ふぐりと共産主義 日本アルバイト紀行(2)

職種:結婚式やパーティの配膳(1)
時給:研修期間950円、1250円~1580円
旅先:千葉県浦安のホテル、船橋市線路沿いのアパート

 飲み会などでテーブルの上に食器や銀器が散らばっていると、知らずと整理し始め、あまつさえ客のくせに片付けてしまう自分がいる。

 ホテルの結婚式やパーティで配膳の仕事をして以来の癖だ。数多く経験したアルバイトの中で、最も多くの時間を費やし、稼ぎ、楽しみ、学ばせてもらった仕事だ。ここで僕は叱られることを学び、労働について考え、多くの人と出会った。あまりにたくさんエピソードがあるので、何回かに分けるとして、最初はウラさんに登場してもらおう。僕が「こんな男になりたい」と思った人である。

 ウラさんは、僕が最初に働いたホテル(合計3つのホテルで働いた)の常備だった。

 結婚披露宴に出席(あるいは出演)した方なら、テーブルに料理を運び、食器などを片付けるウェイターやウェイトレスを見たことがあるだろう。彼らが配膳と呼ばれる人種だ。そのほとんどはアルバイトである。ホテルの社員(黒服と呼ばれる)が配膳に入ることもあるが、それは例外的。通常は、そのホテル専属の配膳会社の社員か、配膳会社が手配したアルバイトが配膳に入る。

 配膳会社の社員(正社員か契約かアルバイトか判然としないのだが)でも、ほぼ毎日のようにいる人が常備。その中で、アルバイトの手配などする人は就労と呼ばれる。

 当然、僕が初めて配膳のバイトに入ったとき、ウラさんはそこにいた。ナカさんと並んで常に僕らの上に立って働いた。

 ウラさんに叱られた記憶は1度もない。不器用な僕がこの仕事で叱られなくなり、要領を得るまでにはかなりの期間を要した。ナカさんにはしょっちゅう怒鳴られた(後述するが、これまた良い体験となった)。しかし、ウラさんは絶対怒らなかった。

 じゃあおとなしい人だったのかと言えばそれは違う。逆に怒りっぽい人だったそうだ。

 ホテルの社員に怒っているのは、現実に見たことがある。配膳の人間が社員に怒るなんて、通常は考えられない。雇用主にたてつくんだから。しかも彼はパーティの最中に帰ってしまったのだ。これまた考えられない。彼は仕事においてはきっちりした人だっただけにとんでもない。それくらい怒り心頭に達したのだろう。「社員が配膳におんぶに抱っこじゃあさあ…」と文句をつけていた姿は、今でも目に焼きついて離れない。

 あんまりいい例じゃないが、仕事が終わった後、いつものように飲み、したたか酔っ払った彼は、牛丼屋に入って「なぜ生卵が50円と表示しておかないのか」と店員に怒り、料金を最後まで払わなかったこともあるそうだ。

 そんな怒りっぽい人なのに、下で働いている人には怒らなかった。叱り役のナカさんとの役割分担があったかもしれないが、修羅場と化す結婚式の裏方で怒らずにいることがどれほど困難かは、よく叱られたことがあるだけに肌身で感じる。弱きを助け、強きを挫く人だった。なにせご法度の社員との喧嘩は厭わないのに、怒鳴りつけやすいはずの丸顔バイト生には1回も声を荒げなかったのである。

 下品で申し訳ないが、なぜかウラさんというとふぐりが思い浮かぶ。いわゆる「金玉」だ。

 その日、僕らは「朝食べ」のためにホテルに宿泊した。「朝食べ」とはつまり朝食。修学旅行の学生たちが、ホテルのホールで朝食をとり、通常テーブルマナーを学習する。何が悲しくてバナナをナイフとフォークで食べなくちゃいけないのか知らないけど、高校生がテーブルについてバナナを食べたりするのである。朝7時半スタートくらいだから、準備はその前にしなくちゃいけない。ホテルは浦安にあったので、人によっては6時には家を出なくちゃいけない。そりゃなんぼなんでもきつかろう、ということで、ホテルの空き部屋に泊まることがままあった。

 前夜のうちにテーブルの準備を済ませ、へとへとになっている。飲み放題のビールを何本かくすね(ばれたらやばいが、紙袋に入れでもすればまず見つからなかった。ガードマンも黙認してたのかもしれない)、ホテルの部屋で皆で飲んだ。これは実に楽しい体験だった。1度泊まった部屋の窓から、向いの部屋で外人モデルが着替えているのが見えた(らしい、僕が見たときは既に着替え終わっていた)。

 一杯あおって風呂に入り、バスタオル1枚で寛いでいるウラさんのそのタオルから、ちょろりと見える2つのぶら下がっている何か。そんなちっぽけなことを、なぜか僕は忘れられないでいる。

 彼の家に宿泊したこともある。船橋駅近くのJR線路沿いにある木造アパートだった。若くてきれいな奥さんがいた。お腹には赤ちゃんがいると言って喜んでいた。さんざん飲んでたくせに、さらにウイスキーだかの杯を重ね「人間行き着くところは共産主義なんですよ」と真面目な顔で主張していた。

 「しばらくこのアパートから出ていかねえんだよ。ここには東西線が通るはずだから、立退き料をせしめてから出てってやる」

 なんてうそぶいてもいた。良し悪しは別にして、たくましいと思った。

 そうそう、つまらないジョークを飛ばすナカさんを冷やかしたら、ゲラゲラ笑って止まらなくなった姿も思い出す。昨日のことのように思い浮かべることができる。

 ウラさんが死んだと聞いたのは、出張先の神戸のホテルでのことだった。一緒にバイトしていた相方が電話で知らせてくれた。僕はぼおっと天井を見ていた。開業以来少なくとも3人は自殺してそうな陰鬱な部屋だった。

 理由はない。僕はお通夜にも葬式にも行かなかった。就職していて忙しかったのか、よく覚えていない。

 別に僕の人生を変えた人ってわけでもない。生きていたら、彼が僕を覚えていてくれたかも心許ない。けれども、今でも僕はウラさんのような男になりたいと思っている。そして、ふぐりと共産主義を思い出す。

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