罪と罰日記 8月9日 ついに読了! 小沢健二じゃないけれど、愛し愛されて行きていこう

 「愛がなくちゃね」と言ったのは矢野顕子だっけ。つまり、「罪と罰」の結論です。愛されていれば、愛する人がいれば、生きる意味はある、価値はある。すっげえ、退屈な結論だが、いや、ジョン・レノンじゃないけど、「愛さえあれば何でもできる」ってことで。
 最終章。ラスコーリニコフはだらだらと愛する女性3人に会う。母、妹、そして愛する人ソーニャ。
 「そうさ、僕は卑劣漢だよ、愚か者さ」と自嘲するラスコーリニコフを、3人が3人とも優しく受け止める。ドーニャの部屋では、ラスコーリニコフが一度、結婚を約束した器量なしの娘の肖像画(この小説で特筆すべき唐突で謎に包まれた存在です)を見つけ、「この人とだけは、あのことについても話し合ったんだ」と打ち明ける。ソーニャは十字架を渡し、自首してアラスカの監獄へ向かおうとするラスコーリニコフに着いていこうとさえする。
 妹のドーニャと別れたとき、ラスコーリニコフはこうひとりごちる。

 「しかし、おれにそれだけの値打ちがないのだとしたら、どうして彼らはおれをこんなに愛するのだろう。ああ、もしおれがひとりぼっちで、だれからも愛されることがなあったら、おれだってけっしてだれも愛しはしなかったろうに」

 エピローグで、監獄から出て来るラスコーリニコフを、ソーニャが迎える。ドストエフスキーは、これは更正の物語だと結論付ける。

 「ひとりの人間が徐々に更生していく物語。彼が徐々に生まれ変わり、一つの世界から他の世界へと徐々に移っていき、これまでまったく知ることのなかった新しい現実を知るようになる物語である」

 愛し愛されて生きることが、世の中を良くしていくという、まあ退屈な結論に達する。が、幻想のようだが、実は真実だと思う。

 秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大容疑者も、確か「彼女がいたら」といったようなことを言っていたような記憶も。家族とも反目し合い、ウェブでも無視されたとか。

 もし彼が誰かにしっかりと愛されていたら…。
 うさんくさい言葉ではありますが、誰かを愛し、愛されて生きていきましょう。


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