親を亡くした時に思ったことをまとめる

先日母の年回忌を終えた。身バレのためにも何回目かは言わないけれど、相当な年数が経ったのだなと改めて感じた。
不思議なものであの日亡くなった母の年齢は変わらないなかで僕は三十路になった。

いつかはどこかであの日の気持ちをまとめたいと思っていたし自分自身もいよいよ人生の3分の1ぐらいは生きてきたので少し話をしようと思う。なるべく明るく書くことに努める。もしよかったら読んでみてください。

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その日は急にやってきた。とはいえその日の前日の夜、僕はやけに眠れなくて何度も起きたことを覚えている。
虫の知らせとはよく言ったけれど、何となく嫌な気はしていた。その日は土曜で昼から友だちとランチに行く約束をしていたけれど、起きてからもなお嫌な気はしていたので友人の約束を断って家にいることにした。

母はある部位にガンが見つかったが幸い早期も早期の発見で数日で退院をした。しかし、退院した後に手術跡が痛むということで検査入院をした。
検査の結果は〇〇といった診断で腸の収縮が少し激しくなったようなものだった。(身バレ防止のため表現を曖昧にしている)
お見舞いに行った父親も「すぐ退院できる」と聞かされていた。
しかしいつになっても母は帰ってこなかった。むしろ高熱が出たとか意識が薄くなったとかそんな連絡を父は受けていた。

それでも母親は僕にメールで「あと少しで退院できる。退院したらまたGLAYのライブに行こうね。」と誘ってきた。しかしその約束は果たせなかった。

友人との約束を断り一人でテレビを見ていた。姉も当時は独身でサービス業だったからテレビを見ている僕に「なんかあったら教えて、私も何か嫌な気がするから」と言って仕事へ出かけた。
その後すぐに父親から電話がなった。僕は覚悟して電話を取った。
病院までの道をどう来たかは何年経っても思い出せない、事故していないのが不思議なぐらいに。
病院に着いたら叔母と祖父母が泣きながら母を見ていた。たまたま叔母と祖父母は自分の姉であり娘である僕の母のお見舞いに訪れていたのだ。
僕は母の姿を見て全てを理解した。

もう一緒にGLAYのライブには行けない、結婚する姿も見せられない、もっといえば孫の姿も見せられないし会社で出世していく姿も見せられないのだと。
1時間後、姉が泣きながら会社の制服を着た状態で病院に着いた。これで家族全員が揃った。

僕らは先生に呼ばれ事情を話された。
詳しくは言えないけれど、ガンでもなく腸が原因でもなくただの院内感染で今母は生死を彷徨っていると聞かされた。
僕は先生に飛びかかったけどすぐに助手の人に止められたし、大人になって初めて父親に殴られた。その時は知らなかったけれど、母のガンを早期発見してくれたのはこの病院だけだった。セカンドオピニオンは大切だ。

母とは結局話をすることすらできずにお別れをすることになった。
こんなことなら仕事を早く切り上げて毎日でもお見舞いに行けばよかった。

永遠など無い。僕は心の中でそう呟いた。

ひとしきり泣いて家に帰った。
母も葬儀屋のサービスにより綺麗な姿になり家に帰ってきた。最後の最後まで心臓マッサージをされていた病院のベッドの姿が思い出せないぐらいに綺麗な状態でひょっとして起きてくるんじゃないか?と思ったけどそれは叶わなかった。

その次の日、通夜がありその次の日には葬儀が行われた。そしてそのまま火葬場へ向かった。最後まで泣かずにいたけれど、火葬場に運ばれる棺を見て僕は泣くどころか叫んでしまった。こんな自分初めてで、僕自身が一番驚いてしまった。しかし住職さんは僕に「最後まで泣かずに頑張ったね。君は気持ちの表現が上手だ。驚かなくていい、思いっきり泣き叫べばいい。」と言われ気持ちが楽になった。

母が骨になり、納骨するまでの数日、数ヶ月、僕はいつも泣いていた。

それでも人は不思議なもので少しずつ前を向いて歩き始める。
今では母との思い出をツマミに酒を飲みながら笑い時々涙することができるようになった家族も全員ずいぶんと歳をとった。

悲しみもまた永遠に続くわけではないのだ。

親の死を若い時に経験して僕はより一層、当たり前なんて無いと思うようになった。
僕らは今すごく便利な世の中で当たり前のことが多くあるように思う。
けれどそのどれもが当たり前じゃないと思えた時、僕たちはさらに知恵を出し合えるのではないかと思っている。

最後にもう一度だけ

永遠など無い。喜びもいつかは終わるが、それと同じく悲しみも永遠には続かない。




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