは、映画のとりわけ視覚的な資質である俳優の顔の表情や身振りのための、劇的な基礎を提供する。こういった状況では、シーンの設定の最小限の指示以上の何かをページの上に提供しようとすらしないことだ。

p.p.143-144

あなたが書くどのシーンの目的も、何かを起こさせるということである。登場人物に深く入り込み、プロットの先に進みたいと望んでいる。しかし、もしそれが脚本執筆の唯一の目的であるならば、脚本執筆は青写真にすぎないとの告発は、真実からそう遠くはないことだろう。こう言えるだろう。「これが起きて、登場人物はあのように反応して、それから、それが起きて、登場人物はこのように反応して」と。それは、ストーリーの要素のかなり正確なリストかもしれないが、きっと読むには退屈な文書で、完全にスタイルなどないことだろう。脚本家は、最終的な映画への文脈と一貫したストーリーに寄与する何らかの責任を放棄することだろう。

p.146

会話には二つの機能がある。ストーリーを前進させることと、登場人物を明らかにすることである。映画は視覚的なメディアだとしばしば言われる。しかし登場人物たちは声をだす生き物で、モノを書くということは絵ではなく言葉に関するものだ。特定の純粋映画や実験映画、あるいはダンスや他の芸術形式の記録のためのメディアとして使われる映画は、会話なしで存在するかもしれないが、一九二七年の『ジャズ・シンガー』以来、長編映画はトーキーとなってきている。日常生活では、話すことが我々の重要なコミュニケーションの手段である。

p.148

「どうしてほしいんだ?」と「大丈夫か?」である。「どうしてほしいんだ?」というセリフは、主人公か敵対者に、目的を明確に読者に言明させる機会を与えるために、最良の脚本においてもおそらく必要だろう。実際の映画では、そのセリフは何かアクションに取って代わられるかもしれないが、脚本では読者になぜ登場人物が今こうしたことをしているか確信させる必要がある。同様に、「大丈夫か?」というセリフは、事実上どんな映画でも避けられない。ドラマは葛藤である。葛藤には結果がでる。結果は、しばしば損害をもたらす。そこで、登場人物が飛行機から転落しようと恋に破れようと、誰か他の登場人物は、やがては「大丈夫か?」と尋ねるだろう。

p.p.149-150

会話のシーンに期待を与えるのが、危険の感覚である。登場人物たちは何についての葛藤中かを自問すること。自己概念を覚えていますか? そのシーンで個々の登場人物は何を冒さなければならないのか? 各々の個人に何が問題なのか? 各々の個人は、何を失ったり得たりする可能性があるのか? そこで、これまでに間違いなくあなたが発見しているように、よい会話の秘密は、サブテキストにエネルギー、そして期待の――各単語(Subtext, Energy, expectation)から一字ずつ集めれば、SEXとなる。これは、よい会話を書くために覚えておくには最高である。セックスの緊張、予期、エネルギー、興奮、恐怖、楽しみ、期待、そして、満足は、映画の会話の最良部分に類似している。

p.151

モノを書くことでの才能の問題は、相当に過大評価されている。ある人々は生まれつきのストーリーを語る能力と思えるものを持っており、ある人々はジョークを作るのが得意で、ある人々は登場人物に対するコツを持っているようだ。モノを上手に書くことは本能に関している――けれども、それはやっていくことで獲得する本能である。モノを上手に書くということは、何度も何度も何度も言葉を組み立てて、あなたの魂が言おうとしているものを読者に選べるようになったと、絶対の満足を得るまでやることだ。我々の大部分は遠くの蜃気楼を見ることから始める。おそらくそれは、一人の登場人物、一つの場所、一つのシーン、あるいは我々が探求したいテーマの蜃気楼であろう。この、はかない幻想が我々の頭の中で動いたり跳ね回って、遂に我々はそれにある種の執着を持つようになる。一つの愛着で、それが夢想を突然に貴重な見通しという、重力のない意気揚々さへと転じていく。即座に、我々は全体のストーリーを一度に見ることができる。一つ一つがとてもピッタリと収まっていく! 素晴らしい。完璧な脚本!

p.156

貴重な見通しの先に進むということは、かなり真剣なカウチ・ライティングに落ち着くことを意味する。さて、これはタフな局面である。なぜならば、あなたは家族や友人から目をぼうっとさせて散発的に聞き取れないようなことをつぶやいては、時間を空費してブラブラしていると非難されるからである。あなたは、思われていた通りの役立たずの怠け者と宣告されるだろう。もちろん、まったく真実とはほど遠い。実際はあなたは書いているのである。あなたの脚本の前提となる宣言に向けて黙想し、思いめぐらし、反響を見ているのである――かかわるもの全部である。ただ、あなたが語ろうとするストーリーは何なのか? しかしながら、もしカウチ・ライティングの時間を生産的に使ったのなら、おそらくあなたはキー・ボードに指を乗せるか鉛筆を握って、重要この上ない脚本の概略の創造を始める用意ができているだろう。これは、いわゆる”天体観測の草案”である。昔の天体を示すための時計仕掛けのように、脚本の概略は、未知の脚本の宇宙の始まりから中盤を経て結末までの、あなたの旅の道先案内をしてくれる手立てである。その宇宙の星雲は、巨大な点をつなぐイメージである。最も明るい星は容易に見ることができて、そこからつながりのある固まりを作り、それが星雲からイメージを創造する。

p.p.157-158

あなたはまた、登場人物の研究または文脈の研究を書くために、第一稿の執筆を中断する必要があるかもしれない。なぜならばあなたは、ストーリーがどこに向かうのか、あなたが知っていた登場人物が、協力を拒否することについて自分が閉口しているのが分かるからだ。それは構わない。立ち止まりなさい。第一稿を脇において、登場人物の研究をその登場人物を自由にするために書くこと。あなたの題材、ストーリー、登場人物たち、文脈を探査し調査するためにしなければならないどんなこともやりなさい。この第一稿は、概略の明るい星の間にある、広大な暗い空間である、それらの質問全部に答える時だ。

p.160

①シーンの中の不必要な記述を全部取り除くこと。
②ING狩りに行こう。

p.161

★ライターの生活:モノ書きというのは、常に不確かである。最も良い場合ですら、プロセスの始まりとなった、あの貴重な見通しには決して十分に釣り合いはしない。作られたものは、常にある点での妥協である。おそらく、途中であなたがしなければならなかった創造的な決断から生じた妥協は、あなたの空想の気まぐれな幻想よりも、ずっと優れた作品を生み出しているだろうが、書かれたページは、技巧によりこの世にもたらされる以前の、完全無欠な白昼夢の子供とは決して同じではない。

p.164

『ライターは、まったく虚栄心が強く、利己的で、怠け者である。そして、彼らの動機の奥底には謎がある。モノを書くということは、相当に苦痛をともなう病気との長い闘いのように、恐ろしい精魂尽きるほどの経験である。もし抵抗も理解もできない何かの悪魔に駆り立てられているのでなければ、そんな事に乗り出そうとは誰もしないだろう。――ジョージ・オーウェル『なぜ私は書くか』一九四七年

『ハリウッド脚本術―プロになるためのワークショップ101』,p.166

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