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いじめられっ子が美女と付き合う 映画「アメージングスパイダーマン」
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米国映画はちゃんと弱者を描いていた。
「俺たちに明日はない」のクライドは、肝心な時に立たなかった。
「明日に向かって撃て」のキッドは泳げなかった。
アメリカンドリームの復活と言われた「ロッキー」でさえ、最後は負けている。
「ロンゲストヤード」なんか、救いのない刑務所務めの犯罪者が主人公(達)だった。
しょーもない奴が、とにかく頑張って、結局負けたり死んだりした。
ところが、ある時から米国映画は負けもしなければ、死にもしなくなった。
主人公は絶対正しくて、敵役は絶対間違っていた(テロリストが増えた)。
「ブラックサンデー」のように、米国人もパレスチナゲリラも、イスラエルの傭兵も対等に描く映画なんかなくなった。
正しい奴が悪い奴をぶちのめすようになった。
八王子出身で自分が正しいのか自信もなく、強くもない丸顔男には、常に違和感が残るようになった。
「性悪なお前の上にパラシュートで舞い降りてやるぜ」と歌うマッチョなロックンロールになじめないのにも似た気分になった。
ところが米国映画は、裏側で悲鳴を上げていた。
B級青春映画というサブカルチャーで、「俺たち弱者は、こんな米国には耐えられない」と訴え続けていた。
マット・ディロンがいじめっ子役でデビューした「マイボディガード」では、銃の暴発で弟を亡くしたボディガードが、その罪悪感から力を振るえなくなっていた。
主人公は、週末、友人宅に自転車で乗り付けてカードゲームに興じるしかない眼鏡男。高校の人気者になりたくてチアリーダーに金を払って恋人役を演じてもらう、限りなく情けない物語「キャントバイミーラブ」。
赤毛の変わり者の女の子が、金持ちハンサム青年に恋される(そして邪魔される)「プリティ•イン・ピンク」。
真っ暗な青春を送った女性記者が、高校生のルポルタージュを書くため母校に潜り込んで青春時代をやり直す「25年目のキス」(これでドリュー•バリモアに惚れ込んだ人も多いのでは)。
いや数多あるのだ、弱者の悲鳴を描いた青春映画が。
しかしそれはしばらく、常にB級だった。
メーンストリームではなかった。
たぶん「マトリックス」が黒いコートを着たオタクを主人公にしてから風向きが変わったのではないだろうか。
「アメージングスパイダーマン」を見て、改めて米国でも弱者が主流になったことを痛感した。
前半のクライマックスは、化学オタク(「トランスフォーマー」の主人公も歴史オタクだったよね)の主人公が、いじめっ子をなぎ倒してダンクシュートを決める場面だ。
殴られてばっかだった弱者がスポーツ野郎の鼻を開かす場面に、多くの米国人高校生が溜飲を下げたんだろうな。
もてないいじめられっ子が、高校一番の美女と付き合う。
サブからメーンに躍り出たいじめられっ子に、「アメージングスパイダーマン」を観ながら拍手を送った。
結局、強くなるんだけどね。
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