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【路地コラム?】なんかいい路地botと「アート思考」①


 こんにちは。
 路地関連の投稿は久々です。というか前回いつ書いたかも覚えていません。当初はすごい熱量で「なんかいい路地botのなんかいいとは何か考えます!」「なんかいいと感じることの大切さ!」などと殊勝なことを言っていましたが、結局この体たらくです(笑)

 勿論、noteを書いていない間にも路地のことをウダウダと考えていましたよ!......と言いたいところですが、正直あまり考えていませんでした。


解決策の見えない、初めての経験


 ではこの期間、路地のことを考えずに何をしていたのかと言われると、そりゃあ人生なので色々なことがあったのですが、実はその色々の内訳が悪い方面のことばかりで、かなり精神を病んでいました。
特に年明けから2月ぐらいまでの時期がかなりしんどく、酷い時は食事も入浴も面倒で、休日にはベッドから出られないなんてこともありました。それでも色々な事情から仕事を休むわけにもいかず、病院にも行けず、辛かったなあ。

 それまでの自分は子どもの頃から筋金入りの楽観主義者で、ほかの人なら危機感や不安を抱くような状況、むしろ抱かなければダメだろというような状況でも「まあなんとかなるだろ」と思っているような人間でした。ですからこんなに精神的に滅入る経験がなく、いざ病んでしまったときにどうしていいか本当に全くわからなかったです。誰かに相談しようにも、「自分がこんな状態になっていることを知ったら、どんな反応をされるだろうか」という怖さがありました。だから家でウダウダ考えて、余計苦しくなって......。よく生きてたもんだ。

結局、歯を食いしばって外に出る




そんな中、気持ちを幾分軽くするきっかけになったのは、私の場合はやはり外に出ることです。ベッドから出れなかった時期の自分に聞かせたら「それができねえんだよ!」と激怒されそうですが、私のような一人暮らしの人は、家に居てああでもないこうでもないと考えていても改善のきっかけは中々掴めません。なんとか力を振り絞ってお風呂に入り、着替え、外に出るしかありませんでした。

 それで外に出て何をするのかというと、人に会って他愛もないことを話すとか、劇場に映画を観に行くとか、本屋に行って本を買ってカフェで読むとか、なんでも良いから今の自分の脳内、精神内にない情報をインプットするのです。気持ちの上向くような何かが自分の頭や心の中、部屋の中にないのであれば、それを外に出て自ら探し求める。単純な発想ではあるんですが、落ち込んでいると見失ってしまいがちですよね。

 その時は、引っ越してから遠くなってあまり行かなくなったドデカい書店に久々に行って、なんでも良いから自分が今まで触れてこなかったようなジャンルの本を買おうと思い立ちました。何か新しい情報を、何か変わるきっかけを。理由はそれだけです。

 とはいえ行く道中ではまだ元気がなかったので、「この気分じゃ行ってもあんまり心に響かないかもしれないし、結局何も買わずに帰ることになるかもな~。まあ久々にこの街にこれただけでもよくやったほうか......」なんてウダウダ考えていましたが、いざ本屋に行くと、元気だった頃にワクワクしながら本を物色していたことなどを思い出し、当時の自分に「目を覚ませよ」と言われているような気持ちになりました。それだけでもかなり行く意味があったと思います。

『「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考』


 そんなこんなで、だんだんちょっと楽しくなりながら色々なコーナーを見ていましたが、どうせならなんかいい路地botにも関連のありそうな芸術論の本でも読んでみるか~、などと思い、芸術のフロアに向かうことにしました(実は美大生の猫ミームみたいな動画を観た直後だったというのもありますが)。

 芸術のフロアは画集などもたくさん置いてあって華やかですが、目当ての芸術論の棚にはやはりイメージ通りの難しそうな本がずらっと並んでいました。大学の時に専門でもない映像メディア論みたいな本をノリで買ってみたものの、ハイレベル過ぎて10ページぐらいしか読まなかったことを思い出し、「今回もそうなるのでは?」とまたマイナス思考が頭をよぎったのですが、ならば易しい内容のものを探して買えばいいのです。

探してみると、中でもひと際易しく書かれていそうな本を見つけました。


 アート思考か...…。
 すでにかなり売れているようだし、13歳からの、と書いてあるから易しいだろう。
 
 そんな単純な考えで手に取りましたが、少し試し読みして、「よし、読みやすいし、多分いい路地botにも活用できる考え方が書かれている!」と思い、迷わず購入。本屋を出るとカフェに入り、早速読み進めました(こういう時は普段と場所を変えるのが気分転換になって良いです)。


「行ったことのない場所なのに...…」




 ところで、なんかいい路地botにはリプライや引用RTで感想を書いてくださる人が結構いますが、その中でもよく見かける内容が「行ったことのない、知らない場所なのに架空の記憶が呼び起される」というものです。私もめっちゃわかります。でもこれ、何故でしょうか?
 
 そのヒントになりそうなことが『13歳からのアート思考』の冒頭に書かれていました。

 『13歳からのアート思考』のプロローグでは、美術館でモネの《睡蓮》を見た子どもが大人からは出てこないような「とある言葉」を発した、というエピソードが紹介されています。一応あまり細かい内容は言わないでおきますが、そのエピソードから、子どもの頃は目に見えるもの、肌で触れるものを豊かな感性で自分なりに解釈することができていたのに、大人になるといつの間にか「表面的な情報」だけを受け取るようになってしまっている、ということに気づかされます。

 その観点からすると、いい路地botの写真は絵画ほど受け取り方の自由度は高くないかもしれませんが、同じ写真に対しても人によって様々な解釈がみられるのが面白いところの一つです。「通学路だったら最高」「親戚の家から帰る帰り道みたい」「夕方に通るとカレーの匂いがしそう」......これらは当然、写真から得られる情報ではなく、それぞれが自分なりの解釈をした結果でしょう。

 そしてそのような感想の通り、路地の写真は、その写真自体はたまたまとある日のとある時間帯に撮影されたけれども、基本的に24時間365日存在し続けるものであり、その中で様々な人の営みがあり、様々な姿を見せています。人によっては普通の写真でも、こんな風に、ただの1枚の写真から色々な背景や可能性に思いを馳せるのはとても楽しいことです。
たとえ、撮影技術やぱっと見の華やかさなどでは劣るようなものだったとしても、必ず刺さる人がいるのはそういう理由なんじゃないかなあ。

 冒頭の病んでいたときの話にもつながりますが、ものの見方を変えるきっかけさえあれば、面白さや楽しみは自発的に見つけられるようです。だからこそ、自由な発想や解釈って、アートに限らず大事ですよね。

 辛いことに立ち向かうためじゃなくて、面白いことを探すために、また外に出てみよう。私も改めてそう思います。

 また気が向いたら続きを書こう。



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